都合のいい関係:イヌピー視点 IQが高い人は性欲が強い、とテレビでやっていたのをぼんやりと覚えている。詳しいことは俺の頭だとよく分からなかったが、脳みその学者とやらが前頭葉の発達と性欲が密接に関係しているとかいないとかそんな事を長ったらしく説明していた。そしてそれを見ながら思ったことは、やたらと頭のいい幼馴染のことだった。
そしてその男は、今、俺の下でやる気のない顔で寝転がっている。その黒い瞳は俺のことを見ているようで、実際は何を考えているのか分からない。俺にピントの合わされない瞳に無性に腹が立って、尻に力を込めてきゅうと絞ると、彼……ココは低いうめき声を上げた。
「……っ! ぅあ! ちょ、イ、ヌピー!」
「ココ、考え事してただろ……気持ちよくないか?」
ようやくこっちを見た。
そのことに少し気持ちが浮上するけど、やる気のない彼の様子に心が痛みを訴える。
会えたのは一週間ぶりなのに、全然俺なんか見てないって感じだな。俺とするのは気持ちよくないのか、それとも他のこと考えるくらい飽きちまったのか。……俺はココに会えるのを楽しみにしてたのに。
なじりそうになる言葉を抑えて、腰をゆさゆさと動かした。するとココは焦ったように俺の腰を押しとどめて、掌でゆっくりとココに跨った俺の太ももを撫でる。
「いや違うって。イヌピーのこと考えてた」
女慣れした言葉だ。昔からモテた男は、こういう風にセックスの相手が面倒くさいことを言っても、どう扱えばいいのかよく分かっているんだろう。心にもないようなことを平然と言う男に、俺は悲しいとか寂しいとかいろいろなものが入り混じって、いっそおかしくなって唇の端を吊り上げた。
「ふーん?」
「え。なに、怒ってんの?」
「いや、ベタな台詞だと思って」
「なにそれ」
……いつから俺は、こいつにとって『その他大勢』のうちの一人になってしまったんだろうか。彼と決別したあの夜からだろうか。それとも俺がこの『都合のいい関係』を提案した日からだろうか。いや、もしかしたら初めからなのかもしれない。はじめから、俺はココにとっては大したことのない相手だったのかもしれない。俺は彼の初恋の人の、付属品なのだから。
そのことを考えると気が狂いそうになる。そんなこと考えてる場合じゃないだろ、と頭を振って思考を閉ざした。
今はただココが気持ちよければいい。突然俺が……気まぐれで呼んだセフレが泣き叫んだりしたら興ざめだ。
「いいから集中しろよ。これじゃ、いつまでもイけないだろ」
さっきまでよりも深く咥え込んで、前立腺に押し付けるようにして腰を揺らす。ココは少し気持ちよさそうに顔を歪めたけれど、まだまだイくには緩い刺激なんだろう。余裕そうに俺のチンコを掴むと指先で弄び始める。
そんなことしなくていい。そう言ってしまおうかとも思うけれど、想い人からの愛撫が嬉しくないはずもなく、俺は快感に素直に体を揺らした。
「ん……、きもち、い……っあ!、あ、」
「俺もいいよ……イヌピー、はは、先にイったらごめん」
ごめん? そんなこと気にしなくていい。
むしろ早くイってくれねぇかな。そうすれば心が少し満たされるのに。
そんなことを考えながらただココの上で体を跳ねさせた。
◇◇◇
ココと再会したのは、決別から6年ほど経った秋の夜のことだった。バイクを自宅に引き渡しに来て欲しいと客に言われ、店からだいぶ離れた場所へと移動した。そこまでは何の問題もなく引き渡し自体も無事に済んだのだが、問題はそこからの帰り道に起こった。
駅へと向かうために繁華街の中を突っ切ろうとしたのだが、そこはあまり治安のよくない場所だったらしい。立ち並ぶ風俗店を興味もなく流し見ながら歩いていると、当然のようにキャッチにしつこく声をかけられる。あいにく俺は幼馴染に恋をしていらい女に興味がないので無視をしていたのだが、そのうちの一人があまりタチの良くない男だったようで。
『おニイさん、ねぇ、無視しないで』
ぱっと見はただの黒服の男は、無視をしながら歩く俺の腕を強引に掴んで路地裏に引きずり込んできた。新宿や渋谷でもないような強引なやり方に目を見開く。あんまりしつこいようなら面倒だがぶん殴ってでも……と体に力を込めた時、スーツに身を包んだ男は俺の顔をじろじろと見てにやりと唇の端を歪めた。
