タイトル未定 厨房から甘い香りが漂う。
少し鼻にツンとする匂いを確かめて、こんなものでしょうか? と言って、リシテアは味を見る。お味は苦みの入った芳醇さがあり、大好きなお菓子なのに渋い顔をしてしまう……。
「今回は趣向が違いますからね……わたし好みでないという事は悪くないんでしょう」
作る前から察していたし、こういうものだと割り切る。
今食した手作りお菓子はコーデリア名産の酒を使った砂糖菓子──砂糖衣に甘いお酒を含ませたボンボン。砂糖で作られた衣に酒を包んだお菓子は戦時中でも人気を博していた。
酒造が名産のコーデリアでは扱う酒の種類が多く、チョコレートで包んだりと多彩。今では平民でも手が伸びやすくなったという余談はさておき、先のお菓子の作り主はお酒は詳しくとも趣向が偏っている。甘いカクテルやサングリアは飲むが、苦い麦酒は飲めないという生粋の甘党。
今回の砂糖菓子には辛党が好むお酒を使用したため、リシテア向きではない。
「うちの職人のレシピだから問題ないと思いますが、よくわかりませんね。ここは適任者に頼みましょうか……」
一人呟くと出来上がったボンボン菓子を包んで、いくつかの茶葉を携えて食堂を後にした。急拵えのお茶会に胸を弾ませて。
さて、お菓子に使われるアルコールは強い物が多い。味や風味を深めるだけでなく、冷蔵庫がない時代においては、砂糖や塩や酒による保存性は重要視されていた。
焼菓子に使用にした際は、アルコールを抜く工程があるがボンボンの場合は少量のため省かれる。一般的には……。
「いや〜うまいなあ〜アハ、アハハハハ!」
「あの、痛いですレオニー」
陽気なレオニーがリシテアの肩をバンバン叩いたり、頭を乱暴に撫でくり回す。
「うーきくぅーー! まるで酒のような酒で〜……ん、おかしだったか? まあいいかーアハハハハハ!」
「落ち着いてくださいレオニー!まだお昼ですよ。髪が絡まりますからやめてください……」
「昼か〜昼間から食べる酒もいいんだよな〜。あっお菓子か?」
軽快な笑い声が響くそれは、お茶会より宴会が当てはまっていた。
部屋の外まで漏れ出る陽気な笑い声は、偶然通りかかった者が苦情を申したくなるほどであった。
「失礼する。ゴホン、陽が高いうちに飲まないようにと言わないが、嗜む位に留めた方が良いと僕は思う。また、周囲への騒音にならぬよう今一度考えてほしい」
勝手に扉を開けて、開口一番説教を垂れるローレンツ。
リシテアに言ったところで意味はないとわかっているが、苦情主は大きなため息を吐いた。
「ううぅ、すみませんでした……でも、宴のつもりじゃなくて」
「なんらとー! わらしはお酒なんて飲んでないんから酔ってないろー。んでー、宴はどこらー!」
項垂れるリシテアと指を指して赤らめて抗議するレオニーがそこにいた。ローレンツはうんざりとした様子で額に手を当てる。
「……酔っ払いほど自分が酔っていないと言うのは毎度不可解と感じるものだ」
「そうだよなー! まだ飲んれないから、これから飲んでもいいってことだよらー!」
「十分摂取したように見えるが! それに今週も先週もその前の週も、レオニーさんは多量のアルコールを摂取して酔い潰れていたではないか! 今日は昼間からとは、いくら何でも品性に欠ける上に士気の低下が──」
「ち、違うんですローレンツ! これには訳があるんです」
説教が続きそうなところで、慌ててリシテアが間に入り、状況を説明する。
お手製の砂糖衣をレオニーに味見をお願いしたところ、『攻撃力が5上がった。知性が10下がった酔っ払いレオニー』が出来上がってしまったということを。
