昵懇カイ師匠がグレッグミンスターにやって来るのはとても久しぶりで。
でもテッドが仕事もなく1日休みなのも久しぶりで。
「俺の方が後だったんだから、心置きなく稽古に励めよ」
そんな事を言うテッドに、僕は初めて稽古よりも優先したい事が出来たのだとその時自覚して、それが良い事なのか悪い事なのかわからずに言葉を紡ぐことが出来なかった。
途方に暮れる、を、多分初めて実感したのだと思う。
そんな僕の表情を見たテッドは何故だかとても嬉しそうで、楽しそうで。
「うんうん。その顔は良いなあ。
その顔に免じて、稽古が終わるまでお前の部屋で待っていてやるよ。1日掛かるならまあ、夕飯をごちそうしてくれ」
な、親友。
そんな事を言われたので、適わないなあと。
結局何の言葉も発していなかった僕は、自分の幼さを自覚して。
そして存分に甘えた返事を返したのだ。
「うん。ありがとうテッド」
グレミオさんに挨拶だけして、勝手知ったるリオの部屋に上がり込む。
いつ来ても整頓された、よく教育された子供の部屋。
子供にしては物の数が少な過ぎやしないかといつも思うが、リオの物欲の無さも知っているのでこの殺風景さも致し方無いとは思う。
リオが欲しがるものなんて、師匠との稽古の時間、読書の時間、俺との、時間。
全部物ではないし、最後のは俺の願望も少しだけ入っていたりもするのだが、あの顔を見てしまったらあながち間違いとも言えまい。
いつだって黒か白、1か0のリオが。そんなリオが何も言えずに、まるで迷子の様な。
思わず甘やかすような事を言ってしまったのも、これまた致し方無い事なのだ。
に、しても自分だって久々の休み。
疲れていないわけではないので、椅子ではなくベッドを拝借させてもらおう。
そんな事は無いだろうが、万が一にも眠ってしまわないように枕を背もたれに座り込み、時間潰しの一つも持ってこなかった自分の浮かれぶりに呆れつつサイドテーブルの上にあった本を勝手に開いた。
『クールークの歴史』
…海の話をしたからだろうか。
俺たちの敵だった国の話はしていない筈だけれど、こんな風にリオは時々予想できない行動を見せて俺を驚かせる。
こんなに長く生きてしまって、こんなに驚きを貰えるなんて、なんて日々だ。
せめてここはラズリルだろう?と思いながらも、どうせならばと嘗ては知ろうともしなかったその国の、今真実として語られる物語に目を向けた。
稽古を付けてもらっている最中は、心も体も研ぎ澄ませてしまい他の事は自分の中から追いやられる。
そのくらいでないと師匠にはついていけない。師匠は僕を見てくれない。
朝から昼食をとる事も忘れただの二人きり、瞑想から始まり、かかり稽古、引き立て稽古などを経て最後3本先取で締めた時には、礼をした直後に座り込んでしまわないように気を引き締めないといけないくらい消耗していた。
「腹が減ったのう…」
その細身のどこにそんなに入るのか常々疑問を抱くほど健啖家なカイ師匠が、ぽつりとそう零したのでグレミオの伝言をそこで伝える。
「師匠、家でグレミオがたくさんの料理と少々のお酒をご用意しています」
「あれの料理は美味い。馳走になろう」
お酒の「少々」の部分に残念そうにしながらも「うむうむ」と嬉しそうにしてくれているのが嬉しい。
「先に戻って伝えてきます!」
背中を伸ばしている師匠にそう言って、家目掛け走り出す。
そう、今日はテッドが家で待ってくれているのだ!1分でも1秒でも早く帰りつきたくて、先ほどまでの疲れも忘れて足を動かした。
飛ぶように走り去る弟子の背中を見ながら
「…もう少ししごいても大丈夫か」
カイが顎を撫でながらそんな恐ろしい事を呟いていたが、もちろんリオには聞こえなかった。
「ただいま!テッドは来ている?」
