みつけたよ今、何時だろう。
時間の感覚がない。ひょっとするとまだぎりぎり朝なのかもしれないけれど、珍しく空腹のせいで目を覚ました気もするから、お昼は当に過ぎているのかもしれない。乱れたままのシーツの白をまだぼんやりした目で見つめながら何度か瞬きをすると、少しだけ頭がはっきりしてきた。なんか重い…青木か。
すっぽりと背後から抱きすくめるように回されていた腕をそうっと持ち上げ、なるべくベッドを軋ませないよう慎重に身体を起こした。それから、両手で支えたその腕を引き続きそうっとそうっとベッドの上に横たえる。脱力している人間の身体はパーツでも結構重い。日頃僕はこの青木の逞しい腕がとても好きなのだけれど、この時ばかりはさすがにそれも忌々しく思えた。
最後に青木の掌に添えていた自分の手を引き抜いて、ホッとひと息つく。脱出完了だ。
ふと風を感じて振り向くと、ドアがわずかに開いていた。シャワーの後部屋に戻った時閉めたつもりだったけれど、半開きだったのかもしれない。遮光率の高いカーテンのせいで薄暗いこの部屋と違い、ドアの向こうに覗くリビングの方は白い光に包まれてとても明るく見えた。僕は目を眇めてそちらをしばらく見つめ、改めて自分の空腹感に思い至りベッドを降りた。青木はまだ静謐な眠りに守られて穏やかな寝息を立てている。
起こそうか……いや、まぁいいや。せっかく気持ちよさそうに寝ているんだし、おやつくらい自分でだって作れる。
はだけたシャツの前を合わせ、足音を忍ばせて下着を探す。それから床に脱いだままだった短パンを拾い上げ足を通すと、僕はドアの隙間から室外に滑り出て後ろ手にドアを閉めた。勿論音は絶対にさせない。
ひたひたと裸足で歩く床はひんやりして気持ちが良かった。廊下を抜けてリビングに入ると、開けっ放しになっている窓からやわらかい風が吹き込んでカーテンを揺らしていた。
その横を通り、僕はキッチンへと向かった。ウォーターサーバーからコップに半分の水を注ぎ入れると、腰に片手を当ててごくごくと一気に飲んだ。
ベッドの中でだらだらと過ごしていただけだけれど(いやまぁ、ちょっと戯れあったりはしたけども)、新鮮な水を注がれると気怠い身体が気力を取り戻す気がする。
「──ッハァ、生き返る」
別に死んでいたわけじゃないけど、そんな風にひとりごちて僕は綺麗に磨き上げられてピカピカのシンクの前に立った。
(さて。どうしよう)
何か食べたいけれど、と何気なく時計に目を遣ってギョッとした。
「えっ!?もう2時!?」
どうやらお昼ご飯をすっ飛ばし、本当におやつタイムがもうすぐだったようだ。
やっぱり青木を起こしてありあわせでいいから何か作ってもらおうかとも思ったけれど、すぐに思い直す。
だってここはできればパパッと軽く何かお腹に入れて、また寝室に戻ってあの寝顔をもう少し見ていたいから。
これは誰にも内緒だけれど、寝ている時の青木はとても綺麗なのだ。僕と違ってあいつは昼寝をほとんどしないから普段は暗がりでしか寝顔なんて見られないけれど、今日は違う。自然光の青木だ。
「ええっと、じゃあ…」
僕は先日青木に教えてもらったお菓子を思い出した。そうだ、あのおいしいおやつを作ろう。この前は一緒に作ったけれど、あれならきっと一人でもできる。僕がお腹を空かせているということは青木はもっと空腹で目を覚ますに違いないから、すごく喜んでくれる筈だ。うまく作れていたら褒めてだってくれるだろう。
思いつきにしてはとてもいい考えだと思った。
「材料は──」
それは別に火も水も牛乳も卵も使わずにできる簡単なおやつだ。市販のお菓子などを組み合わせるだけで済む。包丁だっていらない。
3分もあれば充分できます。
青木が自信たっぷりに言い切ったように本当にあっという間に出来るそのおやつは、間違いない味ですよ、という言葉通りたちまち僕のお気に入りになった。
「ビスケット、ビスケット…」
まずはそれがないと始まらない。戸棚の扉を開け、前に作った時の残りを探した。青木は軽いお菓子類を一番上の棚に入れている(僕が勝手に出してきてご飯がわりに食べないように、という理由もあるらしい)のだけれど、あいつの背丈なら少し伸びをすれば手が届く最上段のカゴに、僕は飛び上がっても指すら掠らない…クソっ、早く大きくなりたいぞ!