「なるほど、状況は理解した。しかし、疑問が残る。レオニーさんが酔っ払うには圧倒的に酒量が足りない。砂糖菓子くらいで、こんな風になっていたら日頃の僕の苦労は幾分か楽に済んでる……」
「そうだそうだー! 苦労してるなーローレンツー! あっ、一つ食べるか? 酒でうまいし酒で菓子でー」
「酔っ払いは静かにするように! それ以上食べるのもやめたまえ!」
頬を突ついてちょっかいを出すレオニーを制止して、リシテアの返答を待つローレンツ。けたたましい笑い声の部屋に、しょんぼりした呟きが混ざる。
「その……今回の砂糖菓子はうちの職人のレシピで作成したので……その、自領のお酒で……これは蒸留酒で作りました」
「蒸留酒? ということは」
「はい、ヴァダです」
「ヴァダを! コーデリア領名産の高級酒であり、キツいと有名のヴァダをか……」
ローレンツは察した。コーデリアは幾多の酒造を抱えている。ヴァダを筆頭にコーデリア産の酒は、総じて辛党好みの度数が高い物が多い。
「ちょっとお酒が多かったかもしれません」
「ヴァダは貴族間でも簡単に手に入らない代物だ。レオニーさんのような安酒好みの酒豪だと微量でも酔いが回るのは早い」
「レオニーなら問題ないと思ってましたし……こうなるとは考えてもいませんでした」
思いの外レオニーは酔っ払ってしまい、まさかローレンツに説教をされる事態になると思ってなかったリシテアは少々不貞腐れていた。
「リシテア君は優秀だと常々感じているが、時々大雑把な采配になるのを改めた方が良い」
「だって、甘くないようにするならお酒多くした方が良いじゃないですか! そんなに強くないですよ、入れたのだって少しですよ」
「おそらく麻痺しているのだろうが、君は想像以上に強い。先週の飲み会では、レオニーさんとの飲み比べで一人ケロリとして介抱していたではないか」
「レオニーが必要以上に飲むからですよ。わたしは自分の適量範囲でしか飲んでません!」
「その適量が常人離れしているということだ。今後は自覚した上でお菓子作りに励んでほしい。最も、アルコールを使うのならサガルトやカヌレなどの焼菓子を勧めるよ。……レオニーさん、先ほどから僕の方を叩いたり、頬をつつくのはやめたまえ」
アドバイスをしてからローレンツはケラケラ笑いながら絡んでくるレオニーの相手をしていった。今度は酔っ払いに説教するローレンツ……幾度と無くしてきたので、もはや慣れていた。
「とりあえず、水を持ってこよう。リシテア君は一先ず退散した方が良い。こうなったレオニーさんは、とても長い!」
「すみません……まさかこうなると思いませんでした」
「以後気をつけたまえ。幸い、まだ酒量が少なくて良かった。泥酔の時よりずっと良い!」
あとでちゃんとローレンツにお詫びをしようと決意して、リシテアはハイテンションなレオニーから離れた。
ほとんど食べられてしまった幾つかの砂糖菓子を手にして思考する。
ローレンツに言われたようにヴァダは純度が高く、玄人向けと言われる事情もあってリシテアには味が分かりにくい。
「レオニーは美味しいと食べてましたから大丈夫だと思いますが。……このくらいで酔ってしまうものでしょうか?」
レオニーが気に入っていたのだから、似たような嗜好の者なら口に合うかもしれない。いずれにせよ、食べてくれないと改善の仕様がないと決めて、砂糖菓子と共に歩みを進める。
「フェリクスは下戸じゃないですし、酔っ払わないでしょう。まあ酔っ払っても構いませんが」
リシテアは酒造が有名の領地故か、父の名代で蒸留酒やワインなどを試飲する事が多かったため見かけによらずアルコールに強い。どうやら一般の認識とはズレているようだが……。
☆☆
訓練所に行けば大体いる。久方振りになるお菓子の誘いをして、今回のレシピを話すと渋っていた。
