まんなかナントカ 携帯電話の画面をこちらへ向けてきた鯉登は、パァッと音がしそうなほどの笑顔をしていた。
「見ろッ、月島!」
「見えません」
ぶつける気か、と思うほど近くに持ってこられては見たくとも見えない。
「近すぎます……俺でなかったらとっくに鼻に当たってますよ」
「自虐か月島ァ!」
「で、なんなんですか」
そうだった、と携帯をやや月島の顔から離し、鯉登は画面の中心を指差した。
「これ! 読んでみろ」
「はいはい……えー……」
指し示された一文にはこうあった。
『鯉登と月島のまんなかバースデーは8月12日❤』
ファンシーな色と書体でもって書かれたその文章の意味が、俄には理解できず、月島は眉をひそめた。
「まんなかばーすでー……?」
「そうだ!」
何故か得意げに鯉登は胸を張った。月島はそんな鯉登に目をやり、それから改めてそのよくわからない横文字へと目を移した。
何やら全体的に可愛らしい色遣いの画面には、「まんなかバースデー」なるものについて他にも記載があった。あなたと推しのまんなかバースデーはいつ?お友達やコンビもしらべてみてね!といった宣伝文句が並んでいる。女児向けのページではなかろうか、と月島は余計なことを考えた。
「二人の誕生日の真ん中の日ということですか……それって何か意味あるんですか?」
「お前はまたそういう情緒のないことを……」
口を尖らせて鯉登が不服を申し立てる。しかし、機嫌を損ねたのは一瞬だけで、うきうきと語りだした。
「この日は、私とお前だけの記念日なんだ。他の誰かとでは成り立たない。特別な日だろ」
「誕生日が同じ人と付き合えば成り立ちますよ」
「屁理屈ッ」
嗜めるように一喝し、鯉登は携帯電話を引っ込めた。
「私が冬生まれで、月島が春生まれだから、夏に記念日があるのはちょうどいいだろうが」
「そういうものですか」
増えたのが祝日だったなら、休みが増えたといって喜ぶのは理解できるが、ごくごくプライベートな記念日が増えて、そんなに浮かれるのはどういう理屈なのか、月島にはピンとこないままだった。
そんな月島に、じろりと鯉登が目を向けて腕組みをした。
「月島……この前、私が花を買って帰ってきた時、なんて言ったか覚えてるか」
「?」
花を買ってきたことは覚えている。派手なものでなく、趣味の良い花を二、三本取り合わせたものだった。それは覚えているが、どういう言葉を交わしたかは思い出せない。
そもそも、何のために花を買ってきたのだったか。
顔色を読み取って、鯉登が仕様がないと言いたげに溜め息をついた。
「覚えとらんか。今日は何かのお祝いか、記念日だったかと言ったんだぞ」
「そういえば」
指摘されて、記憶が芋づる式に引き出された。確かに、そのようなことを月島は訊いており、別にお祝いや記念日ではない、との返事だった。いい花だなと思ったから、と言っていただろうか。何か祝い事のために買ってきたのではなく、買いたいから買ったという、極めて単純な動機ではあるが、そのおかげで、数日は食卓が華やいだものだった。
「何もない日に花やケーキを買ってきてもいいだろ。でも月島はそうでもないみたいだから」
「すみませんね。うちは用もなく花を買うような家ではなかったもので。ケーキだって、それこそ誕生日くらいしか……」
「それだ、それ」
ぱっと腕を解いて、鯉登は指を振った。
「別に誕生日じゃなくたって、ケーキは食べていいんだ。でも月島は理由が無いとどうにも腰が重くなりがちだし……口実にできる日が増えるのはいいことだろ」
今度は月島のほうが腕組みをした。それはいいこと、なのか?
首を傾げて露骨に不審がる月島に、鯉登は肩を竦めてみせる。
「無理強いはせん。私は引き続き何でもない日にもしたいようにする。お前に見せたいとか食べさせたいとか、それだけでも私には十分な理由だから」
微かに月島の目が丸くなった。鯉登は壁に引っ掛けているシンプルなカレンダーの前に立ち、何かを書き込み始めた。
その背中を見つめて月島は思い出していた。いい花だと思ったから、その後に鯉登は何と言っていたか。
(月島にも見せようと思って)
あ、と声には出さず、小さく口が開く。
それだけの理由で、彼は特別なこと――月島にとっては特別だ――もやってのけてしまう。月島が感じるような抵抗をものともせず、軽々飛び越えてしまうのだ。そして、なかなか抵抗を飛び越えられずにいる月島のために、打開策として「踏み台」を用意しようとしてくれている。
「こうなれば秋にも何か記念日がほしいところだな……」
「鯉登さん」
「ん?」
振り返った鯉登の肩越しにカレンダーが見えた。8月12日の欄には流麗な筆致で『まんなか』と記入されている。これほど達筆な『まんなか』という字にお目にかかったことはないが、果たしてこれだけを見せられて、意味のわかる者は自分たち以外にいるのだろうか?
「その、まんなかナントカって、もうじきですよね」
「まんなかバースデーな」
「……折角ですから、どこか旅行でも行きます?」
「!」
衝撃を受けた鯉登の顔と身体が固まった、かと思いきや、今度はわなわなと小刻みに震えだした。それに気づかず、俯いている月島はぶつぶつと呟いている。
「ちょうど盆休みの頃ですから、泊りがけでも……いや、繁忙期だからどこも高いか」
「金なら出すッ!」
「声デカ……自分も出しますけど……」
手で片耳を押さえて渋い顔の月島とは対照的に、鯉登は見るからにご機嫌な顔で飛び跳ねるようにカレンダーへ向き直ると、『まんなか』をキュッと大きな丸で囲んだ。