内助の功が龍を作る 次の進級が決まった。
あの金塊騒動から十五年あまりが経ち、次に座るのは早くも少佐の椅子である。
「多忙」を口実に、宴席にあまり顔を出さない鯉登も珍しくその日は内々の祝賀会に出席し、聯隊の者らや、聞きつけた同期らとの旧交を温めた。口々に祝福の言葉をかけ、酒を注いでくれる見知った同僚たちを前に、鯉登は至って大真面目に答えた。
「私は家内のためにここまでなったのだ」
居並ぶ同僚たちは照れるやら呆れるやら。「家内」の正体を知らぬものは羨望と尊敬の眼差しを向け、正体を知るものは苦笑いをし、げに素晴らしきは内助の功かと囃し立ててさらに場は盛り上がった。
ところが、この言葉を聞かされた当の家内はといえばこの反応である。
「はあ?」
思いきり眉をひそめて、詐欺師でも前にしたような顔になった。照れ隠しというわけでもなさそうだった。
「なんじゃその反応は。今日一渋い顔じゃないか」
「渋くもなりますよ……」
折角の祝賀会も適当に切り上げて帰ってきたらしい鯉登を迎え、着替えを手伝いながら月島がぼやいた。預かった外套は衣紋掛けに通し、軍帽は衣装棚の所定の位置へそっと戻す。そうしている月島に、背後から鯉登が両腕を回した。
「お前のために出世したのだと言われるのは、嬉しくないか」
服や息から、酒と煙草と、僅かに白粉の匂いが漂った。元軍人である月島にとって、それらはどれも馴染み深い匂いであったが、ここのところはそういったものから距離を置いていたせいか、久しぶりに感じたそれらはあまり良い匂いとは思われなかった。
「着替え、終わらせてからにしてください」
口をへの字に捻じ曲げて、すごすごと鯉登は月島から離れた。脱いだ軍衣を渡すと、月島は襟や袖口を検分して、汚れや傷みが無いことを確認し、てきぱきと衣紋掛けへ通して衣桁へ引っ掛けた。軍袴も同様に。
代わりに月島から渡された着物を鯉登が身に巻き付けていると、さっきと逆に、月島が後ろから腕――ではなく帯を回して、腰のところで手早くまとめてくれた。
「はい、出来ました」
「ありがと……」
「なに拗ねてるんですか」
「別に、拗ねては……」
実際のところ、鯉登も真剣に拗ねてはいなかった。つれない態度を取られるのは出会った頃から変わらない。いや、一緒に暮らして十年近くになろうというのに、変わらないというのもいかがなものか?
――これでもほんのちょっとは気を許してくれるようにはなった。
以前は相談してこなかったような些末なこと、献立のことや買い物のことを尋ねてくるようになった。二人きりの時に、向こうから身を寄せてくれることが増えた。自分より先に眠ってしまう夜もあった。
「なら、このお口は直しましょうね」
そう言って月島が人差し指を、ちょん、と鯉登の唇に当てた。
――そう、こういう触れ方も、してくれるようになった――
酒で火照っていたことを急に思い出したように、肌が熱くなった。鯉登は口を開けると、無造作に触れてきた指をはむ、と含んだ。指を咥えられた月島は一瞬目を丸くしたが、それ以外には狼狽えることもなく、じっと鯉登を見つめている。
「随分と酒をお召しになったみたいですね」
「…………」
まったく驚くほどあっさりと、月島の指先を咥えることに成功した。というのに月島は落ち着いている。
酔っ払いの奇行だと思っているのか?確かに酒は飲んできたが。私はそれほど酒に弱くない、月島は知っているじゃないか。あむあむと柔く噛みながら、目だけで抗議する。
「お腹減ってるんですか? 料理が足りませんでしたか?」
そういうことじゃない。
むっと睨むと、食んでいた指先を舌でべろりと舐め上げた。月島がびくっと震えて手を引っ込めたが、鯉登は逃さずその身体を両腕の中に捕らえた。
「……月島が足らん」
あの場には月島がいなかった。物足りないことこの上なかった。祝ってくれた同胞らには申し訳ないが。
「お前のために偉くなったんだぞ」
「また、そんなこと言って。部下たちのためでしょう」
「う~~~、それはそうだがそれだけではなく……」
「わかってますよ」
――いいや、それはわかっている「つもり」なだけだ。
十年以上一緒にいて、未だ月島は鯉登を年下と思って、少々侮っているところがある。鯉登は鯉登で、その油断をしばしば利用させてもらうこともあるが、大半は口惜しい気持ちにさせられた。
月島のために偉くなった。
あの金塊騒動の後始末で、部下たちが、月島が不当な処罰を受けないように、後ろ指をさされることがないように、一番早く確実な手段は鯉登が進級することだった。組織にとって利益をもたらす、価値のある存在となることだった。
始末をつけた後も、新しい部下たちを率い、まとめあげ、より精強な国を守り抜く組織を作り上げるために、理想へ近づく手段は変わらなかった。組織の中で望みを叶えるならば力――地位を手に入れることだ。出世競争など馬鹿馬鹿しいが、放り出してしまうわけにはいかなかった。
そのことを、月島があまり心良く思っていないことを、鯉登は知っていた。鯉登が「月島のため」と思うところを、月島は「自分のせい」と取りがちだからだ。進級を祝う気持ちがありながらも、鶴見中尉の計画に巻き込んだこと、その後始末をさせたことに、月島はずっと負い目を感じている。
腕の中で身動ぎをした月島からは、湯浴みの後の、水っぽい汗と石鹸の香りがする。欲と俗にまみれた宴席から戻ってきた鯉登には、清々しさを覚えるものだった。遠慮がちに抱き返してくる月島が、鯉登の進級に複雑な思いを抱えるのは、進級に伴い背負うものが増える鯉登を心配しているからだということも、鯉登にはわかっている。労るように背を撫でてくるものだから、わかってしまう。
でもどうせなら、もっと素直に喜んでほしいものだ。
この道を選択したのは自分である、と鯉登は断言出来た。鶴見中尉との出会いや、誘拐事件や金塊騒動は自分を変えたが、それでも本気になれば、途中でおりることもできたはずのこの生き方を、選んだのは間違いなく己の意思だった。他人に委ねたことは一度もない。
父や兄に恥じない男でありたい、道は違えど鶴見も望んだように国を守りたい、そうした己の願望に対する「解」もまた、軍での出世にあったのだ。
だから、「月島のせい」ではない。「月島のため」、そして「月島のおかげ」で、ここまでやってきた。
この違いを、月島がわかってくれるようになるには、まだまだ少佐程度では足らんのだろう。
「お前のためにここまでなったぞ」と言って、恥じらいながらも誇らしく笑ってくれるようになるには、いったいどこまで登ればよいのやら。
「なあ?」
「?」
突然脈絡なく問いかけられた月島は、不思議そうな顔で鯉登を見上げて、何故か笑われた。