「悪いが後にしてくれ」
なんだかんだで断らないので意外だった。断られる事に慣れてないせいか、リシテアの胸にちくりと刺さる。
「今日は忙しかったですか?」
「違う。ファーガスでレスター産の上質の酒は滅多に飲めん。少量でも飲み慣れない酒だ……できれば食後が良い。
「そうでしたか! それもそうですね」
「悪酔いしたくない」
「ちょっと見てみたいですね」
酔っ払ったフェリクスに興味を持つリシテアに、彼は眉間を寄せてしまう。
「酔っ払いが見たかったら鏡でも見ろ」
「果実酒くらいで酔えませんよ。わたし酔うほど飲みませんし」
今の発言から少ない酒量のはずの菓子に怪訝な目を向ける。
何にせよ、レスター産のヴァダは美味いと聞いてるのでフェリクスは興味を持つ。
「味見はしたのか?」
「しましたけど、わたしの好みではないのでよくわからないんです。苦味がありますし、ローレンツには常人離れしてると言われましたし」
「いや、飲めるのが意外だ」
「ふふ、自領の銘酒が飲めないのは名家の名折れです。此処に来るまでは、よく父の代わりに試飲してましたよ」
「想像できん」
ドヤっと胸を張るリシテアにフェリクスは驚く。当人は大の甘党で果実酒を好むため、辛党の酒が飲めるのは意外性が大きい。蒸留酒などを『苦い!』と言って、一口で止める姿の方がよく似合う。
「失礼な想像していません?」
「そんなことは……ない」
「いいですよ、似たような事言われますから。甘い方が好きですし、元々ストレートで飲むのは好きじゃないんですよ」
美味しくないですし、と心の中で付け加えるリシテア。名産故に違いがわかるも、実はヴァダはそれほど好きではなかった。
「それでしたら、夜のお茶会にしますか?」
「それは茶会なのか?」
「宴と呼ぶには殺風景ですね……仕方ありません、残った酒瓶も開けてあげましょう』
「ヴァダを振る舞うとは大層だな。ファーガスだと滅多に出回らない品だ」
「封を開けたお酒は早めに飲んだ方が良いですから。でも、あまり残ってませんよ」
「十分だ」
珍しく表情にわかるほどフェリクスの喜びが出ていた。彼としてはお菓子よりお酒の方が喜ばしかった。
「あからさまに嬉しそうな顔をされると思うところがありますが、まあいいです。お酒のお供に甘いものも良いですよ」
「考えたことないが」
「つまみの種類を増やした方が良いですね。深みが増しますよ」
「そういった通好みじゃない」
乗り気な様子のフェリクスを見て、リシテアはホッと小さく息を吐いた。今回は少し特別だったから──少しでも喜んでくれるならそれでいい。お菓子でなく、お酒の力を借りて彼に何かしたかった。
半月の曇り空。辛うじて月が見える空模様が、今の戦況を表しているように思えた。
光を放つ月は時と共に大きくなれど、暗雲はなお晴れず漂う……なんて詩的な事を考えながらリシテアは自室で準備をしていた。
「たまには良いですよね」
ヴァダ以外の酒瓶もバスケットに入れて、もはや宴の準備のようになっている。今晩はお菓子でなく、お酒の力がほしい気分だった。
食事時間が過ぎた食堂は薄暗く、多少の酒を提供しているため既に酔った者達がいた。殺風景な酒屋と化した場は、窓から覗く半月が静かな灯りと喧騒が漂っていた。
「あら、もう来ていたんですか?」
「少し前に着たところだ」
水場から離れた隅にフェリクスが座っていた。既に食堂の欠けたカップで自前のエールを注ぎ、静かに飲み進めていた。
リシテアも同じカップを手にして、そっと彼の隣に腰を下ろした。
「少し分けていただけますか?」
「お前好みのじゃないぞ」
「わかってますよ、あんたがどんなのを飲むのか知りたいんです」
