サービスとマグロとバター フランスパンの切り身――というのは月島の言い方で、鯉登はその度にバゲットと訂正している――を一切れ手にとって、鯉登はこう言った。
「近頃、自分はMではないかという気がしてきた」
「へえ」
銘々に置かれた白い皿には握り拳大のバゲットが二切れずつ載っていた。それと角砂糖くらいの大きさで、黄みがかった乳白色のブロックが一つずつ。そのブロックがバターかマーガリンか、月島には判別が出来ない。特にどちらがいいというわけでもないが、どちらだろうかと、月島がじっとブロックを見ていると、気のない反応が面白くなかったのか、鯉登が手にしたバゲットを八つ当たりのようにむしった。
「聞いてるか?」
「聞いてます」
「何故かというと……」
「あ、まだ続くんですか」
「続くも何もまだ話し始めたところだぞ」
僅かに月島は周囲を気にするように目を泳がせた。今いるのは、自分一人だとまず選択肢に入らないような、小洒落たイタリアンである。「トラットリアだから、カジュアルな方」というのが鯉登の説明であったが、ではカジュアルでない方をなんと呼ぶのかまでは聞いていなかった。
休日に買い出しへ繰り出し、まずは腹ごしらえにしようと通りを物色していたところ、鯉登が目を留めたのがこの店の立て看板だった。両面が黒板になっている立て看板には白墨で「『本日のランチ』函館産イカと菜の花のペペロンチーノ」と書いてあり、特に鯉登が気に入ったのは「函館産」というところらしかった。
「ここにせんか?」
目を輝かせてそう提案され、特に異論のない月島が頷く、そうして入ったのがこの店である。店は壁面が赤煉瓦風の装飾で、席は半ばまで埋まっており、やはりというかなんというか、女性客が多かった。そしてその中の幾人かは、ドアを開けて入ってきた長身の鯉登に目を奪われているようだった。席についてメニューを見ている間も、店員に注文している時にも、こちらへとちらちら向けられる熱い視線を月島は感じていた。見目の良い鯉登がそうして目を引くのはいつものことなので、そこに対し、今更特別な感慨はなかった。しばらくすれば、女性客らも自分たちのお喋りへと戻るであろうし、こちらは空腹を満たすことに集中すればよいのだ。
しかし、そういった状況の店の中でするには、その話題はいかがなものか、と少々思わざるを得ない。それで適当に流そうとしたのだが。
「でな、そう思ったのは……月島、バター塗らんのか」
「え?」
バゲットを噛みちぎろうとしていた月島は口を開けたまま動きを止めた。ではこの小さな立方体はバターなのか。月島は一旦バゲットを口元から離した。
「塗ったほうが美味しいだろう。いや、素材の味を楽しみたいというなら止めないが……」
「ああ……なんかこういうパンって固くて、ガリガリして塗りにくいので……」
「ああもう~、貸せッ」
鯉登が手を伸ばしてぱたぱたと要求してきた。仕方なく月島はバゲットを渡す。受け取ったバゲットを鯉登は2つに割ると1つを月島の皿へ戻し、手元の1つをさらに半分、おおよそ一口大にむしった。むしった片方は自分の皿へ置いて、代わりにバターナイフを手に取り、乳白色のブロックの角を削り取るとむしり取った面にぺたぺたと塗りつけてみせる。
「ほら、こうすれば普通に塗れるだろう?中は柔らかいんだから……」
「……」
物言いたげに押し黙る月島に鯉登は首を傾げた。
「……?あッ、今のは別に変な意味じゃないぞ!」
「いやわかってますが」
「じゃあなんだ今の間は……」
ぼやきながら鯉登はバゲットを差し出した。月島が受け取ったそれを口に放り込むと、小麦の香ばしさと甘さに加え、じゅわりと染み出したバターのコクが口中に広がり、なんとも味わい深かった。どうしてもバターが無くては食べられないかというと正直そこまでではないが、確かにバターがなかったら物足りない味だったかもしれない。
――この人はこういう手間を惜しまないんだよな……人の分までやりたがるとは思わなかったが。
無言無表情で咀嚼する月島を気にして、鯉登が尋ねる。
「どうだ」