「お帰りなさい。ええ、坊ちゃんの部屋で待ってくれていますよ」
「わかった。ありがとう。師匠はもう少しで着く。
グレミオのいつでも美味しい料理をとても楽しみにしてくださっているよ」
言うが早いか、身を翻しご自分の食事も忘れ2階へと駆け上がっていく。
タタタ、と軽く足音を立てるのはノックを省くやり方で、その音で来訪に気付くテッドくんも、それを合図にする坊ちゃんも、どうかしていると思わないでもないのですが。
さすがに指摘する程野暮でもない。
あんな笑顔を見せられて、水をさせる大人がいたらそれは鬼か悪魔か、どちらかでしょう。わたしはまだ坊ちゃんに嫌われたくはないと思いながら、シチューを温めようと火を起こした。
「ごめん!遅くなった。入るよ」
階段を二段飛ばしで駆けあがり、ノックを省略して開けたドアの中には約束通りテッドが居て。
「!!」
今まで立てていた音という音を立てないように、僕は息まで殺しながらそうっとそれなりの重量のある木の扉を閉めた。
そこには、僕のベッドの上でとてもお行儀よく眠るテッドが。
閉じた目と、少し開いた口と、油断しきった寝息。
はじめて見る、眠るテッド。
僕はカイ師匠との修行の成果を全力で発揮して、気配を極力殺し、足音も衣擦れの音すらも立てないように気を付けて、そおっとベッドまで近づいて座り込んだ。
座ってから息を止めじっと耳を澄まし、
「ㇰかー…」
とこぼれるテッドの寝息に、起こさずテリトリー内まで入り込めたことに安堵してからゆっくりと呼吸を再開する。
ふふと笑い出してしまいそうな心を待て待て、ここで踊り出すのはいけないよと宥め、朝の瞑想を思い出しながら呼吸も心音も表面的な平穏を保つ。
その眠りを妨げないように。
この平穏を壊さないように。
これがグレミオだったらきっと「テッドくんが!」と感動の叫びをあげていたと思うし、クレオだったら「あの時のあの子供が…!」と喜びを噛みしめただろう。
「寝ているところ…はじめて見た」
僕は今、眠りを妨げない程度に自分を抑えられている自分を褒めながら、テッドの、同年代の子供の寝顔を初めて見て湧くこの感情に、名前なんてあるのだろうかと思いを巡らせていた。
もう思い出すことだって出来なくなっていたはずの子供の頃みたいな、守られているような、まわりで誰かに優しく笑われているような、そんな気配に包まれて安心してゆらゆら揺れて。
でも頭の隅の、いつも冷静で冷徹な部分が「いい加減起きろ」と警鐘を鳴らすので、故郷は燃えたではないかと思い出した瞬間目を覚ます。
無理やり覚醒したために「ふがっ」と我ながら残念な声が耳に届いたが、知っているような知らない天井に現状把握を優先して、ついでによだれを拭きながら半身を起こした。
「テッドは起きる時だって騒がしい」
俺を驚かせない様に配慮された声の大きさとトーンに、
「お前…いたなら起こせよな」
少しだけ熱くなる頬に気付かないフリをして、いつからそうやって居たのかにこにことこちらを眺めている親友に噛みついてみせた。
「疲れているのに来てくれたのが嬉しくて…申し訳なくて、でも嬉しくて。
ねえテッド、こんな真逆の二つの気持ちを何て言うんだろうね?」
「俺に聞くなよ…起こせよ…稽古は終わったのかよ…」
「稽古は終わった。とても気持ちよさそうに寝ていたから」
リオはもうずっと隣でにこにこと笑っている。
こう、少しはからかうような気配がしていたら救われる何かもあったけれど、純度100%の嬉しいだけの顔にもう俺はいたたまれなくてどうしようもない。
頬はますます赤くなる気配がしているので、何とか話を逸らそうと奮闘するが負けの色しか見えてこない。
これではリオに負けっぱなしのグレミオさんに呆れることだって出来やしないではないか。