「安酒だ。それに冷えてない」
「いいですよ、それで」
仕方ないと表情で訴えながら、リシテアのカップに少し注ぐ。
香りを嗅いで口に合わないと悟ったリシテアは一気に飲み干す。すぐに脇に置いていた水でくちをすすいだ。
苦い…と顔を顰め、バスケットからお菓子を取り出す。
「やっぱり合いませんでした。甘いもので口を癒します」
「だから言っただろ」
「飲んでみないとわからないじゃないですか。つまみ次第で美味しくなる時もありますし」
「菓子を食って飲んだ事ないからわからん」
「ふふっ、じゃあ記念すべき初体験ですね!」
小さな掌にボンボンを乗せて、フェリクスに勧める。砂糖の塊にしか見えないが、高級酒が包まれてると思うとさすがに興味が湧く。
「何の企みか知らんが、食ってやらん事はない」
「素直に食べると言えばいいと思いますよ」
「フン、毎度強引に押し付ける奴を警戒するのは当然だろ」
「口が悪いですね……蜂蜜たっぷり入れた方が良かったかもしれませんね。あっ、そっちの方が作り甲斐がありそうです!」
「絶対食わん」
しれっと答えるリシテアに酔いは見られないから本気で言っているのだろう……そういえば二人で飲むのは初めてだ、とフェリクスは気付く。宴などで言葉を交わすことはあったが、いつも別の仲間と過ごしていた。
「そうそう、酔っ払うのは構いませんが、部屋まで運べませんからね」
「そこまで酔わん」
「介抱くらい構いませんよ。レオニーで慣れてますから」
「いや、例え深酒してもああはならない……」
彼は豪快に飲んで潰れたり、絡み酒はしないようだ。それはそれで面白くないなと思いながら、リシテアは他の砂糖菓子を小皿に乗せる。
「遠慮なく食べてください。今回のレシピはうちの職人が考えたものですから一味違いますよ!」
「甘いものが一味二味変わったところでわからん」
「その違いを教えてあげますよ。と言う事で、もう一ついかがですか? 特別に名産酒も開けてあげます」
ふふんと胸を張るリシテアは、小さい酒瓶を幾つも出して勧める。うちの自慢の品ですからと宣伝するように、どれも逸品だと窺い知れた。
「……悪いな」
「封を開けてお酒は早めに使い切りたかっただけですよ」
「なら遠慮なくもらう」
他人行儀な礼を述べるフェリクスにリシテアは何も言わなかった。
アンヴァル奪還に向けての遠征が控えている最中でのささやかな宴……フェリクスの父君、ロドリグ公爵閣下が亡ってからの初の会合は、お菓子では足りないと感じていた。
フェリクスはどういう心境なのか、リシテアにはわからない。胸の内を明かすとしても自分ではないと知っていた。それなら、そっとしておいた方が良いと考えてた。
「お前が声かけてくるのは……随分久々に感じる」
「そうでしたか? ゆっくり話す状況でもなかったですし、こう見えてもわたし忙しいですから」
半分嘘だった。忙しいのは本当だが、お茶の時間が取れないほどではない。フェリクスに配慮して、今日までお菓子の誘いはやめていた。
──雲の隙間から漏れた月明かりが、フェリクスの顔を照らす。カップを握る手が一瞬止まり、どこかを見ているようで何も映っていないような瞳が、亡失していた幼き自分と重なって目を逸らす。
(フェリクスを気遣うなんて言い訳だ。わたしは、彼を通して誰かの死を思い出したくなかった……ただ、怖かっただけで)
身内を亡くした哀しみを知るからこそ、彼に踏み込めない。胸の内を見透かされてしまうと感じて避けていたと、リシテアは気付いた。
いっ時の沈黙が訪れた。勝手に耳に入ってくる喧騒のおかげか、存外居心地は悪くなかった。
