夢から覚めた日〜ナバラ「あの日」のテランは雲一つない穏やかな陽気だった。
暑くもなく寒くもなく、洗濯日和と言わんばかりの優しい風が吹きすぎる。
そんなうららかな日だというのに何時にないむずがりかたをするメルルにナバラは朝から手を焼いていた。
「いつもお利口さんなのに今日はご機嫌ななめだねぇ」
女所帯のナバラ達を気にかけて何かと助けてくれる近所の若者、ドノバンがあやしてくれたが更に大声で泣いてメルルは家の中に駆け込んでしまった。
「全くだよ。せっかく忙しいお兄さんが遊んでくれたのに」
悪いねぇと詫びるナバラに、たまにはそんなこともありますよと気の良い笑顔を向け、若者は花と香炉の入った籠を取り上げ竜の礼拝所へ朝の礼拝に向かった。
「全く信心深い子だよ。テラン人の中でも朝晩欠かさず竜の神殿に詣でるなんてあの子位だ」
ナバラは若者の背に呟いた。
祭壇に花を供え竜を象った香炉で香を焚き、それが燃え尽きるまで竜の神に日々健やかに暮らせている事への感謝の祈りを捧げる。
旱魃の年は雨を請い疫病が流行った時には病を得た人の一日も早い平癒を願う。
彼の親もそのまた親も…テランに生まれ育った者ならば例え他国とは異なる竜の神を祀る変わり者、と奇異の目を向けられようとも当たり前の事だった。
テラン以外の国であれば災害や飢饉に困窮したときには領主や王に窮状を訴え民への助力を願うのだろうが、それはテラン人の流儀ではない。
そもそも王は城に引き籠もり民の声に耳を貸さなくなって久しい。
朝の仕事を終えた人達が礼拝所に集まってきたのでドノバンは香炉を籠に戻し場所を譲った。
円形に並んだ柱に沿って十数人が祈りを捧げる横を静かに通り過ぎ、陸地へと戻るドノバンに行き合ったナバラは会釈をした。
「ナバラさん、メルルちゃんもお祈りに来たんだね」
「ああ。やっと泣き止んだと思ったら神様にお祈りしなくちゃって矢の催促さ」
ナバラの服の端を掴んで不安そうにしているメルルはキョロキョロと何かを探しているようだった。
拝殿と陸地を繋ぐ通路の丁度真ん中で話していたナバラは不意に心臓を絞られるような痛みを感じた。
側でメルルが甲高い悲鳴をあげ、それははじけた。
目を穿く閃光 耳を聾する爆音 砂埃が肌を突き刺さほどの強風とそれに煽られた水飛沫。
そして神の怒りを形どったような異様な白煙の柱が屹立する。
それらは過ぎ去った後に言語化されただけでそれが起こった時にはナバラには何一つ判らなかった。
気がつけば礼拝に来ていた人々は息が止まるほどの衝撃に地面に叩きつけられたまま、どうすれば良いかも判らずただ神への祈りをバラバラに唱えていた。
礼拝所を抱える湖が大嵐の時のように波打ち礼拝所にいた者を何度もずぶ濡れにする。
白く塗りつぶされ視界が戻らぬままナバラは気配を感じなくなったメルルを、たった一つの宝を探した。
何かが聞こえた気がして通路の端ににじり寄ると強風に攫われ湖に落ちたメルルの小さな手が水面に沈む所だった。
「誰か!誰か助けておくれ!」
泳げないナバラが声をあげて助けを求め、周囲を見渡すと近くに地に伏したまま大声で竜の神に祈っていた数名の若者を見つけ、一人一人肩を揺すって助けを乞うが血縁でもない老婆の言葉に耳を傾ける者は居なかった。
最後に辿りついたのがドノバンだと分かりナバラは絶望した。彼ほど神への祈りに執着する者は居ないと分かっていたからだ。
「メルルが?!」
だがナバラの訴えを聞くな否や彼は靴を毟り取るように脱ぐと湖に飛び込みメルルを助け出してくれた。
「急いでメルルの手当てをしないと」
彼は水を呑みぐったりしたメルルとナバラを両脇に抱えるように急いでその場を後にする。
ナバラは孫の命の恩人に感謝しながらも予想外の若者の振る舞いに戸惑いを隠せなかった。
そして陸地へと渡りきった所で期せずしナバラとドノバンは同時に振り返る。
ナバラがあんなに大声をあげてメルルの命を助けて、と求めた人々は未だに地面に這いつくばったまま己の魂の救いの為だけに祈りを捧げている。
それを暫く見つめた後、ハッとしたようにドノバンは二人を支えて家まで送り届けた。
☆
孫の看病に一晩かかりきりになっていたナバラの顔に朝日がさした。
眩しさに瞬き天変地異が起こったというのに予兆を捉えられなかったこと、考えてみれば「あの時」から一度も竜の神に祈りを捧げていないことに気付き愕然とした。
メルルの様子を見てまだ暫く眠っていそうだと判断し、礼拝所へ行こうと捧げ物を手に取りそっと家から外に出ると丁度ドノバンと行きあった。
昨日あんなことがあったのに、彼の表情は何時になく輝いていて、まるで夢から覚めたように溌剌として見えた。
「おや早いねぇ。今から礼拝所へいくのかい?」
「いいえ。一晩考えたんですが此処から出て行こうと思いまして」
ナバラは目を見張り息をのんだ。
「なんだって急に…それに家はどうするんだい?」
「養わなきゃいけない家族はもういないから、俺はどこにでも行けるって気がついたんです」
ドノバンは数年前に両親を無くして一人暮らしだ。
そして親の代からの生業は細工物を作って売ることだが、テランの人々では修理は頼めても新しく買う余裕はなく隣国まで足を伸ばしても売れなかった…古臭い道具で作られた拙い細工物を買う酔狂者はいない。
「それでは失礼します。メルルちゃんにもよろしくお伝えください」
ドノバンはいつも通り穏やかな笑顔と淀みない足どりで、わずかに残る白い雲の残滓に背を向けて立ち去った。
二年ほど後にナバラの元へドノバンから一度だけ手紙が届いた。
筆不精を詫びる真面目さはテランにいた頃と変わらず、短い文章ながら浮き立つように綴られた文字から幸せそうな生活が垣間見えナバラもつられて笑顔になる。
「今までテランから出たことが無かったから、行く先々で色々な仕事を請け負って稼ぎながら旅をするのが楽しくて仕方ありません。今はリンガイアの港町で知り合いになった親方からオーザムで働かないかとさそわれています」
メルルが字が読めるようになったら見せてあげよう。
ナバラは手紙を大切に鍵付きの引き出しにしまった。
リンガイアとオーザムが魔王軍の手により壊滅するのは「あの日」から11年後の事となる。