仕方ない、ジャンプは諦めて踏み台になりそうなものを探すか。ええっと、何か高さがあって乗っても危なくなさそうなものは…。
「このカゴでいいのか?」
「え?」
キョロキョロと視線を落とし気味に周囲を見回していた僕の頭上から、不意におかしそうな笑いを含んだ声が降って来た。
青木が起きたのかとも思ったけれど、口調がはっきりと違う。それにこの声──
どこかで聞いたような…。そう思ってパッと振り向いた僕は、ぽかんと口を開けたままそこにいた人物を見上げた。
(え…!?)
「どうぞ、姫」
恭しく一礼してお菓子が入ったカゴを絶句して立ち尽くす僕の前に差し出す。おどけた仕草と口ぶり。
「鈴木!?」
「可愛いな、この耳。今のご主人の趣味?」
鈴木はそう言って、僕の頭についた猫耳を指で弾いた。細められた目が愛おしむように僕を優しく見下ろす。
「──…」
今のご主人…そうだ、僕のご主人は──ご主人は。
(……?あれ?誰だっけ?)
そんなことよりも。
僕は渡されたカゴを受け取り胸の前に抱え持ったまま、懐かしい目の前の顔をじっと見上げた。
「本当に鈴木なのか?…何でここに?」
「何でとはひどいなぁ。会いたかったから会いに来ただけじゃん」
「僕も会いたかったよ。でも会いに来てくれたことなんてずっとなかった」
「会いに来てたよ。けど隠れてたから気づかなかったんだろ」
隠れてた……。
思い当る節がなくもない。ちょっと薄らいでいたその記憶を思い出し、次いで僕はサーッと血の気が引いていくのを感じた。
「──ひょっとして、それって血だらけの」
いつかの室長室的な……?
今日はすごく爽やかに見えるけど、それは仮の姿ですぐにまた戻っちゃうとか……?
「違う違う、それはおまえの妄想だ、そんなに青ざめるなって。おまえ、しばらく会わないうちにまたちょっと面白くなったな」
こつん、と僕の額を小突くと、鈴木はハハハと笑ってカウンターの向こう側に回った。そんな風に笑うなら安心か…足もあるみたいだし。
「……鈴木」
僕はその姿を目で追いながら、持ったままだったカゴをシンク横の作業台に乗せた。
「いつまでいられる?」
「もうお別れのこと考えてるのか」
食器棚に軽くもたれた鈴木はそう言って苦笑すると、心配しなくていいよ、と続けた。
「ずっといるから」
「ほんとに?ずっと?」
「うん…それより何か作るんじゃなかったのか?」
「あぁ、うん。お腹空いたんだ。鈴木も食べる?」
ああ、と鈴木が笑顔で頷く。鈴木がずっと一緒にいてくれる。僕の作ったおやつを一緒に食べてくれる。僕はたちまち嬉しくなって、さっき鈴木が取ってくれたカゴの中からハーベストのパックを取り出した。それからマシュマロも。
まずはビスケットを出さなきゃいけない。前に作った時は力を入れすぎて中のビスケットを一部粉々にしてしまったから、二の舞にならないようにそうっとパッケージを両手に挟む。猫手の僕はこういう繊細さを求められる作業が苦手だ。「ここを持って左右に引いてください」という指示が書いてあるところをつまもうとするのだけれど、肉球以外の毛に覆われた部分でつまむのは不可能に近く滑って仕方がない。鈴木がじっとこちらを見ているのであまりモタモタしたくはないし、しっかりできるところを見せたくてやむを得ず奥の手に出ることにした。
奥の手とは──原始的だけどパッケージを手っ取り早く前歯で噛みちぎるのだ。
大きく口を開けハムッ、とビスケットのパックを咥えこもうとした僕に驚いた鈴木がぎょっと目を見開いた。
「薪っ!?食うな食うな!それ袋だって!食えないよ!?」
うん知ってる。食べたりしない、開けるだけだ。
そう言ったけれど、鈴木は僕の手をしっかりと押さえもう一度袋を咥えようとするのを阻止した。
