返血 十一月一日。オレの膝の上で死んだはずの場地さんが奇跡的に息を吹き返したのだと知ったのは、まだ日が昇り始めたばかりの早朝だった。電話を取り、オレを叩き起こした母さんは、よかったね、とひとことだけ呟いた。
朝駆けの眩い光が散る部屋はまだ寒かった。白まった空気、ベッドの上で、するりと心の中の何かが抜け落ちたような感覚がしたそのわけを、オレは未だ、わからないままでいた。
場地さんと再会したのは、その五日後のことだ。ようやく病院から見舞い許可がおり、オレも東卍のみんなに連れられて場地さんの病室へと向かった。けれど、場地さんの意識はまだ回復しておらず、話どころか目を開いた姿さえ、見ることはできなかった。
オレたちがいる間、場地さんは――意識がないのだから当然だけれど――寝たきりのまま微動だにしなかった。身体には何のためだかわからない管がたくさん繋がれていて、諸々の処置に邪魔だったのか、長かった髪の毛はばっさり短く切られていた。あれだけあった額の傷もほぼ治りかけていて、顔色にも生気が戻っている。
それは生きている証拠であるはずで、本来なら、安心し、喜ぶべきことであるはずなのに。
――気持ち悪い、と思った。
真っ白な壁、アルコールの匂い、無機質な機械音、中身のない人形に話しかける、人、人、人。
そこにある何もかもが不気味で、怖かった。せりあがる唾を無理矢理嚥下して、震える指先を強く握り込んだ。千冬も何か言ってやれ、誰かにそう言われたような気がする。オレは引きつる頬でへたくそに笑顔をつくろって、やめときます、と断った。
この感覚が普通じゃないことなんてわかっている。何よりここで異質なのはオレの方なのだと知っていた。けれど、一度感じた気味悪さは、何度払拭しようとしても、何度紛らわそうとしても、オレの思考にべったりと張りついて染みついて、消えてくれない。
オレには、ベッドに横たわるあの人が、場地さんの形に新しく作り替えられた、綺麗な人形のようにしか見えなかったのだ。白い背景にただじっと横たわる場地さん。ギ、ギ、と金属が擦れるような音を立てて起き上がる。オレを映すその目は、何の光も映さない、ただのガラス玉。そんなありえない風景が、頭の中にこびりついていつまでもいつまでも、離れてくれなかった。
オレはあの時から一度も、場地さんの見舞いには行っていない。
・
タケミチ曰く、場地さんは順調に回復しているらしい。
入院している場地さんの様子は専らタケミチから聞いていた。意識を取り戻したことも、前のように話ができるようになったことも、リハビリを開始していることも全部知っている。話をされる度に、場地さんがオレに会いたがっている、としつこく言われることにはもう慣れた。
オレは、場地さんに殴られた右目の視力が、未だに治っていなかった。
ガシャン、耳を劈く痛い音が部屋に響く。誤って右手をぶつけてしまったグラスは、重力に従って真っ逆さま。床と激突してただの破片となった。母ちゃんがせっかくミキサーでつくった手作りミックスジュースも、床に広がってはもう飲めない。
「あ…ごめん」
「いいよ、危ないから部屋行ってて。掃除機かけるから」
言われた通りに、食べ残した朝食の皿だけを持って自室へ戻る。胡坐をかいて座り、皿を畳の上へ置いた。キッチンでは早速、掃除機がうなりをあげはじめた。
朝から盛大にやらかしてしまった自分にため息をついて、半端に齧ってあるマーガリン付きの食パンを手に取る。けれど、なんだか食べる気にならなかった。
右目を閉じる。次いで、左目。いい具合に焦げ目の付いた食パンが、モザイクがかかったように一気にぼやける。イかれてしまったままの右目が相変わらずであることを確認して、ゆるりと閉じていた左目の瞼を持ち上げた。
オレの右目をおかしくしたのが場地さんだってことに気が付いているのか、母ちゃんだけは、場地さんの見舞いに行かないオレへ、何も言ってこない。思いがけない朗報に、よかったね、と言ったあの朝。母ちゃんはどんな顔をしていたんだったか。
「終わったよ」
部屋の戸が開かれて、母ちゃんが顔を覗かせた。
「パン、食べないの」
「うん、今日はいいや」
食パンをのせた皿ごと母ちゃんに手渡して、その足で玄関へと向かった。
ドアを開けると、冷え切った空気が吹き込んできて思わず首をすくめる。場地さんが入院してから早二か月、クリスマスもお正月もとうの昔に過ぎ去った。あとはただ春を待つだけの色のない侘しい季節が続く。場地さんが戻ってくるのも、きっと時間の問題だろう。
