エンドレスサマーブリーズいわゆる年の暮れであった。
見えない何かに追われる人々は焦るように道を急ぎ、散漫となった注意力で小さないざこざを起こす。街を守るというヒーローの仕事は、そういった大なり小なりのトラブルの間に入り調停者となることも含まれた。
サブスタンスやイクリプスに年末年始の概念が存在するのかは分からないし、前者は多分無い気もする。けれどもここ一週間ほどは彼らの出現に対する出動要請もなりを潜め、ディノ達ヒーローは市民への対応を主な業務内容としていた。一人暮らしの老人の荷物持ち兼話し相手、繁華街のスリの捕縛と更正、家出少女の説得。人と接するのが好きなディノは、そのどれもを嬉々と買って出た。
ブラッドとオフの日が被っていることにディノが気づいたのは三日前だ。腕っぷしを必要とする仕事が少ないと、なんとなく体が鈍ったような気分になる。動きたがりのディノは夕食後、汗を流しにトレーニングルームに赴き、たまたまアキラと出くわした。
互いに連れもおらず、ルーキーズキャンプにてディノの実力を知って以来、いつかは手ずから稽古をつけてほしいと思っていたアキラは、スパーリングの相手をディノに頼み込んだ。かの合宿でチームの異なったアキラとはなかなか一対一で話す機会もなかったので、願ってもいないことだとディノも快く引き受ける。
そうして一に拳を受け止める側、二に繰り出す側に回りながら他愛ないおしゃべりをするなかで、ブラッドの休日の話が出た。今度こそしっかり休ませてやると使命に燃えるように息巻くアキラに日にちを尋ねると、三日後だと返ってくる。
なぜか自分の身にも覚えがあるような気がしてならないディノは、休息のため飲もうとしていたミネラルウォーターのボトルキャップを半開きにしたまま照明を見上げた。眩しい視界の白。まばたき。
「そうだ!俺も休みだ!」
「マジか!じゃあ頼んだぜ!」
「わかった!任せて!」
なにが?
勢いのみの安請け合いのあとで我に返り首を傾げたディノが、ブラッドの休日監視役に任命されたのだと理解が及ぶまで数分かかった。
黒のロングコートはしっかりとした生地で仕立てられ、冷たい冬風にも易々と煽られはしない。ブラッドの隣を歩くディノはアンバーのダッフルコートの前をゆるく留めて、マフラーに顎を埋めている。サイズに余裕を持たせがちなディノの出で立ちが、なにかのゆるいマスコットを見ているようで、ブラッドは密かに口角を上げた。
グリーンイーストヴィレッジ。ブラッドはこの街を好ましく思っている。所属やランキングなどは一旦端に置いておいて、ここには彼の好きなものがたくさん散らばっていた。日本文化、緑の多く穏やかな気風。けれど決して活気がないわけではなく、大きなスタジアムでは催し物が常にタイムテーブルを刻み、土日祝にはスポーツ観戦の客がよその街からも訪れる。そういうバランスのとれた場所は忙しない日々を過ごすブラッドの心をよく癒した。
「すまないな、ディノ。せっかくの休みに」
「なに言ってるんだよ。誘ったの俺だよ?こっちこそ付き合ってくれてありがとな」
「昼は本当にピザじゃなくていいのか?」
「ふふ、今日はブラッドコースだから」
身をこの巻きにされ冬支度をとうに終えたヤシの木達を背景に、うきうきと楽しそうなディノ。友人の要望を一番に優先させたいのだと告げるその屈託のない笑顔に、ブラッドは昔からめっぽう弱かった。代わりになにか見合うものを返してやりたくなるのだ。以前から、ディノのことは特別甘やかす男だと何度か指を差されたことがある。しかし言われるまでもない、当然本人の自覚症状の範囲内だ。なので最近ではもはや図太く開き直っているブラッドであった。
「お寿司食べるだろ?それから紅葉……はさすがにもう散っちゃってるから……どうしようかなあ」
「だがお前は生魚があまり得意ではないだろう。寿司以外でも俺は」
「ブラッドコースからお寿司抜いたら駄目だよ!破綻しちゃう!」
ディノは昔生魚で当たった。体内に根付いて長いサブスタンスの影響で大事には至らなかったが、丸一日腹痛やら上やら下やらで寝込んだのだ。アカデミー在籍の時分だったから、ブラッドはキースとともに見舞いに行った記憶がある。日頃明るく生きている人間の弱っている様子にこちらもなかなかに堪えたものだ。以来ディノとの食事の場になまものを選ぶことは極力避けている。そしてそれをディノは分かっていた。
「食べられないわけじゃないから安心してくれよ」
「……ならば定食の店にしよう。お前が食べられるものを選べばいい」
「あっそれいいな!俺テンプラ食べたい」
「ふむ、天ぷらか……いや寿司……天ぷら……」
「あはは、ちょっと分けてあげよっか」
海老かな茄子かな、とディノは自然に大物ばかりを挙げていく。育ち盛りの子供におかずを分け与える母親の慈愛のように、自分のことがまるで後回しだ。絶対大葉か海苔にしようとブラッドは意志を固めた。どちらも無論美味しいが。
