7s/ロアくんと月太くんとネイルくんでごはん 霧島ロアにとって、料理は生活の一部というよりほとんど趣味だ。外食が多いから、自分でつくるときには、じっくりと手間や時間をかけてみたくなる。その過程でつい、調理器具を買ってしまう。先日ホームセンターでほとんど衝動的に購入したのは、なんとも素敵な焼き目のつきそうなグリルパンだった。大ぶりな円を描く、鉄製の、重たいグリルパン。
使うからには最高に旨く仕上げたい。そのために必要なのは、そう。オーディエンス。
さすがに、一度も練習せずに客を呼ぶようなことはできない。ためしにチキンの香草焼きやら、野菜のグリルをつくったときには納得のいく仕上がりになったので、次は、もうすこし手間のかかることをやってみるつもりだ。
ロアロミンとWithRのふたつのグループへ招待を送って、それぞれひとりずつから参加できるという返信があった。月太、それに、ネイル。一緒に来るにはめずらしい組み合わせだったが、そういえばいっとき組んでいたこともあったのだったと、ちょっと心をとがらすようなことを思い出しもした。月太は多少忙しくても料理を披露する際にはだいたいやって来るし、ネイルは自由な時間のない身だが、料理や食事には興味があるのか、今は無理だが明日の早い時間であればと言って、びっくりするような時間にわざわざやってくることもある。
月太がデザートを買ってきてくれるというので、簡単にメニューを伝えた。こうしておけば、彼のことだから、食事から外したものは持ってこない。
料理に使うライスを炊飯器へ仕込んでいると、インターフォンが鳴った。それに続いて『エントランスホールへ、西園寺ネイルさまがお越しです』ホームAIの無機質な声が響き、マンションの一階で、カメラを見あげているらしいネイルの姿が投影される。
「通ってもらって」
炊飯器のスイッチを押しながら声をあげる。パンケースから、三日ほど置いてじゅうぶん乾燥させたバゲットを取り出した。おろし金で削り、パン粉を積もらせるころには、玄関のドアがひらく音がする。パン粉をミルクへ浸し、冷蔵庫へしまったところで、色の浅い金髪がひょろりと入ってきた。いつもと同じ、白のシャツに白いパンツ、手ぶらという、実に簡素な姿だ。バッグのひとつも持たずにどうして街に出られるのか、ロアには不思議でならない。本格的な夏を控えた今、既に日差しはきびしいものだ。服だけでなく、あやういまでに白い肌をそばかすに焦がさないよう、できれば帽子もかけてやりたい。
「こんにちは」
「いらっしゃい、ネイルちゃん」
「おじゃまします」
表情をぴくりとも動かさないまま、ことばの意味を理解しているのかあやしいほど、平淡にネイルは言う。眼鏡の奥、赤い両目を室内にすべらせ「月太はまだ?」短く訊いた。白い肌や装いと相まって、知らない草原にやってきてピンと耳を長く立てる、警戒心のつよいウサギのようだった。
「まだだね。デザート買ってくるって言ってたから、すこし遅れるみたい。ゲッタちゃんになにか用?」
「そうだね。用というほどではないけれど」
「ふうん。まあ、てきとうにくつろいでてよ」
ソファを勧め、温めてあったケトルで飲み物を用意する。コーヒーは食後に出す予定なので、初夏らしくオレンジのフレーバーをつけたルイボスティーにした。食前にはいいだろう。ロア自身は好きで飲んでいるからいいけれど、あまり子どもにカフェインを摂らせすぎてもよくない。ネイルはどうも猫舌のきらいがあるので、軽く蒸らしたあと、冷やしたミネラルウォーターをひとくちぶんだけ混ぜておく。
「これは何? いい香りだ」
両手に包んだカップに眼鏡を曇らせながら、ネイル。
「セプティムアロマのルイボスティー。ゲストが来るからさ、ちょっといいとこのやつにしちゃった……ま、差し入れなんだけど。ネイルちゃん、知ってる? ショッピングモールとか行かないでしょう」