場地さんが退院するまでに、イかれた右目も、ぐちゃぐちゃに散らばったまま戻ってくれない頭の中もどうにか元に戻さないといけないのに、戻さなければいけないと、思っているはずなのに、心がついていかない。場地さんの見舞いに一度行けば、ずっと喉に詰まっている何かも、たちどころに消えてしまうかもしれないと、わかっているのに足が進まない。
どちらがオレの本心なのか、どちらがつくりものでどちらがほんとうのオレなのか、もうわからない。
本音と建前、実像と虚像、本能と理性。母ちゃんが野菜も果物も全部、透明なグラスにぎゅうぎゅう押し込めてごちゃ混ぜにするミックスジュースのように、ぐるぐる回って跡形もなく溶けて、もうどれがどれだか見分けなんてつかない、どろどろした液体になってしまったのだろうか。頭の中が重い。つられて身体も重くなる。階段を下る足が、思ったように進まない。
「あ、」
「あッ」
階段を下った先。場地さんのお母さんが今まさに、自転車に跨ろうとしているところだった。
「おはよう、千冬くん」
「おはようございます…」
場地さんのお母さんとは何度か団地内で見かけたこともあったけれど、面と向かって話すのは随分久しぶりだ。見舞いに行っていれば話す機会もたくさんあったんだろうけれど。
「千冬くん、元気?怪我は治った?」
「あ、はい。もう」
「そう。学校は?」
「今から行くところです」
「ああ、そうだよね。ごめんね引き止めちゃって」
どくどくと、心臓が不自然に跳ねていた。目が合わせられなくて、つい視線を下へやる。オレは、場地さんを、死の淵に立ちそれでも何とか生き延びた場地さんを、人形みたいで気味が悪い、なんて思ってしまったんですよ。変に脅えて、見舞いにも行かないで、避けて避けて避け続けて。
「圭介、千冬くんのことすごく気にしてるみたいだから…」
「そう、ですか」
「気が向いたら、会ってあげてよ」
あぁ、気を遣われた。 今一番大変なのは、場地さんと、場地さんのお母さんなのに。オレはなんでこんなところで、立ち止まって、気を遣われて、どうして病室にいるあの人に、心配なんかされているんだろう。
「…はい」
「じゃあ、またね!」
自転車に乗り、軽やかにペダルを踏んだ場地さんのお母さんに頭を下げて、そのまま、元に戻れなくなった。
頭が、重たくて仕方がない。ぐちゃぐちゃにまざったミックスジュースでいっぱいの頭が、とぷんとぷんと揺れている。歪んだ地面に落ちた液体は、オレの汗だ。地面が不自然に歪む。ああもう、気持ち悪い!
足を蹴って、駆け出した。冷たい風に頬を切られる。このままズタズタになって身も心も一度全部なくなってしまえば、おかしくなったままのオレも、あの場地さんみたいに、綺麗に元に戻るだろうか。
「はあ、はぁっ、」
息が吸えない。冷えた空気で喉と肺が痛い。何かに引っかかった足が縺れて、ぐしゃりと地面に沈んだ。腕から離れた鞄が、数メートル先に滑っていく。
(何やってんだろ、オレ)
足の痛みに顔を顰めつつ立ち上がる。むちゃくちゃに走ったところで、何があるわけでもない。あるのは、生き残った場地さんと、その日からどこかおかしいオレだけだ。
思い切り地面をついて擦り切れてしまった手のひらを見る。瞬間、鮮やかな赤い血がべったりついたオレの手がフラッシュバックした。ぐらりと目の前が揺れる。あの日の出来事が一瞬にして、目の前を過ぎっては消えていく。
(あぁ…そうか)
あの時オレは、膝の上で微笑んだ場地さんが、オレの名前を呼んだあの瞬間。場地さんがあの日死んでしまうことを受け入れてしまった。場地さんの死を、何もかも上手に、残酷なほど綺麗に、オレの中へ収めてしまった。
それを今更、返してください、だなんて。
でも、こんなのまるで、オレがあの時場地さんが死ぬことを望んでいたみたいじゃないか。
「ちがう、違う違う」
身体の底からおそろしさが駆け上がって、立っていられなかった。折角伸ばした足を折ってしゃがみ込む。
なんでこんなこと思うんだろう。なんでこんなことを考えてしまうんだろう。考えれば考えるほどわからなくて、なんでこんなことがわからないのかも、わからない。
つめたい。さむい。くるしい。
オレがくるしいだなんて、絶対間違ってるのに。オレはこんなにも、身勝手で我儘で最悪な人間だったんだ。
ギギ、とブリキの場地さんがこちらを向く。ガラスの目に生気が宿ったその瞬間、その口が、さいていだな、と動くのだ。
「はぁ、は、はぁ」
喉が詰まる。息がうまく吸えなくなった。オレのまわりだけ空気がぽっかりなくなってしまったのか、酸素が上手く取り込めない。でもだめだ。オレがくるしいだなんて、間違ってる。間違っているのに。
ヒュ、ヒュ、と耳について疎ましいその音が、自分の喉から鳴っているのだと気づいたその時、ブチリと世界が暗転した。