そうして気安い話や互いの近況などを喋りながら歩みを進め、目的地に着いたときには昼時だった。ちょうどよい時間帯であるからそれなりに混みあい、しかし満席というわけでもない。店主とは顔見知りなのか会釈と手振りのみでスムーズに案内され奥の方へ。ついていくだけのディノは、はじめましての店の内装を珍しげにきょろきょろと見回す。
「ブラッド、常連ってかんじだね」
「纏まった時間が空く日にはよく来ていたからな。顔を覚えてもらっている」
宛がわれた席は本当に端っこで、店内の混雑から切り取られたように客から見えない位置にあるものの、板前など店の者からは目視出来るようだ。
すぐに暖かい茶が出され、共にお品書きを渡される。日本茶を飲む機会の少ないディノは興味津々で、さっそく湯呑みに手を伸ばそうとしたところで上着もまだ脱いでいないことに気づき、慌ててマフラーを外すところから始めた。その最中、料理長と思われる初老の男性と目があったブラッドがまた軽く会釈をするのが見え、ディノもコートのボタンを外そうとした手のままぺこりとする。返される細まった目尻の皺が優しげで、それだけでもう、親友が懇意にするのも納得のいく、素敵な店なのだと分かった。
「いいお店だね。ラブアンドピースだ!」
「ああ……よくこうして便宜を図ってもらっている」
「ブラッド、あっちの席で食べてたらひっきりなしに写真とかサイン頼まれて大変になっちゃいそうだもんなあ」
「…………まあな」
「あっこれ既にやらかしたことある反応だ……」
返答の妙な間と、ディノを見ない寡黙な紅紫の瞳が湯呑みに向くのがどうにもおかしい。
「でも、なんかかっこいいね」
ブラッドの正面、湯呑みを両の手で囲んで、外気に冷えた手を暖めるディノがふわふわと笑う。空想みたいな色ばかり持つ男によく似合う、柔らかな表情だ。今にも茶をいただこうと口を少しだけ開いていたブラッドだったが、一度それを置いて首を傾げて見せた。かっこいいくだりはどこにもなかったはずだ。
「もしこれがデートでさ、俺が彼女だったら、彼氏さんがこんな素敵なお店の顔なじみだなんてなんだか嬉しくなっちゃうよ」
茶を口にする前でよかった。おかげでブラッドは吹き出さずに済んだ。彼氏さん。彼氏さん?
はっと思い出したようにディノがお品書きを開く。質の良い黒革のような表紙、和紙を模したページに刷られた初めて見る料理や献立、その彩りにわくわくと目を輝かせ、すぐに逆さに回してブラッドの方へ向ける。お前の方が詳細を知りたいだろうと戻そうとしても、目がいいので逆からでも見られると返されてしまう。こういう気配りの出来る男なのだ、ディノは。だから先ほどの発言もろくに蒸し返せなくなる。
お前は彼女なのか?いいのかそれで?ブラッドの頭の中でだけ、彼に似つかわしくない俗っぽい質問が繰り返し回っている。ブラッド的には、そういう関係性もやぶさかではなかった。
当初の予定通り、ブラッドは寿司、ディノは天ぷらが中心の定食を注文した。待つ間にこのあとの目的地を話し合う。水族館かショッピングモールかとさまざまな候補を挙げるディノに、しばし思案した末、一言「海を見たい」とブラッドは告げた。寂しい冬の海にディノが楽しさを見出だせるかは分からない。ただ、波に聞いてほしいことがあったのだ。笑顔のディノは朗らかに頷いてくれた。
「うーん……」
「ディノ。無理して使う必要はない」
「でも、なんか悔しい」
運ばれてきた料理の下に敷かれたトレーと、ディノが辿々しく持つ箸は揃いの黒色で、縁に朱色が入っていてそれだけで格調高く見える。もう一つ添えられた銀のフォークだけがなんとも異質なのだが、多国籍なグリーンイーストの、特にリトルトーキョーやチャイナタウン等アジアエリアでは当たり前のもてなしではあった。ディノはちらりとブラッドのトレーに目をやる。彼の領域に余計なものは存在しなかった。
「こんなことなら特訓してくればよかったなあ。お箸」
「と言ってもピザは手掴みだから不要だろう」
「ほ、ほんとだ……深刻なお箸チャンス不足……」
謎の造語の誕生に、ブラッドが鼻で笑った。
このまま意地になったとて、せっかく揚げたての天ぷらが風味を損なってしまうだけなので、ディノは溜め息一つで観念してフォークを握る。いただきますのポーズ。
「俺も、ブラッドみたいに綺麗にお箸が使えたら、様になるのになあ……」
「…………」
「あっそうだお裾分け!」
ここへ来るまでの道中での会話を思い出したディノは、色とりどりの天ぷらの具材を確認し始める。海老、茄子、しいたけ、れんこん。いくつか分からないものがあるので、あとは見て選んでもらった方が早いだろうと、ディノが顔を上げようとすると。
「少し詰めてくれ、ディノ」
正面にいたはずのブラッドが隣に来ていて、思わずひゃっと声が漏れた。また少し笑われる。慌てて一人分右隣に空きを作ると当たり前のように埋められる、その距離。
「えっ、え、どうしたの?」
「寿司は冷めんからな。すぐ戻る」
「お、お寿司冷たいもんな。あっえっと、テンプラあげる。どれがいい?」
