ぼすっと自室のベッドにダイブすると同時に、堪えきれず溜息が出た。
今日は散々だった。
たまたまいつもと違うリップをしていただけなのに、それが原因でレゾンの興味を引いてしまい、素顔を見られキスもされ。
クラージュにも軽く口説かれ、なのにカイは俺を口説くどころか敵チームの参謀、としか見ていない。俺が俺だと気づいていない。
「こんな仮面で、何が隠れるって言うんだ…」
外した仮面をじっと見る。
こんなもの、しないで初めから素顔で参戦すれば良かった……のか?
そうすれば、カイは……昔みたいに、俺に好戦的な目を向けて、勝負を仕掛けてきたのだろうか。
そう考えて、いやいやと俺は誰が見ているわけでもないのに首を振る。
レゾンの、あの熱に浮かされたような眼差し。
あれに、四六時中晒されるのはちょっとごめんだ。
クラージュだって、俺の素顔に興味を引かれていたし。
チームメイトとはチームメイト以上の関係性を築く必要などない。
そんなことをぐるぐると考えているうちに、いつの間にやら俺は眠りに落ちていた。
次の朝。
今日は、レースはないが、ミーティングと練習は当然ある。
渋々と練習場へ赴くと、いつものように………いや…いつもより多い…?ファンの女どもが、練習場のあちこちで騒いでいた。
「やぁ、おはようアーム。どうした?不機嫌そうな顔をして」
ディアナがいつもの明るい調子で挨拶を寄越す。
「別に、不機嫌なんかじゃないさ」
フンと鼻を鳴らして答えると、「そうか」とディアナは追求はしてこなかった。
「不機嫌じゃないなら、寝不足か?」
変わって俺に声を掛けて来たのはクラージュだ。
大袈裟にポーズをつけ、
「睡眠はしっかりとってくれよ?お前の美しい顔に隈なんて似合わない!」
と声高らかに曰う。
きゃっ、と周りの女が声を上げ、そしてその中のひとりがおそるおそるクラージュに訊ねた。
「クラージュさまは、アームさまのお顔を見たことが…?」
「ああ、見たよ。それはそれは美しい、煌めく瞳を、確かにこの目で……」
「きゃー!羨ましーい!」
「アームさま、私たちにも素顔を見せてー!」
騒がしさに眩暈を感じ、俺は片手で顔を覆った。
こいつらのファンは、どうしてこうも……
「はいはい皆、ミーティングを始めるから、少し外に出ていてくれる?」
ぱんぱん、と手を叩いてシャリテが言う。
助け舟を出してくれたのか、と思ったら。
部外者を追い出した途端にシャリテは、
「ひどいわ、アーム!私もあなたの素顔が見たい!」
とこちらに鋒を向けてきた。
「俺の素顔なんか、見てどうする……」
「似合うメイクやお洋服を考えるわ」
「くだらない。絶対に仮面は外さないからな」
「なによ意地悪ね。クラージュには素顔を見せたんでしょう?」
「あれは事故だ!」
そう、事故なんだ。
他のことに気を取られてしまっていたから、仮面を外していたことを忘れていたんだ。
他の、こと…レゾンに、キスされたことに、気を取られていたから。
………くっそ、思い出したらまた腹が立ってきた…!
「そう言えばレゾンはどこだ」
文句、あるいは嫌味のひとつでも浴びせたくて周りを見渡す。
レゾンの姿はない。
「レゾン?……遅刻かな、まったく」
ディアナはやれやれと肩をすくめ、
「ちょっと様子を見てくる」
とくるりとドアに向かう。すると当たり前のように
「あん、待ってリーダー!私も行く」
なんて言いつつシャリテが後を追い、……俺はクラージュとふたり、部屋に残されてしまった。
「……ちっ。仕方ない、全員揃うまでマシンのメンテを…」
「なぁ、アーム」
俺が指示を出すのを遮って、クラージュが俺を呼んだ。
「…なんだ」
「レゾンと何があった?」
じっとこちらを見つめるクラージュの眼はぎらついていた。
「…………。なにも。お前が想像するようなことはなにも」
「そうかよ」
言うが早いか、クラージュはあっという間に間合いを詰め、
……次の瞬間には俺はクラージュの腕の中だった。
「なっ、なにして…」
「アーム。昨日見たお前の素顔が、瞼に焼き付いて離れないんだ。胸が苦しい。ほら、聞こえるだろう?俺の胸の、この高鳴り…」
クラージュは、ぎゅうと腕に力を込めて俺の自由を奪っておきながら、そんなしおらしいことを言う。
「もう一度、顔を見せてくれないか」
熱い息を鼓膜に吹き込まれ、俺はまずいと思いつつも、この状況を打破する手を思いつくことが出来ず、いやいやと首を振った。
「そんな可愛い抵抗、抵抗のうちに入らないぜ?」
クラージュの声は熱に浮かされたようだ。
「ほら、アーム……」
「や、いや、だ……っ!」
「強情なところも、嫌いじゃない」
クラージュの顔はひどく近くにある。
このままじゃ、こいつにまでキスをされてしまうのではないかと、俺は怯えた。
「アーム!」
俺を窮地から救ったのは、上擦ったレゾンの声だった。
はっとして顔を上げると、いつの間に来たのか、とても焦った顔をしたレゾンがこちらにばたばたと駆けてきた。
そしてそのまま、クラージュに掴みかかり、俺とクラージュを引き離す。
「大丈夫か!?何もされていないか?」
「あ…ああ、なにも…」
「良かった……」
情けなく眉を下げ、レゾンは俺をぎゅっと抱きしめた。
……俺の災難は、終わっていないようだな?
