襖を開けると、畳に閣下が落ちていた。
――いや、この時はまだ閣下ではなかったか。
この頃の彼は、尉官から佐官へ進んだところで、率いる部下が増えたこと、立場の重みが増したことに、何やら思うことが多いようであった。
組んだ両手を枕にして、彼は仰向けに寝っ転がっていた。眠っているのかと思ったが、目はぱっちりと開いていて、天井をじっと見つめていた。
休みの日であるから、二人とも着流し姿である。鯉登はさらに上から羽織を纏っていた。羽織は質の良いもので、薄手だが温かかった。
月島が入ってきたことにも鯉登は何の反応も見せることなく、ただただ上を見ている。
「お茶にしませんか」
湯呑みが二つと干し果物の小皿が載った盆を持ち上げてみせながら、月島は声をかけた。
「うん」
返事はしたが、鯉登は起き上がろうとはしない。月島は文机の前に腰を下ろし、盆を置いて、鯉登の傍らに座り直した。
「少佐殿」
「うん……」
生返事だ。
しばらく正座のまま控えていた月島は、突然ごろりと横たわった。さすがに鯉登も顔を向けた。
「すまん、今起き……」
「なにか面白いものでもあるんですか」
鯉登の隣に並んで、月島が天井を見上げながら尋ねた。鯉登が見上げていた自室の天井は、ごくごく普通の家屋にある竿縁天井と呼ばれるもので、細い竿を通した上に板を渡したものである。何の変哲もない、ただの天井である。少なくとも月島にはそのようにしか見えなかった。
体を起こしかけた鯉登は、困惑を見せつつ再び寝そべった。少し迷ってから、天井を指さした。
「……天井の形、升目みたいに見えるだろう。見ていると、演習で使う地図が思い浮かんでくる。右から四列目、真ん中よりやや上、板の節目が黒くなっているところ、あそこが青島」
それは先の戦争で日本がドイツ帝国より奪った町の名だった。名前でわかるように、ドイツが支配する前は中華民国の土地であり、つい近年北洋政府へ返還している。
「左下の交差しているところが南京、二段上へ行くと……」
次々と鯉登は都市の名前をあげていく。星座を探すようなロマンティックな行為ではなく、要衝を指差し確認する、事務作業に近い。月島は一通り聞いてから、ふむ、と頷いた。
「では、端から二列目の交差している部分が奉天、右斜め下の渦模様あたりは旅順ですかね」
「さすが月島!」
あっぱれと手を叩かんばかりに鯉登は喜んだ。
「打てば響くとはこのことだな。部下の若いのは、嫁さんに地理の話をしても、ちっとも伝わらなくて閉口したとぼやいとったが……」
そりゃあそうだろう、と月島は見知らぬ嫁に同情した。行ったこともない外国の、それも文化や風土などならともかく地理など説かれても、嫁からしたら面白いはずもない。遥か遠い海の向こうのことよりも、今手の届く範囲の家の中のことのほうが、ずっと重要なのである。月島とて、前の職業柄そのあたりのことは頭に入っているだけで、そうでなければちんぷんかんぷんだったろうなと思った。もっとも好きで覚えたわけではなかったが。
「教えてやろうとすると機嫌が悪くなるから、家では仕事の話は禁物なんだそうだ」
再び両腕を枕にし、鯉登はくすくすと笑った。その笑い方は、話の通じない嫁を持った部下を馬鹿にするような悪意のあるものではなかった。むしろ微笑ましいものとする温かさと、自分には話の通じる連れ合いがいることを自慢するような得意げなものだった。
「遠くの国の地政より、米の値段のほうが重大事なんですよ。家にいると」
ゆっくり起き上がりながら月島は言った。
「そんなものか」
米の値段など、生まれてこのかた気にしたこともないであろう鯉登は首を捻った。
「例えば私が、どの店で米が安くて、どの店だと大根が安いとかいう話をしてもつまらないでしょう」
「う、うーむ」
目を閉じて、悪夢にうなされる人間のように鯉登は唸った。確かに、鯉登にとって興味がそそられる話題ではない。しかし月島が話してくれることならなんでも聞きたいという思いもあった。彼はあまり自分から積極的に話題を提供してくれるほうではないからだ。思わず話したくなるほど月島が心を動かされたことであるなら拝聴したい。
月島が正座に直ると、鯉登は唸るのをやめてごろんとうつ伏せになった。ずりずりと匍匐前進で接近し、月島の腰に抱きつくと、膝に頭を乗せて言う。
「仕事の話ができる家内がいて私は果報者だな」
「……そうでしょうか」
「なんだ?」
月島の声の中に潜む翳りを敏感に察知し、鯉登は目をあげた。
迷うような色を浮かべながら、月島は口を開いた。
「……家にいるときくらい、仕事のことを考えずに済むなら、そのほうがいいのではありませんか。なまじ仕事の話ができても……」
自分といても、心が休まらないのでは、という言葉を月島は呑み込んだ。
何か非常事態が起きれば、すっ飛んでいかねばならない立場なのだから、せめて少しの間でも安らぎを与えてやりたい。だが、自分といると、鯉登はそれが得られないのではないかと思ったのだ。
しかし心配に反して、鯉登は一蹴した。
「何を馬鹿な」
ふん、と顔を背けて、鯉登は月島の膝に頭を押し付けた。
「私は月島がいてくれて本当によかったと思っている。好きで月島といるんだから、それが一番いいに決まっている。お前にしかできないことなんだぞ」
ごろごと頭をこすりつけてくるのを、まるで動物だなと思いながら、月島はその毛並みのよい頭を撫でてやった。
「それに私は根っからの軍人だ。これ以外の生き方を知らん。仕事の話ができないなんてつまらない」
「そんなこと……」
撫でる手が止まった。
「あなたならなんだって出来ますよ。時勢が許すなら、今からだって……ですから、そんなこと言わないでください」
「ならお前もそんなこと言うな」
一瞬、鋭い目付きを向けてから、鯉登は再度ごろごろと頭を転がして甘え出した。
「でもそうだな、たまには仕事から離れて息抜きするのもいいかもしれん。よし」
むくりと体を起こすと、片膝になって鯉登は文机の上を顎で指した。
「一服したら散歩に行こう。桜はまだだが、雪はだいたい解けた。もう春だ」
「わかりました。冷めてしまいましたから淹れなおして……」
「いい、いい。早く飲んで早く行こう!」
鯉登はもう待ち切れないという様子で、いそいそと文机に寄って湯呑みを手にとっている。
「あ、私も行くんですか」
「当然だろう!」
茶をこぼしそうな勢いで即答され、月島は面食らった。折角の息抜きなのに、と呆れたが、自分がいても鯉登の息抜きになるということは、存外嬉しいことに思えた。
「わかりました、お供仕ります。右腕ですから」
「うむ、その調子だ」
鯉登が目を細めて湯呑みをぐいと飲み干した。