「彼女が好きだ」
「……いや、どうしたんですか急に」
事務所の責任者兼上司、日車寛見は重なる終わりの見えない残業についに壊れてしまったようだった。用の済んだ書類をファイリングしていたかと思えば、突然恋人が好きだと言い出したのだ。
思わず事務の手を止めて顔を上げると、彼は壁を見つめながらバチンバチンとホチキスで書類を綴じ始める。手元をほとんど見る事もなく狂いなく紙面の左上を正確に留めていく様はまるでロボットのようだった。
「すまない、取り乱した」
「いや、そんな取り乱し方あります? っていうかどこ見てんですか」
「壁だな」
しっかりしてください先生、と淡々と仕上がっていく書類をまとめて端を揃えると、彼が今度こそため息をついた。
「……なんかあったんですか?」
「何だ聞いてくれるのか?」
「聞いて欲しいアピールかと思ったので」
彼は、恋人を溺愛している。
先輩のオジサン弁護士に引きずられるように参加させられていた飲み会もきっぱりと断るようになったし、昼には書類に目を通しながら伸びかけた乾麺を啜ることもあったのに、最近はきちんと手を止めて詰められたお弁当に箸をつけていた。夜中に一人事務所に残って資料をまとめるのも控えめになった気がする。
事務的な会話がほとんどだった会話の中には女性は本当に花が好きなのかとか、オープンハートのネックレスは本当にNGなのかとか、そんな質問をされるようになった。
なにより張り詰めていたような表情が穏やかになった。これはなんとなく。
「……彼女が旅行に出た」
「旅行ですか? あ、置いていかれちゃったからヘコんでるとか?」
「いや、俺は元々行けないスケジュールだったんだ。だから、写真を送ってくれた」
「写真?」
「そうだ、それをさっき見た。画面が点いていたからうっかりと。意図的にじゃない」
ふう、と彼が頬杖をついて使い慣れた万年筆を指先で回す。ピ、ピ、とペン先に残るインクが机やらシャツに散っているのに気づいていないところを見るとやはり正気ではないらしい。
「………………馬鹿みたいに可愛かったな」
仮にも日本有数のエリートとは思えない語彙力だった。
「それでつい気持ちが溢れちゃったんですか?」
「そうだな、限界まで疲れていると口も軽くなるらしい」
「日車先生」
「なんだ、うるさかったか?」
「……シャツ、インクついてますけど」
──ガシャン!
180㎝の男が椅子から転げ落ちるとさすがに派手な音がするものだ。
今日はもう切り上げますか。
私からの提案に、彼はすぐに賛成した。