「わかった、そんなに腹減ってるなら手は加えなくていいからそのまま食おう!アレンジとかいいから!」
「ダメだよおいしいんだから。おまえもきっと気に入る」
「うーん……じゃあ」
ひょい、と僕の手の中からハーベストを奪うと、鈴木はいとも容易く開封してみせたそれを僕の手に返した。
「これでいいか?中の小袋も開ける?」
ハーベストは4枚でひと袋に厳重にパックされている。おかげで途中で食べきれなくなっても残りが湿気ることがないという消費者思いな心遣いだ。
「うん、全部開けて」
僕が言うと、わかった、と応じた鈴木は手際よく袋を開けてくれた。僕はその間に大きめのお皿を用意することにする。ちなみにもう3分はとっくに過ぎていたけれど、鈴木といると楽しいからもっと長くかかったって全然構わない。30分でも、3時間でも。
「ここに1枚ずつ並べて?」
僕が用意した大きめの皿に、鈴木の長い指が整然とビスケットを並べて行く。綺麗な指。僕は同じくらい綺麗な指をよく知っている。それは…ええっと、それは。
「薪もする?」
さっき開封した小袋のうちひとつを鈴木は僕にハイと渡した。頷いて受け取ったそれを並べながら、もう少しで思い出しそうなあの指の持ち主を思う。あれは誰の手だ…?
「次は?」
「え?…あぁ、次はこれ」
僕がマシュマロの袋を渡すと、鈴木は僕が言わなくてもそれを開けてくれた。はいどうぞ、とまたこっちに返してれる。
「ありがとう」
やっぱり鈴木は優しい。懐かしい感覚に嬉しくなって笑うと、鈴木はもっと嬉しそうに笑い返してくれた。こっちがドキッとしてしまうくらい眩しい笑顔だ。
「え、ええっと」
ドギマギしながら、僕は手元に視線を戻す。鈴木ってば、そのやたらキラキラをふりまくのやめた方がいいぞ。
今度はマシュマロをひとつずつビスケットに乗せていく作業だ。大きく開いた袋に手を突っ込もうとする僕を、薪!と再び慌てた鈴木の声が制止した。
「ちょっと待って!その手でやるのか?毛がつかない?」
「うん?」
変なの。…そんなに神経質だっけ?O型なのに。それにこの反応、誰かに似ているような…。
「いや普通気になるだろ?…俺がしようか?」
言われて僕は自分の猫手とマシュマロを見比べた。気になる、と言われては気にしないわけにはいかない。でも…。
「大丈夫だと思うけど……そうだ、じゃあお箸で摘むよ」
「箸で!?」
鈴木はいちいち驚くから面白い。別に包丁で魚を捌こうとかいうわけではない、お箸くらい僕だって使える。しかも相手はぷにゅっとしたマシュマロだ。かたくて小さい大豆なんかとは違って余裕に決まっている。
「見てて」
僕は引き出しから取り出した菜箸を使って台の上に置いたマシュマロの袋からひとつずつ白い物体を取り出し、ビスケットの中央に並べて行った。
「おお!?スゲー…猫手スゲー…!」
鈴木からは惜しみない拍手が贈られた。
普通のことを普通にしただけなのに照れる。なんだかすごい偉業を成し遂げたみたいだった。
無事にマシュマロが全て行き渡ったところで電子レンジの扉を開け、その中にマシュマロがうっかり落ちちゃわないように水平を保ちながら運んだお皿を入れる。次は、と。
「鈴木、冷蔵庫の中にあるチーズ出して。黄色い箱のだから」
「ん?ええっと…これ?」
パタンとレンジの扉を閉めてから、冷蔵庫の前に立つ鈴木を振り返った。
「そう、それ」
僕はその箱を片手で受け取り、レンジのダイヤルを回した。メモは頭の中にある。500Wで10秒とちょっと、ビスケットの上でマシュマロがプゥっと膨らみだした頃合を見てストップしなければいけない。怒った時の誰かさんのほっぺみたいですね、と言われたことが思い出された。こんなに真っ白なほっぺをしているのはベイ◯ックスくらいだ。