意外と言っていいのかわからないが、リシテアの目にはフェリクスは落ち込んだように見えなかった。それよりも、ようやくディミトリが長い翳りから目が覚めてきたのが感慨深かったのだろう。
(……とは言っても、時間が経ってから深まる場合もあります。何をしようと通らない時だってあります)
多くの身内を亡くした経験から、彼女は不必要な発言をしない代わりに気の利いた事も言えなかった。家族が無事だったのも、フェリクスとは状況が大きく違う。
「……美味いな」
フェリクスの滅多にない賛辞で、ハッと我に返る。
彼が砂糖菓子に手を付けていた事に気付かなかった。いつもお菓子を食べるその時まで見届けていたのに。
「そ、そうですか。それは辛党向けに作ったので、あんたらしいですね」
「こっちはお前らしいな」
「ええ、甘い酒を使ってます。後味がスーッと引く爽やかな果実酒で人気なんです」
「まあ、少しなら食える程度だな」
二粒で食べてもう要らんと言っていたが、フェリクスが二口も食したのは珍しい。今回のお菓子は随分気に入ってくれたようだ。
リシテアは残った甘い酒の砂糖菓子を口にして様子を窺う。
「……思いの外くるな」
「そうですか? フェリクスならお菓子で酔わないと思いますが」
「いや、慣れない酒だからな。安酒が多かったし、こんな上等なのはしばらく飲んでない」
「レオニーも似たような事言ってましたね。お酒が入ってるとわかると一気に食べたせいもありますけど」
「良い酒は手が進むからな」
わりと何でもイケるフェリクスなのだが、砂糖菓子と自前の酒でボーッとしてきた。これ以上は支障が出るかと思いつつ、ちびちび飲んでは食べていく。今日はそんな気分だった。
「お前は意外と素面だな」
「わたしは大して飲んでないですから」
「……そうか?」
言葉とは裏腹にけっこう飲んでるように見えた。どの酒瓶も強めなのに平然としているリシテアが、かえってフェリクスを不安にさせた。
彼女にとっては慣れた味だからか……それにしても意外な一面だ。
「ヴァダって、実はお菓子と相性が悪いんですよね。もっと甘くて口当たり良いのがピッタリなんですが」
「酒を菓子に使う方が信じられん」
「そんなことないですよ、あんたのように気に入る人が多いんです。こういうお菓子も良いでしょう?」
「たまにならな」
話しながら手が止まってるフェリクスのカップにリシテアは酒を注ぐ。
「これ以上は要らん」
「たまには、お酒に溺れたらどうですか?」
何を言っているんだ、とフェリクスは顔を顰めた。
「こんな時にできるか」
「フェリクスは溺れても意地で這い上がってきますよ。少しは溺れて恥ずかしい思いした方が、ちょうどいいんじゃないですか?」
「わざわざ醜態を晒すか!」
「あら、酒は百薬の長と言うじゃないですか。薬を浴びてると考えたらいいですよ」
「はあ?」
苛立ちを感じつつも、フェリクスは違和感を持つ。酔っ払わず誰かの介抱に回ることが多いリシテアが、酒を強要するのは不自然だった。
「……悪い、気を使わせた」
ここしばらく誰かと長く話すことが無かった、とフェリクスは気付いた。
「何のことですか? お菓子の味見とお酒を分けただけですよ」
「ああ……そうだな」
「酔っ払ったフェリクスを見てみたいですから、遠慮なく飲んで構いませんよ」
「減らず口を叩く事もないだろ」
「それ、あんたにだけは言われたくないですよ!」
リシテアが惚けるのなら、それで構わない。彼女が今まで無遠慮に踏み込んできた事はないし、余程でなければ自分から尋ねてこないとフェリクスは考えた。
心に踏み込まれたくないから、同じような真似ができないのだろう、とも思い当たる。
「前から思っていたが、お前は何か隠して……いや、何でもない」
