7s/キスマークをつける遊ロア遊 ロード研究所にはよくふらりと誰かが訪れる。その日のロアもそうだった。何か用事のあとに寄ったのか、ロアはアコースティックギターを持ってきていて、そのへんの金属の箱へ腰かけて、気の向くままに鳴らしていた。遊我はいつものようにデスクへ向かい、なにかの機械からねじやらビスやら外したり、フェイスシールドをかけてパーツの接合面の研磨をしたりしている。
ギターの音と機械の音が混じる好き勝手な空間の中、何の気なしに遊我へ視線を向けたロアが、手を止めた。パーカーから覗く、遊我の首元へ、ちいさな痕があったのだった。
「なにそれ遊我ちゃん」
ギターを置き、立ち上がって、覗き込んでみる。うなじよりも少し下のあたりが、親指の爪先ほどのおおきさで、痣になっていた。
「もしかしてキスマーク?」揶揄をたっぷり含んで言ったのだったが「なあに、キスマークって」フェイスガードの下、遊我がまったく子どもらしく首を傾げたので、からかいは不発に終わった。どうやらほんとうにただの痣らしい。普段から、機械いじりで指先をはさんだり、はんだごてで手を焼いたり、運動音痴でころんだりしている遊我のことだから、知らないうちに不用意につけたのだろう。ほんとうに遊我にそんな経験があったとはまったく考えていなかったけれど、せめて、恥ずかしがるところくらいは見たかった。大げさに肩をすくめて、ロアは元の場所へ座り込む。
「なあんだ、意外とおとなの階段のぼっちゃってるじゃんって、びっくりしたのに。そんな程度」
いつもの調子で煽ってみるが、遊我も、いつもの調子で気にしたふうもないのだった。返事を待っている様子なので、自分の手の甲へ音をたてて口づけてみせる。
「キスっていうか、強く吸うと、血が集まって、鬱血するでしょう。それをキスマークっていうの」
へー、なんて言って目をまるくしている。その顔がおもしろくって「オレ様がつけたげよっか」わらって言うと、遊我もこぼれるほどの笑顔になった。
「うん」
(うんなのかよ)ロアは独りごちる。なんとも未知への好奇心でいっぱいの子どもだ。言い出したとはいえ、なぜ自分がそんなことをしなければならないのかという気もするが、すぐに気もちを切り替えた。どうせたいした接触でもない。
「どうするの?」
わくわくした様子でフェイスガードを外した遊我の手を取った。彼の手を覆う紺のグローブを外し、デスクへ山になった設計図のそばへ置く。
手の甲のふかいところであれば、普段はグローブで隠れているし、まんがいち見られても、機械仕事のさなか、落ちてきたパーツでぶつけたとでも言えばいいだろう。
他人にキスマークを残した経験は、さすがにない。ネットだか雑誌だかで知った機会があって、気になったので、自分の腕でためしてみた程度だ。
遊我のちいさな手を持ち上げ、顔を寄せる。グローブをつけていたためだろう、彼の手はしっとり汗ばんでいた。
「ちょっと痛いと思うよ、お姫さま」
いちおう断ってから、すこしひらいた唇をつける。やわらかい皮膚を口ではさみ、強く吸う。唇を離すと、ちいさなアーモンドのかけらのような鬱血痕が、すこし濡れて、そこへあった。
「わあ、ほんとだ。へえ」
自分の目の前へかざした手の甲を、窓や天窓のひかりに当てながら、遊我はまじまじ眺めている。
「これがキスマークっていうんだ。毛細血管の破裂、皮下出血か。口で吸引して引き起こすんだね。ふつうに外傷だ。誰が、どうしてこんなことをはじめたのかな」
「遊我ちゃんに、おとなのやりとりはまだ早いもんねえ」
「そうかもしれないけど……あ、ぼくもロアにしてみていい?」
えっ、声が跳ねそうなのを飲み込んだ。どうやらつけるほうにも興味があるらしい、返事をするまえから勝手にロアの手を取ろうとする。慌てて、そこを庇うようにした。
「ちょっとちょっと、見えるところはだめ。遊我ちゃんと違って、オレ様、ひとに見られる商売なんだから」
自分もちゃんと、見えない場所にしてやったじゃないかと思う。決して他人に見られたいものではないし。
そうすると、えっ、今度は遊我が声をあげた。
「えっと、じゃあ、その……ふ、服の下っていうこと?」
ロアは目をまたたいた。確かに、自分の発言を頭のなかでころがしてみれば、そういう意味になる――いや、リストバンドの下という手があった。けれど、遊我が明らかにひるんでいることが、その意見を押しとどめた。ロアはひるんだ相手を圧倒するのが好きなのだ。それがあの王道遊我であれば、なおのこと。