スタートボタンを押してからレンジの前に立って中を真剣に覗く僕を鈴木はおかしそうにクスクスと笑いながら見ていたけれど、今の僕にはそちらに構っていられる余裕はない。あっという間にマシュマロは巨大化しかけるのだ…全く油断ならない。
「膨らんだ!」
早押しクイズのような勢いでストップボタンを押すと、お皿をよいしょと取り出した。マシュマロが程よく溶けたのでもうこれが転がり落ちる心配はない。鼻を近づけると漂う甘い香りと蕩けたマシュマロのどこか愛嬌のある見た目に思わず笑顔になっていると、クックック、とついに鈴木は肩を震わせて笑い始めた。
「何?」
ちょっとだけムッとしてそっちを睨みつける。
「いやさ、さっきは仕事でモニター覗き込む時より真剣な顔でレンジの中見てたかと思ったら、今度は子供みたいに笑ってるから…可愛いなぁ、と思って」
「……」
可愛いという言葉に、僕はてプイと鈴木から顔を背けた。マシュマロと一緒にレンジに入っていたみたいに顔が熱い。姫とか子供とか、相変わらず鈴木は人をなんだと思っているんだろう。
こういうところ、たまにあいつと──あいつと…。
まただ。ええっと。ええっと、誰だった?
「なぁ薪、これは?」
僕がしばし手を止めて考え込んでいたからだろう。鈴木は作業台に待機させていたチーズの箱を指して、どうするの?と尋ねてきた。
「ああ…じゃあ、それ2枚出して?」
「わかった、2枚ね」
鈴木は箱の中から僕の指示通り元から使いやすくカットされた長方形のチーズを2枚取り出すと、はい、と手のひらに乗せて見せた。
「ん。それで?」
「適当に半分に割って、こっち側の4つの上に乗せていって」
「こう?」
柔らかくなったマシュマロの上に、半分のサイズにしたチーズを落とすように乗せていく。
「そう。じゃあ、こっち側の何も乗ってない方をひっくり返して上にかぶせて…」
これで作業は終わりなので本当は自分でやりたいところなのだけど、ここばかりは手を出せない。何せ溶けてクリームのようになったマシュマロが毛について悲惨なことになるのだ。前に作った時の散々な結果を思い出し、僕はひとりクスッと笑った。
そうだ、あの時は僕が仕上げの工程を担当してしまったせいで毛に溶けたマシュマロがベタベタひっついて、それを見たあいつがひどく慌てて謝ったのだ。すみません薪さん、気持ち悪いですよね?すぐ洗いに行きましょうね──
ぼうっとあの時の顔が思い出されるけれど、記憶に靄がかかったようにはっきりしない。あいつって誰…?人の顔は一度見たら忘れないはずなのに、さっきから思い出せないのはどうしてだろう。気持ち悪くて焦って記憶を照合するのだけれどうまく正解に辿りつかない。なんだかとても嫌な胸騒ぎがして、僕は鈴木の手元を目で追いながら今しがた込み上げていた笑いを引っ込めた。なんだこれ?こわい。誰かにそれを伝えなきゃいけない気がするけど、その相手がわからない。僕はおかしい。このままじゃ取り返しがつかないことになりそうな──
「できたぞ薪。上出来じゃね?」
ポン、と鈴木の大きな手が肩を軽く叩く。我に返って顔を上げると、怪訝そうな瞳がこちらを覗き込んでいた。
「あれ?何か間違ってた?」
「……ううん、何でもない」
何でもない?そうだっけ…?でも、僕の中で広がりかけていた不安は鈴木の笑顔にすっと波が引くように遠ざかり、それが何だったのかさえ次第に思い出せなくなる。そうだ、やっとできたんだから、鈴木に食べてもらわなくちゃ。
出来上がったお菓子を見下ろし、鈴木はなるほどうまそうだなー、などと呟いている。結局殆ど鈴木にやってもらったような気もしたけれど、僕もその仕上がりにはとても満足だった。教えてもらったとおりにできたことが何より嬉しい。