「ありがとう。大葉をもらってもいいだろうか」
「大葉?おおばおおば……この緑のかな」
「そうだ」
「これだけでいいのか?」
「充分だ。玉子なら食べられるか?」
「玉子のお寿司だ!ありがとうブラッド!」
無事にトレードが決まり、ディノはフォークで大葉を移動させようとする。しかし薄く大きい対象は刺すと割れてしまいそうであり、乗せると途中で落っことしそうな危うさも孕んでいた。そんな悩めるディノの隣から助言が飛ぶ。
「ディノ、箸を」
言われてそのまま箸を持つ。一度は諦めたものを、またぎこちなく。そこにブラッドの手が優しく触れた。
「固く握らず、軽く。そう」
「う……こ、こう……?」
「ああ。そして後ろが少し出るように。上の箸だけ動かして、先端が合えばいい」
「手、めちゃくちゃ震える……!」
「持ち方はあっている。実践してみろ」
重なっていた手が離され、一人立ちのときを迎えたディノが、小刻みに震える箸で大葉を摘まんで持ち上げる。成功したことにうきうきしたのも束の間、さてこれをどこに置くか、天つゆに付けるところまでやるべきなのか、そのあたりにディノは再度悩むこととなった。ブラッドを見る。
「……あーんする?」
「……一口で食べきる自信がないな」
「だよなあ……」
ならば、と自陣に手を伸ばしたブラッドが、お吸い物の蓋を取り皿の代わりとすることで、この問題は解決した。向かい側に戻る彼を待ち、もう一度二人で手を合わせる。慣れるに時間を要する箸は残念だが一旦封印して、フォークで食べ始めた。
さくさくとした衣がつゆにちょっと浸けることでふやけて、噛むとじゅっと染み出す。そのいい所取りの食感がなんとも美味しい。あまり食べる機会のない白いごはんもふっくらとしていてほんのり甘みがある。こちらにもお吸い物が添えられていて、ディノはつい正面の男を盗み見てしまった。
同じ木製の一対のはずなのに、扱う者が違うとまるで質まで変わるようだ。指揮者のタクトの如きしなやかさで、無駄なく選び取っては口へと運ばれていく。どの所作をとっても美しかった。あの綺麗な手指が先ほど、自分のそれに重ねられ絡められていたのだから勘違いもする。離れるのを惜しく思ってしまった一瞬の感覚を、ディノは大切に持っておこうと誓った。
美味を満喫したあとは、潮の香る方へ歩みを進める。浮かれた足取りのディノに、ブラッドも満足げな表情を浮かべた。
「全部美味しかった~!玉子のお寿司も甘くて!」
「それはよかった。大葉も清涼な風味が口に広がって、とても旨かった」
「すごい、ブラッド食レポ上手だ……!」
「お前こそ、会計の際に賛辞を贈っていたではないか」
「へへ……なんかテンション上がっちゃって……」
初めて食べたけれど、どれもとても美味しかった。
特に海老の食感が、噛み始めの軽さから特有の弾力へ、口の中で変わっていくのが堪らなくて。
お吸い物も上品で、手鞠型の麩が目にも楽しかった。
日本の北国から取り寄せているとブラッドから聞いたお米も、何もつけなくてもあたたかく、ふっくらとした優しい味で。
このようなレポーター顔負けの感想を幸せそうに伝えられて、会計を担当した店主もとても嬉しそうに礼を述べていた。二人でごちそうさまと言って、ディノはまた絶対来ますとまで付け加える。待ちの席でお品書きを眺めていた若夫婦が「急激に天ぷら食べたくなってきた」「僕も」と注文を決める現場を横目に見て、妙な面白さを味わうブラッドであった。
「次はお箸ちゃんと使えるようになっておきたいなあ」
「特訓あるのみだな」
「マイ箸買っちゃおうかな」
「それならば練習に向いたものを知っている。今度贈ろう」
「えっいいの?」
いいのだ。ブラッドは何かにこじつけてこの、共にいて楽しい友人に贈り物をしたいだけなのだから。
「また絶対来ますと宣言していたからな。上手くなって、今日からフォークは不要だと伝えればいい」
「フォーク卒業宣言だな!」
「きっと店を上げて喜ばれるだろう。写真を撮ってキースにでも送信するか」
冗談を言うブラッドは新鮮で、そんな一面を拝めるこのときに、傍に立つのが自分であることがディノにはなにより嬉しかった。だから、あまりにも自然な流れに気づくのが遅れて、ようやくディノがあれ?と首を傾げる。
「ブラッド、また一緒に行ってくれるの?」
そこで真っ黒色の出で立ちの冷静を装った男が、こちらもようやく自分の無意識下の発言に気がつくのだ。少しだけ、目を伏せて、逡巡。
「……勝手に、俺が連れ添いだと、そう思っていた」
約束のひとつもない、恥ずかしい先走りだった。今日の同伴が自分なのだから、次の機会もきっと変わらぬだろうと、決めつけて一人で浮かれるブラッドは端から見たって涼しい顔のままである。他者なら欺けたかもしれない。けれども隣で彼を見つめるのはディノだ。人の心の機敏に鋭く、やわく掬って包む、そういう男。首をぶんぶんと振って、ブラッドの手を握ってくれる、情だらけのそんな。
「俺も……俺もそう思ってたから、合ってるよ」