「行ったことはないけれど、ゴーハ市内のマップはすべて頭に入っている。ゴーハショッピングモール三階の十七番目の店舗、紅茶を中心とする茶葉の専門店、二年前の三月に出店された。本店はフランス、支店はゴーハ市のものを含めて全国に三十一店舗」
つぶやきながら、揺れるカラメルいろの表面を見つめ、両手に据えたカップをくるくる回す。冷ますときにはそうするのだろうか。
「もう冷ましてあるよ」
声を掛けると、ゆっくり口をつけた。試すようなひとくち。停止した、そう思ったら、そのまま一気にカップを傾けてしまう。
「ごちそうさま」
からになったカップを差し出してくる。少し冷ましてあるとはいえ、なんとも豪快な飲みっぷりだ。ラーメンと出会ったときほどに、彼の謂うセツリではないにしろ、おそらくは気に入ったのだろう。
「おかわりする? ミルクで淹れてもおいしいよ」
「いただこう」
ミルクパンでもう一煎を沸かし、今度は、カップと一緒にルイボスティーのパッケージも出してやった。産地やら、内容物やら書いてあるから、これでちょっとは気が逸れるだろう。自分の分野以外にはまるで無知なネイルを見ているのもなかなかたのしいが、あまり手を焼かされても、準備が進まない。カップの隣に置いたパッケージを取りあげ、ルイボスの学名をつぶやきながらそこへ書かれた情報を読んでいるから、少しは効果がありそうだ。今のうちに材料や道具を出してしまう。いつもつけているリストバンドをはずし、手首までしっかり洗って、エプロンをつけた。
材料や調理道具を、キッチンのワークトップへ並べていく。初夏に合わせた、色とりどりの旬な夏野菜。室温に馴染ませておくためのタマゴ。まな板。おろし金。十五センチのアルミ製のものを二枚、二十四センチ、二十八センチの鉄製のフライパンをそれぞれ一枚。小鍋がひとつ。大小さまざまなボウル。そしてもちろん、グリルパン。こちらは今回、きっと二枚で足りるはず。
AIがふたたびの来訪者を告げてくる。ロアロミンのバンドメンバーは全員、寝室以外の出入りを自由にしてあり、ロアが応答しなくとも勝手に入ってくる。タイミングがわるければ玄関で止めてしまうが、今はその必要もない。準備の手を休めずにいると「オス、おつかれ」打ち合わせをするような調子で月太が入ってきた。すぐにネイルの姿を見つけ、声をあげる。
「おっ、ネイル、久しぶり!」
「やあ月太。久しぶり」
「よかった、元気そうだな。仕事はどうだ? ちゃんと寝てるか? うん、よしよし、今日はくまがないな。セバスチャンも元気か?」
月太が親しげにネイルの顔を覗きこみ、肩をたたくのに、ネイルが頷く。
「ああ、わたしも、セバスチャンも、問題ないよ。ちょうど昨夜、きみが以前、遊我のコードを解析してくれたものを読んでいた。他人が見ても引き継げるように書いているのだろうが、あれほど丁寧な書きかたは、本社のなかでもあまり見ない。遊我のものは、ほかに類のないずいぶんと破天荒なものだが、きみの目を通じるとあのようにまとまるとは、おもしろいね。わたしの考えとはまた違う。あのコードをすこしでも解析するのはたいへんだったろう。とても参考になった」
「おう、そっか。なんか使えんならよかったよ。まあ……遊我のアレが、ちゃんと読めてる気はしないけど。どんな頭してたら、あんなふうになるんだか。あんだけめちゃくちゃに書くほうが、むずかしいとおもうんだけどな。いろんな言語のわるいところだけかき集めて、ぼくのロードとやらでまとめて破壊したって感じだぜ」
「それはたいへん興味深い喩えだ。遊我が秩序の破壊者であれば、きみは秩序の調律者だね」
「ふうん、よかったねえ、ゲッタちゃん。ネイルちゃんに褒めてもらえて」
「……おまえ、それ、まだ擦ってくんの?」