そう、教えてもらったとおりに……。
「……これ、少し冷めてからの方がおいしいんだ」
そう言ってキッチンを出ると、まっすぐにリビングのソファに向かう。鈴木が一緒にいてくれるのに、どういうわけか心許なさがつきまとうのが不思議だった。モスグリーンの布張りのソファは僕のお気に入りでいつもは思い切りダイブしてスプリングがダメになると怒られているのだけれど、今日は何となくそこにもおとなしく腰を下ろした。
ソファの上から見える陽だまりに包まれた見慣れた景色に何かが足りない気がして、どこかにその気配がかけらでもないかと探した。
だけど。
(でも、今日は鈴木がいる)
一方では、落ち着け、と呼びかける自分がいる。鈴木がいるじゃないか、何が不安なんだ?足りないものがあったら鈴木がすぐに用意してくれる。一緒にお菓子を作ったように探すのを手伝ってくれる。だから大丈夫。
……いや。いや、でも。
キッチンの方を振り返ると、マシュマロサンドの入ったお皿を手に鈴木がこちらに歩いてくるところだった。
「何か飲み物入れようか」
コトン、とお皿をテーブルに置き、鈴木はそう言ってやわらかく笑った。コーヒーでいいよな、と当たり前のように言って引き返していく。うん、とそちらに向かって応じてから、僕はテーブルに視線を戻した。真っ白なテーブルが眩しくてくらくらしそうだった。
(……コーヒー?)
違う。
錯覚だと紛らわしかけていた不安が、唐突にはっきりとした違和感になった。そうだ、違う。
「違う、鈴木!おやつの時はミルクなんだ」
ほんの少しのラム酒と、はちみつの入ったホットミルク。飲むといつもホッとするその味を思い出し、僕はすっと立ちあがった。
「青木がいつも──」
あおき。
そうだ、青木だ。
顔を上げると、キッチンに向かいかけていた鈴木がはたと歩みを止めてこちらを振り返る。いつもと変わらない優しい瞳。僕の傍にずっといると言ったこの目に見守られていると、あのミルクの魔法のようにどんな時でも安心できた。
その筈なのに。
「……やっぱり駄目か」
そうだよな、ごめんな、と自嘲気味に独りごちて、鈴木はほうっと溜息をひとつつく。
「……?」
だめ?
何が、と聞こうとした僕に微笑んだ鈴木は、そのままふとリビングから続く廊下の方へ目を向けた。ほら起きたよ、と促されてそちらを見た僕の目は、奥の寝室のドアが開くのを捉えた。
間もなくそのドアの向こうからは、眠たそうに欠伸をしながらルームウェア姿の長身の男が現れた。手にしていた眼鏡を掛けてこちらに気付くと、馬鹿みたいに幸せそうに微笑む大男。その顔を、僕は何故だかすごく懐かしく感じた。ついさっきまで一緒にいて、その腕の中で眠っていたというのに。
「薪さん…?」
微動だにせず立ち尽くす僕を見とめると首を傾げ、どうしたんですか?そんな顔してと問うその姿に、ようやく僕はここに足りないと感じたものが何だったのかを思い出して泣きそうになった。僕がさっきからずっと、探していたもの──
良かった。
ちゃんと見つけられた。
もう大丈夫。
「あおき」
「はい?」
パタンとドアを閉めてリビングに入ってきた青木は、まずテーブルの上に置いてあるお皿に気付いてあっと声を上げた。
「作ってくれたんですか?うわぁ、ありがとうございます、ちょうどお腹が空いたなぁって目が覚めて…あっ、すみません、もしかしてすごく前から起きてました?」
それどういう意味だ。3分でできちゃうお菓子なのに。
「お昼、食べ損ねちゃいましたね…おやつにはこれ食べて、夜はしっかり作りましょうね」
そういうと、青木はキッチンの方に向かう。晩御飯は何がいいかなぁ?などと呑気に言いながら。
(そうだ、鈴木)
そう言えば鈴木がいない。さっきまでいたのに──でも、本当に?