「あらら、怖気づいちゃった?」
正直、ロアだって、多少は引いている。こんなところで服を脱ごうというのだから。けれど、ことばというのは魔力に等しい。そう口にしてみせれば、ほんとうに、自分が優位なように思えてくる。発声はいつも重要だった。他人を従わせるためにも、自分を従わせるためにも。
遊我はまるい頬を赤くして、手の置き場に困ったように、パーカーのジッパー部分をいじっている。戸惑いと好奇心の入り混じった声が「……ロアがいいなら」ちいさくつぶやいた。今度の返事はだいたい見込んでいたとおりだ。予想が当たったことで、多少は気分がよくなった。
「ねえ、ここ、鍵ってかけられる?」
さすがにここでオーディエンスは困るなあ、微笑んで言ったのだったが、すこし声がかすれてしまった。喉が詰まったようなのは、交感神経がオーバーヒートを始めているからだった。自律神経のバランスが、シチュエーションと一緒に、そこかしこで狂いはじめている。おそらく遊我の中でも、そうだろう。ただふらりとここへ立ち寄ったときから考えれば、完全に不測の事態だが、もうどうなるかわからないというのは、意味不明なゲームの始まりに期待が高まるようでもあった。
慌てて頷いた遊我が、ばたばたと研究所の扉を閉めた。カーテンを引き、最後にばちんと、充電中のカイゾーの電源を乱暴に落とす。さすがに天窓はどうにもならないのだろうか、ちらりと見あげてみたが、青空が広がるばかりで何もなかった。
ロアはシャツの裾に両手をかけた。用を終えて自分の前に立つ遊我の視線が、食いいるように刺さってくるのを、強く感じる。どういうわけか、おそろしいほどにぞくぞくした。ライブのあぶられるほど熱いライトの下、音楽にもみくちゃになる中で、何千人の視線を浴びることにすこし似ている。ただ、あのどうしようもない爽快感と違うのは、もっと生なましく、のぼせたような香りがするということ。ここが狭くて、閉じ切られた小屋だからだろうか。ろくに掃除もしていないのか、天窓からのひかりのなかに舞う埃。カーテンが閉じられて、いつもよりも薄暗く、外部から遮断された場所。ロアの前に立ち、緊張に顔をこわばらせた遊我が息を飲む音が、今にも聞こえそうだった。
頭にのぼってくる熱を吐きだすようにして息をつくと、ロアは、勢いをつけてシャツを脱いだ。たたむ場所も余裕もない、そのまま床に投げ捨てる。遊我がふらふら近寄ってきた。
「へ、え、は、えっと、は、ど、ど、どこに、あの」
声のピッチはめちゃくちゃで、ろれつもまったく回っていない。相手がここまで壊れていると、だいぶ余裕が出てくる。
「そんなことも決めらんないの」煽るように言ってやる「遊我ちゃんの、好きなとこでいいよ」――ことばはまったく魔力だった。口にするそばから、自分のせりふに煽られてくる。額がとっくにのぼせていて、目の奥からうるんでくる。遊我もそうだった。目の前の瞳のかんらん石が、薄明るいなか、まるでらんらんと濡れている。興奮と緊張で、加減がわからないのだろう、ひどく強く肩を掴まれた。十個の爪が、ロアの肌へ食い込んでくる。
「痛いよ」
「ご、ごめんなさい!」
ひっくり返った声で言うわりに、手を離すことはしないのだった。遊我は、意を決したようにぎゅっと目を閉じ、勢いよくロアの肩口へ顔を埋めた。熱い息がはだかの肩へかかってくる。かさついた、唇らしい感触が触れ、吸いやすい場所を探すようにわずかさまよった。くすぐったい。ぞわぞわする。胸や身体の奥底から、ちいさな蛇たちが這いずって、うすい皮の上、神経のすこし上、すらすら勝手に絡まりはじめるような感覚。二の腕の、すこしやわらかなところへたどり着いた唇が、そこを強く吸いあげたとき、ロアはおおきくからだを震わせた。今までに感じたことのないしびれがあった。
遊我が唇を離すと、濡れたそこがひやりと冷えたようになる。ほそい血管がいくつもやぶれた痛み。ロアは息を吐いて、それで、自分が息を止めていたことに気がついた。
「……満足した?」
ロアは言ったが、遊我には聞こえていないようだった。無言のまま、自分が痕をつけたところを見つめている。まだ遊我の呼吸は平常より上がっていた。それはロアもそうだった。ばらばらした呼吸が、静かに研究所のなかへ散らばっていた。
ロアの肩を掴んだまま、遊我がそっとまつげをあげる。熱く濡れたかんらん石の瞳が、ロアのひどく間近にある。そこへロアを映しながら、遊我はうっとり、目を細めた。
「ロア……かっこいい」