「言いかけてやめるのよくないですよ」
「こんな時に言う事じゃない。忘れろ」
「都合良いですよ」
拗ねたような事を言うが、やはりリシテアは追求してこなかった。隠し事は明かせない、探ってほしくもない。だから他者にも同じ行為はしない。けれど、何もせずにいらないという想いは酒と共にフェリクスの中に入り込んだ。
なんと返したらいいか……日常を取り戻しつつあるというのに、彼の喉は渇いていた。
「……俺は、お前に何を返したらいいか」
「言わなくていいですよ」
困惑したフェリクスは、ピシャリとリシテアにいなされる。少し低くなった声に圧倒されてしまった。
「わたしは何か話してほしいと思っていません。強請るほど子どもじゃありませんよ」
「…………」
「あんたは不器用で無愛想で何考えてるかよくわからないですけど」
「おい」
「人の親切を無碍にするほど無神経じゃありません。心にもない感謝を言うくらいなら何も言わないでください。少なくとも、今のあんたには何も求めてません」
もっと言葉が出なくなった。半ば慣れていた謝辞は否定される事態に呆然とするフェリクスだが、こいつはこういう奴だったな…と気付かされる。
決して深く聞いてこないし、見なかった振りもする。定型文と化した上辺の謝辞なんて彼女は聞きたくもないだろう。
知っているんだ──近しい者の死がどれほどの重みを持っているかを。身をもった経験した者にしか感じられない暗澹たる思いを。
また静寂が落ちた。いつの間にか喧騒は収まり、時折誰かの寝息が聞こえてきた。
ぎこちなくなる空気になってもおかしくないのにリシテアは素知らぬ様子でカップを傾けている。何にもなかったかのように振る舞っている。
「……もう少しくれるか」
「水割りにしますか?」
「頼む」
言うが否や、手早く水で割っていく。
「手慣れているな」
「こっそり水で薄めて飲んでいましたからね。一日で何杯もヴァダや蒸留酒飲むのは大変でしたから」
「……少し羨ましいな」
「ふふっ、うちに来たらいくらでも飲ませてあげますよ! 嫌と言うほどに」
悪戯猫の顔をして笑うリシテアは、変わらぬ日常のよう。知らず、フェリクスの口元が緩んでいた。
食堂を出ると月が天高く昇っていた。薄雲を通した月光が、釣り堀の池でゆらゆら揺れている。
「酔い潰れるのを期待していたのですが、そうはいきませんでしたね」
「そんなに飲まないと言っただろ」
「千鳥足のフェリクスが見てみたかったです」
特別何かあった訳でもなく、深く話し合ってもいない。酒を飲んでお菓子を食べて、同じ時を過ごしただけ。
何の変哲もない出来事……今の彼らには、ちょうど良かった。
「お前が全然酔っていないのが意外だ」
「少しは酔ってますよ。あんたが飲んでたエールが思いの外きました……」
「苦いと言うくせに、ちびちび飲んでたからだろ。安酒は悪い酔いしやすい」
「ファーガス産でしたから、つい気になって……」
ふらつく様子もなく、階段を降りていく。食堂から部屋までの僅かな帰り道での他愛無いやり取り。
変化がなく、今まで通り。苦境な戦況でも、優勢な事態でも、誰かが帰らなくなった時でも……日常は訪れる。
「お酒引き取ってくれて感謝します。開けたのを放っておくのは、性分でなかったですから」
「いや、俺の方こそ感謝する。深酒する気はなかったが、思ったより進んだ。お前の所のは美味かったと思うが、正直よくわからん。飲んでいけば慣れていくのかもな」
つらつら紡いでいくフェリクスにリシテアは安堵する。酒好きだと知っていたが、予想以上の効果があったようだ。
「ふふん、フェリクスって酔うとお喋りになるんですね!」
「煩いな……」