「……そうか。よかった」
「うん」
短い肯定とはにかみ、触れたままの手。現金で都合のいい期待がせり上がってくるのを、ブラッドは律した。
どれだけブラッドが慕わしく思ったところで、己とディノとは恋仲でもなんでもない。健全に保たれるべき友人関係において、街中を恋人のように触れあいながら歩くなんてことはあってはならなかった。だから、自分から手を離した。いくら体温が名残惜しくとも、行こうかと微笑んだブラッドに頷き返したディノの表情が少し寂しそうに見えても。
だから海へ行くのだ。遥か波の向こうへ、この感情を流し去るために。まるで灯籠流しのようだ。ブラッドの恋を葬り悼むための。
芽吹いたのは、食あたりで寝込んだディノの部屋へ行ったときだと思う。想定よりも具合の悪そうな彼が食べられるものをと、キースはアカデミー寮近くのマーケットへ向かい、ブラッドだけが残った。椅子、使っていいよ。ディノが指で示す先の学習机の椅子を拝借して、ブラッドはベッドの近くに腰かける。熱でふわふわと上擦った声が細くて哀れだった。
額の冷却シートが既にぬるい。今思えば、体内のサブスタンスが侵入者である細菌を敵視し、過剰に迎え撃っていたせいかもしれない。それでも当時はディノの事情なんて知らなかったから、三人の中で一番に明るい彼が苦しげに息を吐くのも、眉や目をしかめて耐えるのも見ているのが辛かった。だからブラッドは、跳ね気味のピンク色の髪を梳くように、痛みを和らげるように撫でてやった。小さな声が名を呼ぶ。不快かと尋ねれば、否と返ってくる。
「ブラッド……やさしいね……」
目をきゅっと細める笑い方にいつもの天真爛漫さはなく、それなのにひどく眩しくて、ブラッドはこれから先、どんなときでもディノの味方でいようと己に誓った。
そんなふうに心の中に現れてしまった小さな双葉を大切に抱えながら、ブラッドはあの日を迎えたのだ。帰るべき場所に戻れなくなったディノを殉職者として処理し、諦めずに内密に調査を続けたもののあと一手が届かず、敵陣に迂闊に踏み込めもしない。引き留められなかった手を悔やみ失望して、芽は枯れてしまうかとブラッドは思っていた。なのに結局摘み取ることが出来なかったそれは相手も近くにいないまま育ち、いつしか蕾になっていた。
図々しい。ディノの情報の端を掴んではいながら組織と効率を優先し、結果慕わしい人は四年の歳月を空虚のなか過ごしたというのに。
「さっむい!冬!海!」
「冬だな。そして海だ」
「……ブラッド実は思ってたより寒いんだろ」
潮風が吹き、かつて赤や黄だった秋の遺物をかさかさと舞い上げる。暗い水面に生命の気配はなく、侘しさからかいっそう寒々しい。色彩を失った場所には人の足跡すら残されてはおらず、だだっ広な空間にブラッドとディノは二人きりであった。
並んで海を見ている。ぎらぎらとした陽光を受け輝きに満ちる夏の波とは違う表情のそれが寄せて返すさまは、生命を食らうように荒々しく、しかしどの往復とて同じ形にはならない。規則的に見えて変則的。その定まらなさに目が離せなかった。
「入って遊べたら楽しいんだけどな。でもこうして眺めてるのも心が落ち着くよな」
「ああ。繰り返す波を見ているだけで時間を忘れそうだ」
「……贅沢な時間だなぁ」
まっすぐ彼方を眺める横顔は穏やかだ。ディノの瞳はこの場において、空のようでも海のようでもあった。美しく透る水色。そこに自分のみを映してほしいとはブラッドは思わない。人々と交わり支え支えられ、明るい世界で生きていくのが、ディノには一番幸せなのだと分かっていた。
「あ、ブラッドまた難しいこと考えてないか?眉間に皺寄ってるぞ」
上半身を傾けて、しょうがない人だと言いたげな、眉を下げた笑みで覗き込んでくるディノの姿に愛しさが降り積もっていく。好きだ。そう告げたがる咽喉をぐっと閉じる。この気持ちを浚ってほしくてブラッドはここに来たのだ。持つ資格のない想いを置いて、友人でいるために。
視界の隅で桃色の髪が風に煽られては空に泳ぐ。なにやら上体を屈ませて足元をいじくっているディノの行動に、物思いに耽っていたブラッドはようやく気づいてそちらを向いた。
「少し入ってみない?海」
手早く靴下まで脱いで靴の中にしまい込んだディノが誘う。膝下まで捲り上げた、季節に似つかわしくない無防備な白い足と、整った爪先がいっそ清廉であった。ブラッドは首をゆっくり横に振る。水を拭うタオルも持っていないし、凍えるほど冷たそうな水面に足をつけるのはある種、蛮勇だ。
「じゃあ俺が浸かってくるから見てて」
裸足のディノが靴を片手に、もう片方でブラッドの手を引く。きめの細かい白砂はやかましい音も立てず、粉をはたくような静かさで、四つの足跡に踏まれていった。波が来ないくらいのところでディノの手は離れ、彼は一人で進んでいく。遠ざかっていく後ろ姿があの日と重なる。それはもう二度と、ブラッドが目にしたくないものの一つだった。
「一人で行くな。俺も行く」