「美味しいです。塗ったほうが。多分」
その言葉に、鯉登がにこっと口角を上げた。
「あなたがそんなに世話好きとは思いませんでした」
「それはお前があんまり面倒がるから……他のやつなら好きにさせるが」
そう言う間にも、鯉登は自分の皿に置いていた残りのバゲットの欠片にバターを塗っており、それを月島の皿へ載せてやった。
「……はあ」
「なんだ」
「いえ……」
月島は歯切れ悪いのを誤魔化すように肩を竦めた。世話を焼くのは慣れっこだったが、世話を焼かれるのは、どうにも落ち着かない。
ちょうど店員がメインの皿を持ってきた。こちらも白い皿と鉢の中間のような器で、触れると温かく、出来立てのスパゲッティが盛り付けられていた。ニンニクの匂いたっぷりの湯気がもわりと立って鼻をくすぐり、胃袋を刺激する。
カトラリーの入った箱から月島はフォークとスプーンを取り上げて鯉登に渡すと、自分の分も取り上げて早速食すことにした。
オリーブオイルをまとったつやつやのスパゲッティに、リング状のイカ、鮮やかな緑の菜の花が目を引いた。お目当てのイカにフォークを刺そうとすると、ぐっと反発があって、身が締まっていることが伝わってくる。構わずブツリと突き立て口に入れてみると、意外にも容易に噛み切れた。淡白ながら、噛むほどに甘みを感じる。菜の花のほうも、歯応えを残した程良い茹で加減で、イカとは違うボリボリとした食感が抜群だった。
「うん、美味い」
「美味いですね」
頷きあって、しばらくはお互い食べることに集中していた。半分程度を腹に収めたあたりで一息ついて、月島は水を一口飲んで尋ねた。
「で、なんでしたっけ」
「ああ、そうそう、もしかしたらMかもしれんと思って……」
「ひっぱたいてほしいんですか?」
「何をいきなり恐ろしいこと言ってるんだ」
「じゃあシカトでもします?」
「やめろ泣くぞ」
鯉登が思い切り不満そうに顔をしかめるので、月島は窺うように上目遣いになった。その方面は詳しくないので、女王様と下僕が出てきて、鞭で打つか蝋燭を垂らすか放置プレイするくらいしか思い浮かばない。
「Mってそういうのを喜ぶ人のことじゃないんですか」
「一般に被虐趣味とは言うがな」
「何を持って自分がMだと思うんです?根拠でもあるんですか」
「うーん……」
こうも感覚的なことに根拠を求められても、と鯉登は首を捻ったが、自分なりに思い当たる節、というのはあった。片手を頬に当てて思い出すように呟く。
「月島に冷たい目で見られるとぞくぞくする……」
「うわぁ……」
思い切り半眼になってから、月島は思い直した。
「そうか、こういう目がいけないわけですね」
「いけないというか……いけるというか」
イカをフォークでツンツンつつきながら、鯉登の口元はどことなく綻んでいる。その顔をじっと見つめて、月島は口を開きかけたものの、ざくっとフォークで菜の花を突き刺して己の口に詰めた。もぐもぐと噛み砕き、飲み込んでからもう一度口を開いた。
「……以前、上司が話していたんですが、SはサービスのSなんだそうです」
「誰だその上司は。もしや……」
「はあ、鶴見さんですけど」
喉に餅でも詰まらせたような呻き声を上げ、鯉登が羨ましげに睨んだ。
「月島、お前、鶴見どんとそのようなお話をッ……」
「残業続きでお互い疲れてた時でしたからね……」
そうでなければそんな話題は出てこない。
いつだったか、他の社員が退社した後の静かな職場、連日の残業で疲労が蓄積した頭を半分惰性で動かしていると、残っていた鶴見がふと話しかけてきた。
「SはサドでMはマゾというが、私はちょっと違うと思うんだ」
「はあ」
何故そんな話をするのか、と尋ねるのも面倒で、別のデスクにいた月島は書類とPCの画面を見比べながら適当に応えた。
「言葉の意味を問題にしているわけじゃない。人との関わり方は、必ずしも痛みが伴うものばかりではないんだから、主体的か受動的か、というところのほうが重要じゃないかと思う」
「そうですか」
腕を組んで、鶴見は椅子の背に凭れながら一方的に続けた。