「たまには良いんじゃないですか? いつも顰めっ面してて怖い隊長が、二日酔いで休んだら親近感が湧くかもしれません」
「休まん! 顰めっ面は元々だ。怖がられたところで、どうでもいい」
「鏡で笑顔の練習した方が……あっ、やっぱり無しでお願いします。薄気味悪いですね」
茶化すリシテアを一瞥して、空を見上げる。未だ月は曇り空から出てこないが、思いの外夜道は明るい。
闇を照らす光さえあれば、道筋を間違う事はないと示されているようにフェリクスは思った。
「少し感傷的になってるのかもな」
「そんな日もありますよ」
「……お前が気にするほど堪えていない。忙しくなるばかりで、ゆっくり考える時間もない」
「あんた酔ってますね。心の内を話すなんて」
「酒の勢いだ。俺は剣を振るっている方が性に合ってる。今はそれでいい、どうせ後から何かしら沸いてくるんだろ。……面倒くさい。先送りにしたって恨まないだろ」
時が経つにつれて、後悔や無念や感謝や様々な気持ちが混ぜ合わさって、心に棘を刺してくる。
死者を弔う悼みはフェリクスも、リシテアも痛感していた。現実を受け入れる度に胸が軋む音がして、やがて鳴らなくなる……その時が、いつかくる。
「何のことか知りませんが、もう遅いですから休みましょう。夜風は差し障りますよ」
「ああ、そうだな」
「……あの、かえって気を使わせてしまいましたか」
「お前の考えは相変わらず、さっぱりわからん。理解不能だ。そんな奴のことを気遣えるわけがないだろ」
「……なんだか癪に触りますね。もっと飲ませた方が良かったかもしれません」
「余計酷くなる結果が見えてる。さっさと帰るぞ、くだらん感傷に付き合ってられるか」
早足になるフェリクスに、リシテアは慌てて付いて行く。
釣り堀からほど近いリシテアの部屋に着くのはあっという間。
「二日酔いは薬草を吸うと少し治りますよ」
「その程度で寝込んでいられるか」
「迎酒がほしかったら分けてあげますよ。じゃあ、おやすみなさい」
背を向けてドアノブに手をかける。鈍い音がすると同時だった。
「リシテア」
滅多に呼ばれない自分の名前に鼓動が跳ねる。硬直して、リシテアは振り向けずにいた。
「ゆっくり休め。寝坊くらい大目に見てやる」
草を踏む音が遠ざかっていく。一呼吸置いて、ようやくドアを開けて自室に戻った。
ふらつく足でリシテアは机に置いてあった酒瓶を手にする。
「……酔っ払った方がタチが悪いです」
急いで蓋を開けて、お気に入りのカップに注ぐ。幾多の果物を漬けたサングリアは、頬の火照りを冷ましていく。
「酔った振りをした方がロマンチックに進むのでしょうか? ……できないから関係ないんですけど」
そんな手が通じると思わないし、酔うまでが長い彼女には不向きだ。
フェリクスの息抜きになったら良いと考えての宴。リシテアにできる精一杯の行為だったのだが、自身の心も抉ってしまう。
喪った人は、どうやっても帰ってこない。残された者は何を思って、どうなって、悼むのかを知りたくなかった。──そう遠くない日、大切な家族に同じ思いをさせてしまうから、
「わたしが落ち込むのは変な話ですね……」
再び、手酌をして煽る。明日は二日酔いになっていいと思ってるのに、もうお酒は残ってなかった。
本当は自分の方が酔いたかったのかもしれない。お酒のせいにして、一番知ってほしくない人に秘密を打ち明ける……そんなあり得ない、もしもの話を巡らせながらベッドに入った。
「酔っ払って洗いざらい話せたら、どんなに楽だったのでしょうか……」
わたしがそうなるには果実酒が足りな過ぎます、と呟く前に睡魔を襲ってきた。
明朝の二人は、二日酔いとは程遠いよくある日を迎えた。溺れたい時に限って、溺れられないものだ。