呼び止められ、今度はディノが手を取られる番だった。振り返りざまに丸くなったスカイブルーに映るのは今、ブラッドだけであった。己一人を見つめることはなくてもいいと殊勝な人間を演じたくせに、いざそうなってしまえば抗えないくらい満たされてしまう。
「いいの?」
「ああ」
「ほんとに?」
「ああ」
「ふふ、やった」
楽しそうなディノを見ているのが楽しい。後先のことは今は横に退けておこうとブラッドは思った。三十前の男が子供に還るのなら、一人だろうが二人だろうが滑稽さは同じなのだから。
ブラッドが掴んだ手をディノが握り返す。波の届かぬところへ履き物はすべて置いていった。濡れて削れた波打ち際の砂は尖りもなく、ひたひたと足裏に心地が良い。やってくる波が二人の足を飲んでは立ち去っていった。ぎゅっと目を瞑って変な鳴き声を出す者と、鉄面皮の剥がれぬ者と。彼らがどれだけ見目麗しかろうと、もし遠くから見る人間がいれば、頭の湧いた馬鹿の光景に違いないだろう。けれどなんでもよかった。少なくともブラッドにとっては。
痛いほどの冷たさで刺す冬の海が、二人の体温を下から徐々に奪っていく。
「もう無理~!感覚なくなる!」
「……もはや鍛練だな」
「戻ろ戻ろ!」
その場で駆け足をして暖を取り始めたディノを連れ、一見冷静な面構えのブラッドが砂浜を戻っていく。
しかしこの表情筋が固まった男も人間であるから、痺れたみたいになった足が道中縺れた。咄嗟に巻き込まないよう手を離したというのに、ブラッドの異変に気づくのが早かったディノは、その体を支えようとして結局道連れに、砂浜に倒れることとなった。「わっ」と短く漏れたディノの声と、乾いた白砂、淡い色の貝殻の破片が、いくつか宙に舞ってまた埋もれた。
己の影の檻で捕らえるように下に組み敷いたディノを、どこか現実の光景でないような目でブラッドは見下ろしていた。ディノもまた動揺を隠せずに、半開きの口はただただ驚いただけで、なにか言葉を発する様子はない。ディノの耳横に突いた手の内側が汗ばむ。波が、うるさい。
七十もの重さのある男は他者の上に乗るなどといった暴挙は控えるべきだった。早く退いてやらねばならない。そう思うのに、まるで縫い付けられたかのように、ブラッドの動きは完全に止まっている。脳だけが忙しく、お節介な助言よろしく現状を囁いては巡らせた。ここに人の気配はない、二人きりなのだと。
「ブラッド……」
見上げてくる水色が、影の中で潤んだように見えた。嫌がるようなものではない、どこか期待と不安の混ざってゆらりと揺蕩うきらめきに、迂闊にも一線を越えそうになる。
オーバーサイズを好むディノの袖口が手を半分隠してしまうのも、マフラーが後ろっかわでリボンのように結ばれているのも愛らしい。桃色の髪がランダムに散らばっている。互い違いに乱れてしまった前髪を己の指で梳かしてやって、露になった額や頬に触れたい。
広い視野を無駄遣いして、そんなところばかり見ては邪なことを考えてしまう。資格はないと、手のひらに刺さる砂粒を意識しては、じわりとした痛みでブラッドは自分を戒めた。
けれどもブラッドだって一人の男に過ぎない。心を持った、ただのちっぽけな男に過ぎないのだ。誰も見ていないのなら。もしも、同じ気持ちを持っているのならと、そう願ってしまったって、責める者などいないはずだ。
「……ディノ」
ブラッドの低い声が、緊張からか少し震え、なんの感情からか、湿る。耳に届いたそれが、ディノの頬をほのかに染めた。
自分を組み敷いたまま退かず、苦悩を見せる美しい友人は、いつだってディノに優しい。そして強く聡明で真面目な人だから、心にしまったブラックボックスの開け方も忘れて、いつか膿ませてしまう。彼の箱は一つきりではないけれど、そのうちの一つはきっとディノにしか開けられない。あの日の後悔をブラッドが不当に抱え続けていることを、ディノは分かっていた。だって当事者は自分だ。好きな人の悩みの種でいることは、つらい。
だからこのまま、一線を越えてほしかった。まるでここだけ真夏のように、灼熱。注がれる視線だけで焼かれてしまうくらいの熱だ。きっと、こんな想い自分だけじゃない。勘違いじゃないと、ディノはどうしても信じたかった。
距離が少しずつ近づいていく。互いの呼吸と、騒がしい鼓動、それから波の音。全部がまるでこの場にお誂えのBGMだった。ディノの目がゆっくりと閉じていくのをブラッドが見守る。
本当に、二人きりだった。街の方からオレンジの閃光が放たれ、何人もの悲鳴が聞こえるまでは。
「休暇中にすまなかった。だが助かったよ」
ヒーロースーツを解除したジェイが笑顔で手を振り、科学班および回収班と共に戻っていくのを、ブラッドとディノは並んで見送った。手には不要になって取っ払った防寒具を抱えて。
「……暑いね」
「……暑いな」