「相手に干渉したい、というのは主体的な欲求だろう?相手に関わりたい、何かしてあげたい……これはサービス精神と言い換えてもいいと思う。サディスティックな行為も、相手が喜ぶからあえて痛みを与えてあげるのだと考えれば、いっそ奉仕の一環とすらいえる。サービスとサーヴァントは語源が同じだし」
「語源……」
「ということはMは干渉されたい、関わってもらいたい、そういう受動的な人間だな。サービスしたいSに対し、待ちの姿勢を好む対義語のMがほしいところだ。月島は何かアイディアはあるか?」
「アイディア……」
仕事を早く終わらせるアイディアが欲しいんだが、と回らない頭が不満を募らせる。Mで始まる受動的な何か、ろくに考えず思い浮かんだ単語を月島は口にした。
「……マグロ……?」
「月島……」
手遅れの患者を前にした医者のように、鶴見が首を振った。話を振っておいて気の毒そうな目で見るのはやめてほしい。
「さすがに、それは……」
「すいませんね。そもそもなんでこんな話題を出してきたんですか」
「ん?月島って、佐渡出身だったなぁと思って」
「それこそどうなんですか……」
発想が親父ギャグレベルである。どうやら鶴見も相当に頭が働いていないようだった。
結局これ以上の会話も仕事も不毛と判断し、適当なところで仕事を切り上げ、帰りにちょっと一杯……などという余裕もなく、さっさと帰って寝たのだったが――。
「その理屈でいくと、鯉登さんはやっぱりSでしょうね」
人のパンにまでバターを塗ってよこすくらいなのだから。サービス精神旺盛といえるはずだ。それにマゾヒストもマグロも似合わない。
「ふぅん……」
鯉登は腑に落ちない反応を見せると、スプーンを添えずフォークだけでくるくるとスパゲッティを適量巻き取り口に運んだ。器用で、こんな所作ひとつにも、どことなく品の良さを月島は感じた。
――間違いなくSだろうな。サービスではないほうの意味でも。
鯉登が口元を花のように綻ばせながら、その細めた瞳の中にぬらりとした光を浮かべていたことに月島は気づいていた。
彼が「ぞくぞくする」のはきっと、自分に冷たい目で見られるからではない。あれは冷ややかな目で見てくる反抗的な、軽蔑的な態度をとる男を、組み敷いて思うままにする時の想像に心踊らせているのだ。
その時の自分がどういう顔をしているのかは、自分自身には知りようもないというか知りたくもないことだが、鯉登にとってはさぞや嗜虐心を掻き立てる顔をしているのだろう。
ちょっと悪趣味だよなこの人、と思いながら、自分を恋人にしている時点でとっくに悪趣味だったと月島は妙な納得をした。
食後のコーヒーは濃いめで、スパゲッティのオリーブオイルを洗い流してくれる力強い香りと味わいだった。
口の中はすっきりしていたが、表情はすっきりしていない鯉登が、コーヒーカップから月島に目を転じた。
「さっきの理屈について言いたいことがあるんだが……」
「はい」
「月島だって十分にSだと思う」
「そうですか……?」
月島は自分の行いを振り返るように、視線を上向けて天井を眺めていたが、心当たりがないという顔をした。思わず鯉登は片手で口元を覆った。
――自覚がないのか。
あれほど尽くしたがりなくせに。危なっかしいほど自分を差し出してしまえるのに。
「やばいなお前……」
「よくわかりませんが、あなたに言われるのはちょっと……」
どういう意味だとムッとしたが、言いたいことはまだあった。身を乗り出して、鯉登は言い募った。
「それにな、私がお前に何かしてやりたいと思うのを、サービス精神で片付けられるのは不本意だぞ」
「サービス精神ではないんですか」
「違う」
鯉登は真っ直ぐに月島の目を見て、真剣そのものといった顔で言い切った。
「愛だ」
「愛だよ月島」
職場を出る時、鶴見がこちらを振り向きざま、そう宣った。
「なんだかんだ言ったが、結局はそれなんだ。愛したいか愛されたいか」
言葉遊びを楽しんだのか、帰宅出来ることからくる喜びか、微笑みながらいつものように、鶴見に煙に巻かれたことを月島は急に思い出した。
