「眠れない…」
ぽつりと呟いたその声は、月明かりに照らされた部屋の隅に残る暗がりに吸い込まれていく。
窓の外には明るく丸く、黄色い月が浮かんでいて。ふと脳裏に、月とは真逆の、太陽の光をまとったように笑う執事の姿が思い浮かんだ。
ベッドの中から抜け出し、素足を履物に落として部屋を出る。かちり…と扉の閉まる音が広々とした廊下に響いて、少し体を縮こまらせた。
「いかがいたしましたか?」
ゆっくりと静かに、長い廊下の絨毯を踏みしめて進むと、その先にある扉をそっと開く。柔らかな照明の下で書類に伸ばしかけた手を止め、執務室でその日の仕事を片付けていた彼が顔を上げた。
かすかな灯を反射してその瞳が優しく輝くさまに、もやもやと胸の奥にわだかまっていた不安がほどけていくのが分かる。
「眠れない」
安堵感に包まれながら、部屋で独り言ちた言葉を繰り返せば、太陽のようにまばゆく笑って、
「子守歌でもお聞かせいたしましょうか?」
そう告げる言葉に頷いた。
* * * * *
「眠るまで傍にいて」
不安なことがあると眠れなくなる主人がベッドに戻り、体を横たえたことを確認すると、その傍らで用意した椅子に座って、月明かりの中穏やかに歌い始める。
爪弾く弦の音に合わせて歌いながら、まぶたを閉じたその横顔を見つめる。歌声に愛おしさを込めて。自らの温もりが伝わるように。大切に歌声を響かせて。
部屋に満ちた月の光がひそやかに雲間に隠れるころ、かすかな寝息が聞こえ出したところで、子守歌の代わりに歌った曲の、最後の一音を鳴らし終えた。少しの間その姿を見守って。
小さく椅子が軋む音が部屋に響く。暗がりの中、寝具の間から覗く指先に触れようと伸びた己の手を止めて。
「あなたに触れることは叶いませんが、あなたが望んでくだされば一生お傍におります」
彼が呟いた言葉は部屋の暗がりに吸い込まれて消えていく。