市民の話によれば。突然飛んできた青いサブスタンスは、どこか元気が無さげにふらふらと低空飛行していたらしい。はじめは慌てふためいた周囲の人々だが、どうにもしょんぼりとしたようなその姿にだんだんと憐憫の情を抱くようになってしまった。「群れとはぐれたのかな」「お腹空いたのかな」さして詳しい知識を持たない市民らの目には動物にでも見えていたのかもしれない。きっと寒いんだよ!青いし!子供が叫んだ。
サブスタンスは別に暑い寒いで色を変えるわけではない。けれど確かに、その甲高い声を聞いたか聞かないかのタイミングで、サブスタンスが高く宙に浮かんだ。みるみるうちに核が変色していく。青からオレンジへ。空に太陽がもう一つ現れたようだった。そうして眩しい光が場に放たれたのだ。
そんな大通りに海帰りの二人が駆けつけたときには、ちょっとした騒ぎだった。すべてを焼き尽くす残忍さもなければ、冷めたコーヒーほどのどっちつかずさでもない、数ヵ月前までは嫌にすらなっていた夏の気配がそこにあったのだ。
おまけに人気の高いブラッドとディノ、出動要請にすぐさま駆けつけたジェイが合流して華やかなステージの完成だ。わあきゃあと上がる声に手を振りながら、ジェイが横たわるサブスタンスを抱え起こす。力を使い果たしたのか動く素振りを見せないその物体だが、なんとなく幸せそうでもある。ジェイ!そいつ寒がりなんだよ!先ほどの子供が寄ってきて心配そうにするのを、ジェイは蔑ろになどしない。
「そうか、ありがとう。なら暖かくしてやらないとな!」
頭を撫でられた子供は嬉しそうに母親の元へ帰っていった。サブスタンス、夏が恋しくなるの巻。わけのわからない習性に、ヴィクターもきっと大喜びだろう。
洗濯物の乾きが鈍くなって久しいこの時季の、一つの陰りもない晴れ間だ。現場検証の科学班曰く、持続はせいぜい一日二日。とっとと家に戻り、カーテンや敷き布団などの大物を干し始める住民たちの姿を見上げるディノもまた、嬉しそうだ。散歩待ちの犬のようににこにこと、本当に太陽の似合う男である。
歩こうか。誘うブラッドに頷きはにかむディノに、もうあの砂浜で感じた湿度はなかった。夏風がディノの跳ねた髪を遊ばせ吹き抜けていく。ピンク色の毛先が陽光に透けてオレンジがかるのを、ブラッドはただ見つめて、ただただ美しく思った。
「いい天気だな」
こちらを振り向いて楽しげに笑うディノと、その背景にくっきりとした青と白。どこまでも見渡せそうなほどに、清澄。
「……ああ、ほんとうに」
友人が織り成す鮮やかなコントラストに、ブラッドの冷涼な目が細まる。
実際のところ、彼にとってきっとどの季節にディノがいても、それは素晴らしい景色なのだ。春に咲く花々、夏の日射し、秋吹く風、冬の白さと次の季節への焦がれ。その真ん中に愛しい人がいて、暑い寒いと笑ったり困ったりするのを傍で見つめていたいと、そう願ってしまう。ブラッドがどれだけ自身を戒め縛り付けようとしたって、結局心はディノを求め、瞳は彼を追って視界に収めたがるのだ。不毛な一人相撲を延々と繰り返している。
「あのさブラッド、俺」
「……どうした?」
「……さっきの、海でのこと。なかったことにしたくないな、って」
ブラッドの動揺をディノは見逃さなかった。
「……下敷きにしてしまって、すまなかった。まだ謝れていなかったな」
「ううん。俺も支えきれなくてごめんな」
「……砂がついている」
髪を払う手とぽろぽろ落ちていく海の名残は、確かに視界に映る事実だ。けれどそうではない。そうではないのだ。礼を言った口のまま、ディノは柔らかく、しかし決して譲る気などない尋問を続けた。
「ブラッドは……あのまま触れあってたら、どうなってたと思う?」
「…………ディノ」
「俺は。俺はね、嫌じゃなかったし期待もしたよ」
言ってしまって、肌がぶわりと昂るのを感じる。ディノはブラッドの退路を絶つ前に、まず自分へ背水の陣を敷いた。こうなってしまえばディノは強かった。
だってブラッドは退かなかったのだ。あのとき、ディノを押し倒すかたちになったあと、ぱっと離れることはそこまで難しくなかったはずだ。見つめあう瞳の強い力を、近くなった距離を忘れていない。互いが互いしか見ていなかった。鼓動も聞こえそうなほどに。
「……すっごくどきどきした。それじゃダメなのか?」
「……」
「単純に考えてしまうのは……そんなにいけないことなのかな」
「ディノ……俺は」
腹を括らねばならないときなのだと、ブラッドは観念した。ずっと好きだったのだ。これから先どうなるかは分からないけれど、傍にいてほしいと思う。大人になって随分経つ自分たちには、一緒に生きていくうえで必ず関係性に名前が必要になる日が来る。宙ぶらりんのまま連れ添うことは出来ない。
ディノと、恋人になりたい。ストレートにそう伝えたい喉が、上手く息を吸ってくれない。たかだか数音を躊躇う臆病さが、ブラッドは嫌になった。ディノが呆れたように、けれど少し笑って肩を竦める。
「んもう」
きょろきょろと周りを見るディノに首を傾げるブラッド。強く手を引かれ、反応が遅れる。距離感がおかしいと思った刹那、唇に伝わるほのかな、熱。ブラッドの鋭い形の目が、面白いくらい見開かれた。