呆けた顔で月島が目をぱちりぱちりとしていると、鯉登が焦ったそうに歯噛みした。鼻の頭には皺が寄っている。
「おいっ……」
「聞いてます」
タイプの違う上司たちの言うことが、芯の部分では妙な重なりを見せたので、狐につままれたようだった。しかし、その不思議な気持ちをどう言えばいいのか、どう反応したら良いのかが月島にはわからなかった。
ただ、相手のパンにバターを塗ってあげるという行為はどうやら愛からくるものだったらしい。
そう思うと、今手の中にあるコーヒーの香りよりも、さっきまで食べていたスパゲッティに絡むガーリックオイルの香りよりも、一番最初に口にしたバターの香りが、にわかに重要性を帯びて蘇ってきた。
「じゃあ……もっと味わって食べたらよかったですね」
「いやそこまでのものではないが」
たどたどしく口にした月島の発言を鯉登はあっさり一蹴した。
「月島だって家でトーストの時は私の分も塗ってくれてるだろう」
「そりゃまあ……ついでですし……」
「ついで」
鯉登がじとっとした半眼になった。
「自分ひとりならそもそもバターなんて塗りませんけどね」
「また面倒くさがりおって……ん?」
頬杖をついてぶつぶつ口の中で文句を言ってから、鯉登は小首を傾げた。
――月島ひとりの時は出てこないバターが、私がいると出てくるのか。
「……ふふーん……」
急に鯉登がニマニマしだしたので、月島が怪しむように眉根を寄せた。
「なんです……」
「いいや?……あ」
白々しく逸らされた鯉登の目が一瞬見開かれ、何かを思いついた顔になった。ぱっと月島に向き直って口早に己の発見を報告する。
「そうだ、マスターはどうだ?」
「え?」
「対義語にくるMってやつ」
「……ああ、なるほど」
サービスしたいS、つまりサーヴァントの対になるのは、奇しくも頭文字がMのマスターではないかと、そういう主張のようである。
確かに、奉仕する者、奉仕される者という関係性からすると納得度が高い。この回答であったならば、恐らくは鶴見も百点、という反応をみせたであろう。
――それなら、この人は確かにMかもしれない――
「でもそれだと私はMではないな」
「えっ?」
予想に反した言葉に、今度こそ月島は意表を突かれて目を丸くしてしまった。驚いて少し背筋が伸びたくらいだ。
お坊ちゃん育ちなところも、堂々として態度が大きいところも、人を動かす側になりがちなところも、それでついてくる者がいるところも、どれをとっても鯉登には「マスター」の素養が十分あるではないか。こんなに尽くし甲斐があるというのに。
「というか、それでは困る。私がMだとお前がSになってしまう」
「必ずしもそうとは限らんと思いますが……何か不都合が?」
「んん……」
鯉登は不服そうに口を尖らせた。月島がコーヒーカップを傾ける間も唸るばかりで説明がない。
「別に私は従者でも構いませんよ」
「滅多なことを言うな」
少々憤慨した様子で鯉登が再びテーブルに半身を乗り出した。周囲を一瞬窺うようにしてから、月島に視線を据え、声を潜める。
「私は嫌だぞ。寝室に上下関係を持ち込むのは」
「あなたが上なのに不服なんですか」
「月島、今は体位の話はしてない」
「私もしてませんが」
ひそひそ話とはいえ、そっちこそ滅多なことを言うなと言いたい、とばかりに月島が仏頂面になる。前のめりになっていた鯉登は姿勢を正すと、こほんと咳払いした。
「どっちがSだろうがMだろうが、私は月島と対等でいたいと思ってるんだからな」
「……私にはそっちのほうが難しいです」
「まったく!お前こそS気質が染み付いとるんじゃないか?」
月島としてもそこは否定しづらかったのか、黙って抗議する目付きになった後で、ぷいとそっぽを向いた。呆れて鯉登はため息をついて頭を掻いた。
「……まあ、そういうところもお前らしいか……」
――そういう頑なに絡まったところをほどいていくのもまた、楽しいものだしな……。
ふ、と鯉登が片頬に笑みを滲ませると、横目にそれを見た月島は、なんともばつが悪そうに目を薄めた。