「テッドの寝顔を見ていたら、僕まで眠くなってきて困った」
がんばって起きていたのだとそんな事を言うリオを、もういいやと思いながらベッドに引きずり込んだ。
「テッド?」
「眠いならお前も寝てしまえ。睡眠の秋だ。お前も寝顔をさらして、それでお相子ってもんだろう?」
「睡眠の秋?」
「そう、起きたら食欲の秋だ」
「うん、食欲の秋なら聞いたことがある」
くすくすと笑うリオに早く寝てしまえと、先程までは自分の下敷きにしていた毛布で二人の体を包んでしまう。
子供は温まったら眠くなる生き物のはずだ。
「テッドのね、寝顔を見て。戦の前に僕の寝顔を見て行く父の気持ちが少しわかった」
「俺の?」
「そう。僕の知っている寝顔は、酔ってその場で寝てしまったパーンとか、宴会で潰れる父の部下とか…」
「駄目な大人しかいないな」
「じゃんけんで負けた時、どきどきしながら挑むクレオを起こす役とか」
「一気に修羅場」
「クレオは僕相手だと頑張ってちゃんとしようとするんだよ。
同じ背格好の、テッドの、安心しきった顔を見て。ああ、これをあんな長い時間眺めていたんだなって」
「狸寝入りじゃねーか…テオ様…不憫な…」
「計り知れない父の心の一端に触れられたような気がして。それも嬉しかった」
父親大好きか!と言いたい言葉は喉でぐっとせき止めて、
「そうかそうか。俺に感謝だな」
そんな適当な事を言ったら「うん」と言いながら身を寄せてきたので。
まあいいかと広くないベッドの上、くっつきながらぽかぽかと温まり、秋の驚くほど早い夕暮れの気配の中、置いてけぼりにならないように二人同時、眠りについた。
「坊、いい加減飯を食わんか。筋肉にならんぞ」
部屋の中にぬるりと入り込んだカイ師匠にそう起こされた時にはとっくに日は落ちていて、
何時の間にか向かい合って寝ていたために俺の左頬とリオの右頬には同じような枕の線が。
「お揃いだ」と笑いながら食堂に向かえば、寝ていたのだと聞いたグレミオさんには
「わたしが呼びに行けばよかった!」
と何故か地団駄を踏まれたりしたけれど、それはそれとして温かいシチューをよそってくれた。
若者らしく寝起きでもくーくーとお腹を鳴らしたリオは、カイ師匠のために集められた秋の味覚を存分に味わえる品々をぺろりと平らげ。
「きんにく…?」
と自分の上腕二頭筋を確かめたりしていた。
これに関しては、テオ様は超えられない高い壁として君臨し続けることだろう。
交代で風呂に入り、どうせなら泊まっていけと客間を与えられた夜。
食事の間に消えてしまった頬の線をまた付けるべく横になっても眠気は一向に訪れず。
水でも飲むかと開けた扉には同じような状態のリオが。
お前もか。
夜の魔力で笑いの沸点が限りなく低くなってしまった俺達は、奇跡のようなタイミングで顔を見合せた事にどうにも笑えてしまい、声を上げない様にするのに苦労した。
二人でつつき合いながら階段を下り廊下を進む間に、こんな夜には水よりミルクが王道だ、となりわざわざ夜中に火を起こしたりしてしまう。
互いに寄りかかりながら揺らめく炎をみつめ、ぽこぽこ上がる白い気泡を眺め、
「秋なのに夜が静か…都会め…」
そんな事をうっかり口走ってしまったために、温まったはちみつ入りのミルクを持って、二人でリオの部屋へと帰る事になってしまった。
「夏は昼が煩いけれど、秋は夜が眠れない程騒がしい」
昼間に二人潜り込んだベッドの上、同じようにまた並んで座りそんな話をするのだった。
結局そのまま寝てしまい、朝食の席で前日の再来と言わんばかりに頬に同じ線を付けた俺達に向かい呆れるように、でも存分に笑いを含んだ声で言ったグレミオさんの言葉から、新しい1日がはじまった。
「まったく貴方たちは。あきれるほど仲が良い!」