懐かしき匂い(信乃敦) 夢を夢と認識することは容易いことではないが、それでも時折これは夢であると思いながら見る夢もある。
そういうときの夢は視界は少し霞がかってぼやけ、耳に入る音は少し遠い。触れたり、何かを食べたりしたことは無い。大抵はそれをする前に夢が覚めてしまうのだ。
今、懐かしい夢を見ている、と敦豪は自覚していた。
真っ白い壁に飾られた沢山のキャラクターたち。性別年齢様々な子供たちで溢れ、時に騒がしく、時に恐ろしいほどに静まり返ることもあるその場所。幼い時に何度も目にした小児科外来。
もう何年も目にしていないその風景に敦豪はゆっくりと目を細める。鼻を擽るのは病院独特の消毒液と、それからバニラにも似た甘い何かが混ざり合った小児科独特の香り。
遠くからこちらの名前を呼ぶ声を聴く。それは夢の音声ではない。これは現実から呼びかける声なのだと気づかせるような、そんな徐々にクリアになっていく声に自分の目覚めが近い事を知る。
全てが懐かしいその世界に別れを告げて、敦豪はゆっくりと意識を浮上させた。
「敦の兄貴」
ぱちりと目を覚ますとこちらを覗き込むようにして見下ろしている、この春から一緒に暮らしている男の顔があった。両親と同じように医学の道を志した信乃は大学入学を期に長く暮らしたコウの家を出た。そして無事に国家試験を合格した信乃に同棲を持ちかけたのは敦豪の方だった。医者とDAAの活動の両立は大変だろう。それでなくとも研修医は忙しいと聞く。せめて温かい飯でも用意してやれれば、と思い迷惑をかけたくないと訴える信乃を敦豪が強引に丸め込んだ。
「よく寝てるとこ起こすのは忍びないと思ったが、どうも敦の兄貴も夕飯食べてねぇみたいだし」
もしかして調子が悪いのか、と心配するようにしゃがみ込んでソファーで寝ている敦豪に視線を合わせて信乃はこてんと首を傾げる。
「……いや、単にうたたねしてただけだ。起こしてくれて助かった」
「今日は遅くなるから先に食べておいてくれって言っておいたのに」
「俺が待ちたかったんだ、だからんな顔すんなって」
敦豪はソファーから起き上がるついでにぐしゃりと信乃の頭を撫でる。同棲までしている恋人同士だと言うのに、どこか昔のように子供扱いされたようで少し気に入らないと信乃は頬を膨らませた。そういう仕草がもう子供っぽいんだよ、とは敦豪は教えてやらなかった。昔から敦豪は、このおおよそ子供らしくない子供だった信乃が見せる子供っぽい仕草が好きだったのだ。
「フライパンあっためたらいいか?」
台所へと向かう敦豪を追い抜くようにして信乃が横を駆け抜けていく。ふわりと香ったのはあの夢の香り。忘れがたい過去の香り。
瞬間、敦豪は全てを理解した。何故突然にあんな夢を見たのか。
冷めている料理に火を通そうとコンロの前に立った信乃を、敦豪は後ろから抱きしめて肩に顔を埋める。火を使うときにちょっかい出すのは危ねぇって教えてくれたのは兄貴だろう、と諫める信乃の声は呆れるほどに優しい。
「今小児科回ってんのか?」
「あぁ、今日からな。あれ?兄貴に言ったっけな?」
「いや、匂いがした」
「匂い?」
クンクンと自分の袖を嗅いで信乃は首を傾げる。うんうんと唸って考えているようではあるけれど、信乃にはわからない。きっとこれは幼少期にあそこにいた人間にしか感じられない香りなのだ。
「……臭いか?」
気まずそうに信乃が尋ねる。
「いや、少し懐かしいだけだ」
敦豪は吐息だけで笑い、そしてその項に一つ口づけを落とす。今日も心臓はトクトクと時を刻み続けていた。