ネイルは、ロアの前ではそれほどしゃべらない。共通の話題がないのだ。必要なこと以外はしゃべらないので、そうすると、ネイルの興味を引きそうなことをやってみせるときや、ちょっと煽ってやる以外、ひたすらに沈黙している。だから、どちらにもすこしは妬いたのかもしれない。遊我もそうだが、月太もネイルも、機械の話はたのしいのだろう。なんだか話しこんでいる。概要くらいは理解できるが、専門用語が頻出しはじめると、さすがになんだかわからない「そこにあるルイボスティー、勝手に飲んでね」そう言って、放っておくことにした。ネイルの世話も月太がやってくれるだろう。
勝手知ったる様子で、月太がケトルに湯を沸かしはじめた。冷蔵庫を開け、持っていた紙袋から取りだした箱を押し込む。てきぱきと茶の用意を進めながら「駅前のアップルパイ買ってきた、前におまえがうまいって言ってたやつ」ロアに向けて声をあげる。
「いいねえ、あそこのやつ、オレ様だいすき。テンション上がってくるね。オーブンであっためて、バニラアイスも乗せちゃおっか」
「いいなそれ、すげえうまそう」
ソファのそば、異議ありとでもいうような様子でネイルが立ち上がった。
「アップルパイに、アイスクリーム。それらはどちらも完成されたデザートだろう。どうしてふたつを組み合わせるの。完成を余分で乱すことはセツリの乱れだ、対消滅につながりかねない」
「さあて、どうしてでしょう。オレ様が余分なことするはずないよね。たのしみにしててよ。みんな、デザートまで食べきれるかな?」
わらって流すのに「おまえたちが食えないぶんは食ってやるって」月太が胸をたたく。
「さっすがゲッタちゃん。でも、まあ、大丈夫か。こう見えて、ネイルちゃんも、ラーメン三、四杯はかるいもんね」
「そう、配慮は不要だ。新たなセツリを期待している」
ロアは、一度招いた客人の好みをきちんと把握している。最高の料理を、最高のパフォーマンスにまで高めるには、ゲストの嗜好の把握も欠かせない。たとえばロミンはすっぱいものがにがてで、どちらかといえば洋食が好きだ。ケーキやタルト、パフェやプリンなど、甘いものには目がなくて、底がないと思えるほどに食べてしまう。ウシロウの好みは辛いもの。味覚は鋭いほうで、ソースやアクセントを少々複雑に凝ってみてもたのしんでくれるが、小食で、あぶらっこいものは得意ではなさそうだった。月太はなんでも食べるし、きらいなものがない。ただ、小難しい味よりも、わかりやすいおいしさを好んでいる。遊我は苦味がにがて。とりあえず世間一般に子どもがよろこぶ一皿を用意すれば、はずれがない。ネイルは食べること自体に好奇心があり、なんにでも挑戦したいという姿勢がある。好みはよくわからない。ペペロンチーノの飾りに乗せた鷹の爪を丸ごと食べて、なんとも平気な顔をしていたから、辛味に耐性があるのか、それとも舌が鈍いのか。以前遊我が、ネイルのつくった仲見世通りで出された料理はどれも独創的で、新しく、常識はずれの――はっきり言えばおいしくないものだったと言っていたし。
とりあえず今回は月太に合わせてつくり、ネイルの皿だけ少しアレンジを加えてみる予定だ。いったい彼は鈍感なのか、わずかな香りに気づくのか、ちょっと試してみたい。
夏野菜をひとつひとつ取りあげて洗い、ちょうどよいおおきさへ切っていると、ネイルが隣にやってきた。
「見ていても構わない?」
「どーぞ。いちおう手は洗って。熱いやつとか、包丁には手を出さないでね」
いつものことだ。いつもと違うのは、ほとんど質問がないことだった。それは何、今の手順には何の意味が、訊ねてくるのを普段はてきとうに躱しているのだが、今日はただ、あの赤いばかりの瞳でまっすぐロアの手元を見つめている。見られるのは慣れていたので、やはり放っておいた。
そろそろ準備から本格的な調理に入る。念のためにもう一度手を洗った。