シアノスの婚礼「伏黒〜〜、おらよっ」
「なんでも投げて渡すな、ホコリ立つだろ」
軽快な言葉と共に虎杖から投げてよこされたのは、ついこの間洗濯して仕舞ったはずの厚手の肌掛けだった。ベッドの上で本を読んでいた伏黒は、膝あたりに落ちたそれを見て怪訝に思う。
小言を述べつつ受け取ったそれは、確か去年の春頃に一緒に量販店で買った、青みの強い緑色の大判サイズの肌掛け。肌触りがいいから伏黒も気に入っているが、なんだって今これを。
「なんか天気落ち込んで、今晩気温下がるらしいんだよね。タオルケットじゃ流石に寒ぃかなぁって」
「へぇ」
収納スペースを片付ける虎杖の逞しい背中を見遣ってから、天気を確かめるため試しに窓を開けてみた。ガラスがサッシを滑るにつれて、スーッと冷えた風を身に受ける。なるほど、星は欠片も見えないし、遠くの方からの雷の嘶きも微かに聞こえる。雨が降るなら多少の湿気はありそうだが、乾いた北風は梅雨前とは思えないくらい冷たい。
確かに、Tシャツで寝るには肌寒いかもしれない。昼間の晴れ間が嘘のような濃紺と鈍色の重苦しい空を見上げてから、伏黒は窓を閉めた。
「でも今日降んなくて良かった。夏至はやっぱ晴れてて欲しいもんな」
「あ? 今日なんか大物洗ったっけか」
「そーいうことじゃなくってさ」
伏黒はてっきり洗濯のことかと思ったのだが、どうやら違うらしい。カーテンを軽く直そうとすれば、肌掛けを身にまとった虎杖が隣に擦り寄ってくる。
虎杖はこう見えて案外寒がりだ。代謝が非常に良く、筋肉で武装しているような身体のため体温も高いが、それは脂肪が少ないのと同義だ。だから虎杖本人の暑い寒いの感覚は、伏黒とさほど変わらないらしい。
「そんな、いつもより長く洗濯物日に当てとけるからお得、みたいなことじゃねーよ」
「じゃあなんだよ」
丈の長い肌掛けが床に擦らないようになのか、頭からすっぽりと収まった姿はあどけなさを感じる。風情ねぇなー、だなんて溶けたように笑う頬を、伏黒はきゅっと優しく抓った。
「陽はなるべく照ってた方がいいじゃん。その方が人も世界も元気な気ぃするし。呪いだって、かんかん照りの中うごうご出ては来ねぇじゃん?」
「まぁ、それは一理あるか」
「あ、でもクソ暑いのにスーツ着こまなきゃいけないオッサンの辛さから生まれた呪霊、とかなら炎天下の方が強いかもな」
ひとしきり伏黒の手にじゃれた後、虎杖も天気を確かめるように窓の外をガラス越しに覗く。虎杖の凛とした目は鏡のように澄んでいて、意志の強い光はなにより太陽の光に映えて輝く。だからこそ、伏黒の目には何もない澱んだ空に映る窓の外も、彼の目には違う世界として映るのだろうか。
「でもさぁ、俺、夏至の日は今みたいな夜も好きだよ」
「手のひら返し早すぎだろ、今さっきと言ってること真逆だぞ」
「だって伏黒とエンカしたの夜だったし。オマエ、初対面の印象マジでクソ最悪だったけどな」
「そりゃ悪かったな、あん時は切羽詰まってたんだよ」
「喪中なりたての人間に対する尊大さじゃねぇよ、アレ」
快活に笑いながら、虎杖は伏黒を肘で小突く。布のとろりとした肌触りが、彼の動きに沿って伏黒の素肌を撫でた。くすぐったいような、焦れったいような穏やかな接触。
虎杖が自分と出会った夜が好きだと言うなら、伏黒は虎杖を初めて見た昼が好きだ。
飛び抜けた身体能力への感心や、なにやら人が良くて能天気そうな奴。そんな漠然とした第一印象でも、端から「宿儺の器」という歪んだ色眼鏡でコイツを見出さなくてよかった。伏黒はそう思う。
「まぁ偉そうなのが伏黒のデフォだしなぁ」
「うるせぇな、慣れろ」
「そーゆーとこな。もうとっくに慣れたって」
ゆるやかに言葉の応酬を続けながら、未だに空を眺め続ける虎杖の横顔を盗み見たら、ふと、その目を真っ直ぐに見つめたくなった。一瞬の沈黙。風が木々を揺らす音が微かに聞こえたあと、虎杖がゆっくりとこちらを向いた。夜の色を吸い取った瞳はいつもより凪いでいて、急に黙り込んだ伏黒に、小首を傾げてきょとんとしている。
「これ、花嫁が着けてるやつみてぇだな」
「うわ、急に黙ったと思ったらなに?」
「ベールって言うんだったか? あの顔隠してるやつ」
「伏黒ってさぁ、たまに真顔でボケに全力投球すんのすげぇよな。俺には真似できねぇよ」
照明の下では薄荷のように爽やかだった色も、重ったるい闇の中ではくすんでしまう。だから伏黒は、緞帳を上げるように恭しく、虎杖の頭に被さる肌掛けを自分の方に引き寄せた。少し布を後ろへずらせば、ぴょこぴょこと跳ねる珊瑚色の髪の毛が見える。それを結婚式の新婦に例えれば、何言ってんだよ、と虎杖は吹き出して笑った。
その大きく開く口の端を引き攣らせ、眉間を両断するように走る大きな傷たち。布を引き寄せたまま、その二つを慰撫するように両手の親指でなぞった。
「ボケかそうじゃねぇかくらい、とっくに分かってんだろ」
「……マジ?」
「マジだよ、なんなら誓いのキスでもなんでもしてやる」
「俺オマエのことお姫様抱っこ余裕だし、ブーケも百メートルは絶対飛ばせるし、米降らせてもらうくらいなら全部炊いて食いたいんだけど、でも俺が花嫁さんなの?」
「物の喩えだよ」
結婚しよう。そう伏黒が呟いた音は、静かながらも確かな形を持って部屋に響いた。
「健やかなる時も病める時も、……全部知らねぇしめんどくせぇな。どんな時も虎杖を愛しているし、死んでも一人にしねぇ。これだけは絶対に誓う」
隣に入れば、彼が沈む先は自分の影にできるから。不条理も悲しみ後悔も全部を抱えて、今にも沈んでしまいそうになって。後戻りのできない海のような地獄を、今日までなんとか泳いできたのだ。どこに行こうとも、伏黒が追いかけて手を掴むことを信じてくれてさえいれば、それでいい。それが伏黒の愛の形だ。
「……適わねぇなぁ。なんでそんなにかっけぇの、伏黒」
「御託はいーんだよ。ほら、オマエも誓え」
「うん。──俺はいつだって伏黒を愛してるし、命にかえて、オマエのこと守るよ」
「そこは『命にかえても』だ、大バカが」
陽の光が最も似合う虎杖と隣り合う。夏至。お互いの命が絡まって螺旋になった、一番夜の短くて濃い呪われた日。
虎杖の腕がゆっくりと背中に回った。薄いTシャツ越しの乾いた素肌の温もりに、伏黒は陶然とする。愛は呪いだと言ったのは誰だったか。
あの屋上を上書きするように、二人はキスをした。