なんのことはない。踵も上がりきらないくらい低い背伸びだ。それでディノはブラッドにキスをする。冬の寒さに縮こまっていた人々が短い夏を喜び、子供たちが広い道を駆けていった、その裏で。誰の目にも触れない一瞬を掠めて離れたディノが、赤く染まる頬を陽気のせいにするように手で扇ぎ冷ますのを、ブラッドは日頃の冷静さを全部落っことしたような目で見ていた。
「へへ、暑いねブラッド」
「……誤魔化すのが下手すぎる」
「や、だってなんか…………いや俺ちょっとどうかしてたかも……恥ずかしい……こんな往来で」
「俺からもしていいか?」
「は、え?」
「していいか?」
「だ、だめ!人目、が」
阻止されても結局ブラッドはやり返した。先ほどの不甲斐なさが嘘のような図太さだ。通りに背を向けるブラッドと、彼より少しだけ丈の低いディノが何をしているのかなんて、人々からは見えない。彼らは現在、束の間の陽気を享受するのに忙しいのだ。触れ終えて覗くディノの顔が真っ赤に燃えている。自分は不意打ちをしておいて、仕返しをされるとこんな表情をする。いい気味だった。
「……急に積極的になるから、どきどきしちゃったじゃないか」
「あれやこれやと考えるのは一旦やめておく……お前が好きだ」
怖じ気づいて踏み出せない今が、のちの世界から色彩を奪うことがある。その後悔をブラッドは知っていた。慎重とは程遠い安直な感情の吐露は、随分と久しぶりで慣れない。ディノのこれからの人生に、一番近くで関わっていく人間が自分であっていいのか、ブラッドに不安がないと言えば嘘になる。けれど相手はディノなのだ。ラブアンドピースの御旗を掲げた太陽の人。つられて少しくらい楽天的になったってばちは当たらないだろう。ディノの朱色の頬を愛おしく思って綻ぶブラッドの笑みもまた、美しかった。
「好きなんだ、ディノ。お前からも聞きたい」
「う……さっき言った」
「言っていない。嫌じゃなかった、期待をした、どきどきした。これらは聞いたが」
「なんで全部覚えてるんだよぉ……」
「嬉しかったからな」
開き直った紅紫の瞳の堂々たること。いつの間にやら二人の形勢はすっかり逆転し、詰め寄られるディノはどぎまぎと一歩引く。そんな些細な間合いなどすぐに埋めてしまうブラッドが、ディノの言葉を待っている。水色の両目が幾度もまばたきで隠れ、深呼吸の長い音が二人の小さな空間に満ちては風に紛れた。
「……好きだよ」
一度は消え入りそうな声で。けれどそれでは心許ないと思い直して放つ二度目は力強かった。
「好き。大好きだよ、ブラッド。俺と一緒になってほしい……恋人に、なってください」
「……そこは俺が言いたかった」
「あはは!やった、早い者勝ち」
緊張と恥じらいを経て、楽しげにディノが笑う。くるくると変化していく表情にこみ上げる愛しさが、ブラッドを欲深くさせた。そっと手を引かれたディノが笑顔のまま小首を傾げるから、指も絡めてしまう。
「こちらへ」
路地裏へ逃避行。こんな祝祭みたいな日に、太陽の目から逃れようとすることのなんとやましいことか。そうして、ブラッドは恋人を強く抱きしめる。暗がりの中は二人を大胆にさせ、ディノも腕を回して応じた。近くの室外機がごうと音を立てて回りだす。腕にかけていたマフラーがずり落ちるのを拾う余裕もない。隙間一つさえ惜しむ抱擁に熱は籠り、セーターから覗く首筋に汗が滲む。二人してのぼせてしまいそうだった。ブラッドの肩口に鼻先を埋めていたディノが肺から絞り出すように息を吐く。その微風のような感覚だってブラッドは愛した。
「……キスしたい……」
「人目は気にしなくていいのか?」
「……ブラッド、たまにいじわる言うよな」
「日頃甘やかしているからな」
少しだけ距離を作る。耳まで赤く染めたディノが、自分から言ったくせに視線をさ迷わせた。唇も目蓋も震えるように開いては薄く閉じ、どれくらい近づいたなら迎え入れていいのか、その匙加減を計りかねているようで、ブラッドの服の背を握っては正解を乞う。勘弁してくれ。ブラッドは全身を駆け抜ける血液のような衝動をなんとか窘めて、ディノの項にそっと手を添えた。
ゆっくりと、形を当て嵌めるように、柔らかな唇同士で触れあう。どんなに待ち構えていたって違う温度の重なりには驚くから、ディノが小さく声を漏らすのも、ブラッドの耳に届いては理性をじりじりと焼いていく。こんな場所で深く交わるつもりはなかった。だからこれで、綺麗な口づけで終えてしまえばいい。けれどブラッドの身体も心も、欲深にももう少しを望んでは焚き付けた。
「ブ、ラッド……」
キスの合間。柔らかくも芯のあるいつもの声とは違う、ふわふわと浮いて揺らぐようなディノの声が聞こえて、それが己の名を呼ぶものだから、ああ駄目だな、とブラッドは正直に思った。すまないと囁いて、ディノの下唇を食む。びくりとする肩を強く抱き寄せると驚いた口が小さく開くから、舌でも捩じ込んでやろうかともう開き直りも甚だしい態度でディノの口内を暴こうとして。
「あっちぃ~!海行こうぜ海!」