僕はきょろきょろと室内を見回した。もう鈴木の気配はどこにもない。
……いや。
ふわ、と立ち尽くしたままの僕の背後の開いた窓から、心地良い風が部屋に入ってくる。その風に一瞬背後から包まれたような気がして、僕はカーテンがたなびく窓際に引き寄せられるように歩み寄った。
窓の外には、満開の白い花をつけた木香薔薇が咲き誇っている。カーテンを揺らす風が微かな甘い香りを僕の元に運んできた。見上げる空は青く澄んで、雲ひとつない。
……きっとだから、今日はいつも以上に僕のことがすごくよく見えたに違いない。
「薪さん?ミルク、いつものでいいですか?」
キッチンの方から青木が問う声がする。
うん、と短く答えたけど、それに返る声はなかった。しばらくぼんやりと外を見つめてからそのことに気づき、ハッとして肩越しに振り返れば、テーブルの横に所在無げに佇んでいる青木と目が合った。心配そうにこちらを見る黒目がちな瞳。
「あの…すみません薪さん。一人で先に目が覚めて、淋しかったですよね。これからはすぐ、起こしていいですからね?」
そう言って躊躇いがちに微笑んでみせる。
「……青木、今日」
僕はぎゅっとカーテンを握りしめ、彼に向けておずおずと声をかけた。全部話してしまいたかった。さっき、鈴木が会いにきたんだ。一緒にお菓子を作って食べようと思ったんだけど、僕が違うって言ったからいなくなっちゃった。最初に鈴木だって思った時はすごく嬉しかったのに。一緒に食べようって言ったのに。おまえに教えてもらった僕の大好きな味を、教えてあげるはずだった。でも、おまえがいなかったから──それが、それだけなのに僕はとても怖くて。
違う。
青木のせいじゃない。鈴木のせいでもない。
ごめんね鈴木。鈴木が謝ることじゃないのに、僕が変わってしまったから。
ごめん青木。おまえはいつもまっすぐに僕を愛してくれるのに。でも本当に僕はただ、おまえの方だけを見ているつもりだったんだ。
それはいけないこと…?
パタパタと小さな雫が裸足の甲に落ちて来て、僕は自分でそれを見下ろしてびっくりする。けれどすぐにもっと驚いた青木が、薪さん、と飛んできて頰を伝い落ちそうになるそれを指で拭ってくれた。
「大丈夫ですか?どこか痛いんですか?あ、それとも待ってくれてる間にすごくお腹すいて我慢できないとか?」
そうじゃない。僕はフルフルと左右に首を振った。身を屈めて目線を合わそうとしてくれる青木の胸に顔を埋める。そうして大きく深呼吸すると、溢れてくる涙が止まるような気がした。
「……ミルクが飲みたい」
「用意しますね」
「お腹もすいた」
「はい、早く食べましょうね」
明るい声でそう言って、青木は僕の頭を何度も撫でてからそうっと身体を離す。ここで待っててくださいね、すぐですからね。キッチンへと向かう青木の背中を見送って、僕はソファの上のクッションを取るとぎゅっと胸に抱いて腰を下ろした。
テーブルの上に鈴木が運んでくれたお皿を少しだけ窓の方へと移動させ、その上のひとつを手に取ってじっと見つめる。
これは青木が教えてくれて、鈴木と一緒に作ったんだ。見えるか、鈴木?だから最高傑作なんだよ…?
サクッとしたビスケットには表面に少しだけ塩がついていてアクセントになっている。マシュマロの優しい甘さと、間に挟んだチーズの濃厚な味がとても気に入ったんだ。
「あっ、薪さん!?何で待っててくれないんですかっ、もう…!」
ミルクを運んできてくれた青木が待ち切れずにマシュマロサンドを頬張っている僕を見つけて情けない声を上げる。フライングを謝りもせず笑う僕を嬉しそうに見つめ、行儀悪く立ったままテーブルから取り上げたお菓子を口に運ぶと、うん!と更に幸せそうな笑顔になった。どうだ?僕の最高傑作は。
「上出来です!」