骨と薄氷「なぁ、枕元の抜け毛って増えたりすんの」
夜の道場の片隅。目の前の少年に突拍子もなく問いかけられた言葉に、はたと動きが止まる。
なんだって急に。なんでそんなに加齢に対する解像度が高いんだ、君はまだ15歳だろ。色々な考えが頭を巡る。癖で胸元に手を持っていったが、生憎今はネクタイを締めていなかった。
うっすらと汗が浮かんだ額や、皺ひとつない目尻と口角。つきたての餅のようにつやつやの肌も、さえざえとした白目の透明感も、彼を構成する全てが若さと健康そのもので。
面食らってしまっていたが、10cmほど低い位置にある首が不思議そうに傾げられるのを見て我に返った。そして、なぜこんなことを突然言われたのかにも合点がいった。
「どこら辺が薄くなってるんだ?」
「へ?」
「俺の髪のことを言ってるんだろう。自覚がないということは頭頂部か後頭部だな」
ここ最近は己を取り巻く全てが目まぐるしく変化した。身体がストレスを感じて、それが目に見える形で表れてもなんら不思議はない。
社会人、それも清潔感が求められる仕事柄、身だしなみにはそれなりに気を使ってきた。髪のセットを変えるべきか。いや、文字通り世の中が滅びかけてる今、そんなこと気にしたってクソの役にも立たない。
ただ、気遣いのできる彼が口に出すということは「そういうこと」なのではないか。伝える優しさを取ってくれたんだろう。バリカンがあるか誰かに聞いて探してみようか。そんなことを考えていたら、ハッと目を開いた虎杖が慌てたように謝ってくる。
「や、ごめん違う。ちょっと言葉選びが下手だった。日車はハゲてねぇよ」
「……ひとまず安心していいのか?」
「うん、むしろフサフサしてる」
「虎杖、その手の話は俺くらいの年齢の男には非常にデリケートなものになってくる。心臓に悪いから他所ではあまりしない方がいい」
「うん、分かった。マジでごめん」
お詫びと言っちゃなんだけど、と手渡されたのはぬるいカフェオレだった。漆喰の壁にもたれてお礼を言えば、隣に座り込んで自分の分のプルタブを開ける少年に口の端が緩む。
缶コーヒーの微糖は「微」糖じゃない。舌があの甘みを受け付けなくなってからはブラック一択だった。一体何年振りに飲むんだろうか。
「前にそう聞いてさ。日車もそうやって大人になったんかなって、知りたくなったから」
畳張りの空間に茫洋と目を向ける彼は、まるでそんな未来が自分に存在しないかのような口振りをしている。もがき苦しんだ先で達観してしまった、絶望の色を知る子ども。
唇を尖らせて自販機のコーラをちびちび飲む幼さ、まっすぐ目も見れないような大人の隣で熱を分けてくれる純真さとは、あまりに不釣り合いな痛みを背負っている。
「気づいたらなってしまっていたんだ。怖いくらいにあっという間だったから、あまり覚えていないな」
「……そっか」
あぁ、君の心の中には、その立場から「大人」を語れる男がいるのだな。
その事実は、ぬるま湯のような質感をしている。自分でも意外なほど、ひどく安堵を覚えた。
──そこに数滴、寂しさや羨望が含まれていることは口にしない。なぜなら己も、それが傲慢だと分かっている一端の「大人」であるから。