どたばたと近くを駆けていく子供たちの足音と大声に、ブラッドとディノはべり!と剥がす音が聞こえそうなくらい大袈裟に離れた。
「……」
「……」
蓄えていた熱もムードも裸足で逃げだすほど、情けない沈黙。耐えきれなくなって吹き出したのはディノの方だった。
「……っ……だめ……面白すぎて……ちょっと……あははは!」
「………………笑ってくれ、盛大に……」
ディノが涙を浮かべながらブラッドを覗き込むと、額に手を当てて恥じ入っているのが見えて堪らなくなった。あのブラッドが言葉をなくしている。あのブラッドが、頬を赤く染めている。ディノに夢中になって、周りが見えていなかったのだ。あのブラッドが、だ。
「はあ……はあ……墓場まで持っていくね……」
「持っていくなそんなもの……」
「ね、ブラッド。明るいとこ出よっか」
落としたマフラーを拾って、ディノが手を引く。路地裏の暗さに慣れた目に大通りの陽光は眩しく、二人して眉間に皺を作った。
グリーンイーストは他の街と異なり、季節感の目立つヤシの木を街路樹としている。すっかり冬の出で立ちだった彼らも太陽の下、どことなくご機嫌に見えた。夏風に緑の頭を靡かせ、数日のあたたかな夢を見てはまたしばし眠るのだろう。
「今なら海、入れるな」
ブラッドを振り返るディノが笑う。
この数刻で海の風景はがらっと変わっただろう。避暑気分の住人が訪れ、先ほどの子供たちも足をつけたり水をかけあったりして、きっと賑やかなひとときを過ごすはずだ。二人だけで踏み荒らした砂浜も、気持ち一つさえ満足に伝えられなかったもどかしさも、ブラッドが波間へ投げ去ろうとした愛情もすべて、もう名残すら浚われただろう。それで構わなかった。
「この陽気だからな……だが、もう大丈夫だ」
波は寄せてはまた返すもの。遠くへ放ったとてどうせ手元に舞い戻る、そういうものだ。ブラッドの恋情も然り。それならば次に海へ向かうのは夏でいい。休みをもぎ取って、ものぐさなキースも連れて軽くドライブがてら。いい歳の男が三人つるむのも、きっと悪くないだろう。物事というのは万事、意外とうまくいくように出来ているらしかった。
「じゃあまた夏だな!キースも連れて!」
世を悲観することなかれ。同じことを考えていたらしい、ディノが教えてくれたことだ。
流れていく雲に風。それらを取り込むようにゆっくりと息をして、ブラッドは隣の恋人に微笑みかけた。
***
トレーニングルームから戻ってきたアキラとたまたまリビングで鉢合わせたブラッドは、多少渋い顔をした。
「もう分かっているとは思うが、強さを求めるあまり、過度に身体や精神を追い込まないように」
これまで幾度となく言われてきた小言に、つい反射的にむっとするアキラであったが、この度はすぐに持ち直して顎に手を当てた。
「あ~はいはい。オレは気ぃつけてるぜ。でもいるんだよな~知り合いにそういう奴」
「ふむ。ならばお前が助言をしてやれ」
「へぇ~ほぉ~ふ~ん。オッケー」
しっかり聞いているのかいないのか、間延びした返事をするものだから、ブラッドは顔をしかめた。しかしこう見えてアキラは、物を分かろうとする素直な姿勢を持っている。まあ大丈夫だろうとタブレットに向き直ると、思い出したかのような声色でアキラがブラッドを呼んだ。
「ところでブラッド。まだ新年には早えけど、やるよ。お年玉」
「…………は?」
お年玉とは日本の風習で、家族なり親戚なりの年長者が年少者へ、新たな一年の健やかや成長を願って贈られるものである。つまり、メンティーがメンターに贈る構図は逆だ。
アキラの言葉の意味が分からず聞き返そうとしたブラッドの、タブレット横に置いていたスマートフォンの画面がぱっと明るくなる。臨時の案件かと反射的に目を向ける男の挙動が一瞬、止まった。メッセージフロム。
「……ディノ?」
「お前が言ったんだぜ、自分を追い込みすぎる奴のこと手助けしてやれって」
「……アキラ、まさかお前」
「感謝しろよ?この天才の手腕にな」
自身の二の腕を二度叩き、満足そうにバスルームへシャワーを浴びにいく赤毛のルーキー。呆然とするメンターリーダー。
「お疲れ様!アキラくんから、ブラッドも三日後がオフだって聞いたよ。よかったら一緒に過ごそう!」
語尾の顔文字が踊って見える。ルーキーにまで察されていることも、年末の貴重な一日を二人で過ごせることに現金にも浮かれる恋心も、なのにそのくせ躊躇う中途半端さもほとほと情けなかった。大の大人がざまあない。
「……」
言葉なく、文字を打つ。
「ディノさえ嫌でなければ、構わない」
「嫌だったら誘わないよー!なあ、グリーンイーストでごはん食べてさ、景色やお店見てゆったり過ごすのはどう?」
「俺に合わせてくれるのか。お前は退屈ではないか?」
「ブラッドコースだもん、退屈なわけないだろ~!ふふ、楽しみだ」
お前の何十倍、俺は楽しみだ。
日課をこなす時間から逆算して、待ち合わせの案を出す。スマートフォンを見るブラッドの目は、片恋の切なさと幸福感に満ちていた。