抱きしめる腕が変わったところで、こいつも危険人物であることに変わりはない。
「……レゾン。お前とアームは、どういう関係なんだ」
不穏に低めた声で、クラージュが問いかけた。
「お前に言う必要があるか?」
レゾンもいかにも気分を害している様子で答える。
「…三角関係、かしら?」
シャリテが、少し離れたところで首を傾げた。
気づかなかったがレゾンと一緒に戻ってきていたらしい。
「三角関係!」
当然居るディアナは大声で叫び、ショックを受けたと言わんばかりによろめいた。
「ああ!アームの!魔性の美貌に!惑わされし哀れな男たちよ!こうなったら、アームを賭けて決闘を──」
「待て。ディアナ。待て。俺の意思はどうなる」
暴走しているディアナのお陰で、幾分冷静さを取り戻した俺は、レゾンを振り払いようやく身体の自由を手に入れる。
「お前たち、つまらない冗談に俺を巻き込むな。何が三角関係だ、馬鹿馬鹿しい」
言いつつも俺はレゾンからもクラージュからも距離を取り、ディアナとシャリテを盾にするように二人の背後に逃げた。
「そうよねぇ……レゾンとクラージュが勝手に盛り上がってるだけよね」
シャリテはくすりと笑い、そしてぽんと俺の肩に手を置いて、
「魔性の美貌、私にも見せて?」
と言うが早いか俺の仮面をあっという間に奪ってしまった。
「あっ──」
あまりに予想外の人物からの不意打ちに、俺は目を丸くして言葉を失い、顔を隠すのも一瞬遅れた。
「きゃあ!本当に美人ね!」
「シャリテ!ふざけるなっ、仮面を返せ!」
「きゃー、怒ったぁー。こわーい♡」
シャリテは笑いながら仮面を俺に返したが、時すでに遅し。
先程まで一触即発だったレゾンとクラージュはこちらを凝視している。
また、顔を、見られた。
そして厄介なことに、あいつらはすっかり俺のこの顔の虜のようだ。
「アーム、ああどうして仮面で顔を隠してしまうんだ?」
「その瞳に俺を映してくれ、アーム!」
ふたりに詰め寄られ、俺は恐怖を感じ、ディアナの背に隠れた。
「……ふぅん。お前たち、アームの好みのタイプも知らず勢いだけで口説いたって駄目だろう?」
ディアナはにやりと、俺を振り向いて笑った。
「アームはな、誰よりも速い男が好きなんだよ。アームより、私より、──あのミハエルより速い男じゃないと、アームは落とせないぞ?」
それを聞いて、レゾンとクラージュは、はっとした顔をした。
そして、シュヴァリエ・ド・ローズを高々と掲げ──
「待っててくれ、アーム!俺は、誰より速くなってみせる!」
「妥当ミハエル!俺のアームは誰にも渡さないっ!」
と口々に気合いを入れたかと思うと、
「リーダー!早く練習走行を!」
「いや、次のレースに向けて作戦を。レースは頭脳戦だ!」
とふたりしてディアナに詰め寄った。
「まぁ、気合い十分ね♡」
シャリテが嬉しそうに笑う。
ディアナめ、何も考えていないようでいて──やはりこのレ・ヴァンクールのリーダーなだけはある。
俺はこの状況を利用させてもらうことにして、ふっと口元に精一杯笑みを浮かべ、言った。
「次のレースで一位を獲ったら──そうだな、ここにキスくらいなら許してやる」
手の甲をとんとんと指して言うと、レゾンとクラージュは色めきたち、それぞれに
「敵チームのデータを…!」
「次のコースで実践走行を、」
とばたばたと駆け去って行った。
「──単純。可愛い♡」
ふふ、とシャリテが笑い、俺は笑い事ではないと溜息をつく。
「士気が上がったな」
ディアナは満足そうだ。
「空回りしないといいがな」
若干の不安要素がないではないが、とりあえず今日のところは助けられた形になり、俺はディアナに礼を言おうと向き合った。
「恋の力は偉大なんだぞ?──ああ、ところで、」
ディアナは、芝居がかった仕草で俺の手を取ると、そっと手に手を重ねて、
「キスの権利は、勿論私にもあるんだろうな?」
「はっ……?」
「まぁっ………!」
俺の間の抜けた声に、シャリテの不機嫌な声が重なった。