『おニィさん女よりもこっちが好きな人でしょ? 俺、そういうの分かるんだよね』
『てめぇ……! 放せ!』
『隠さなくてもいいって。そっちの店もあるから遊んでいこうよ』
指先でからかうように股間を掴まれて、頭に血が昇った。金髪がいけないのか長い髪がいけないのか、俺はどうにも舐められがちで変な相手によく絡まれる。ふざけんな撲殺してやると男の胸倉を掴んだ瞬間、路地に面した扉が前触れもなくがちゃりと安っぽい音を立てて開いた。
中から出てきたのは、明らかに堅気ではない雰囲気のゴツイ男たち。
『あ、ヤベぇ』
その姿を見て固まり、失敗したと言わんばかりの声を上げる黒服の男。ゴツイ男たちは俺たちをちらりと見るが、石ころ程度としか認識しなかったんだろう。もしくはゲイカップルか何かか。そのまま扉の奥から出てくる重要人物を丁重に守るような仕草で、路地の外に停めてある車まで丁重に案内した。
いや、正確には案内しかけた。
だがその重要人物であろう男が、俺の目のまえでぴたりと足を止めて、まるで信じられないものを見るような顔で目を見開いた。
『――え? イヌピー?』
きつくつり上がった瞳。すっと通った鼻筋。少し高くなった背丈。痩せた体は、前からだっただろうか。髪は随分と伸びて銀色に染められている。
賢くて優等生然としていた幼馴染の彼はすっかり反社に染まっていたが、それでも一目でわかった。忘れるはずがなかった。
『ココ?』
そうして俺は、股間を掴まれた間抜けな姿で幼馴染と再会を果たすことになった。
◇◇◇
しばらくお互いに石のように固まってしまったけれど、護衛の男が困ったように俺を見たことで止まっていた時間が動き出した。
俺の股間を掴んでいた男は走って逃げだし、俺は流れでココの車に乗せられた。
それでせっかく会ったのだからとココに連れられて俺たちしか客のいないバーらしい場所に行って、酒を飲みながら近況を話した。それでも足りないとなってココのマンションになだれ込んだ。
ハタチを超えてはいたけれど俺は酒を飲みなれていなくて、心のリミットが外れていたんだと思う。酒量じたいはそれほど多くないのに頭がふわふわして考える前に言葉が口から零れ落ちていて、でもそれが楽しくてしょうがなかった。
ココは酒になれている雰囲気だったけれど、俺と同じく少し変だった。
「にしても災難だったなイヌピー。男に股間触られて、気持ち悪かっただろ。あいつ殺しておいてやろうか?」
「平気だ」
「いや遠慮するなって。あんな男、生かしておく必要ねぇよ」
「いいんだよ」
「よくねぇ! ぜってぇ殺す!」
「いい」
「イヌピー優しすぎぃ! そんなんじゃ悪い男に付け込まれるって……ちゃんと殺さないと……」
酒のグラスを何度もあおり、やたらと物騒なことを何度も言うココが面倒くさい。あの路地裏で俺が痴漢行為にあっていたのがなぜか彼の逆鱗に触れたらしく、飲み始めた頃から何度も何度も話題に出てきた。殺さないでおけと言う俺に一度は納得するが、数十分するとまた思い出して話題に出す。その度に適当に宥めていたが、酒が回って思考回路がぼやけた俺は真面目に受け答えするのも面倒になっていた。言うつもりがなかったことを口から滑らせたのもアルコールのせいだろう。
「俺、ゲイだから。いやだからって痴漢はよくねぇけど、でも他の奴に触られたこともあるし」
はは、なんて笑いながら言ったつもりだった。笑い話のつもりで。だけど俺の言葉を聞いた途端、それまで上機嫌で酔っ払っていたココはぴたりと固まった。
「……え?」
あ、しまった。そう思った時にはもう遅かった。
酔いが一気に醒める。背中をじわりと嫌な汗が伝った。
しまった。失敗した。いくら酔っていたとは言え、簡単にカミングアウトしていいことではなかった。見誤った。完全に判断ミスだ。ココがどこまで受け入れられるかを考えないで伝えてしまった。幼馴染とは言え会ったのは数年ぶりで彼の心は分からないのに。気持ち悪いと言われてしまうのだろうか。あれだけ傍に居たのに隠していたのか。そう侮蔑の言葉を投げられるのか。
黒い瞳がこちらをじぃと見つめてくる。その瞳に嫌悪感が浮かぶのが怖くて、でも目を逸らせない。
呼吸も忘れてココを見つめると、ココがごくりと唾を飲む音が聞こえた。
「じゃあ、男とヤったことあんの?」
嘘をつくこともできずに小さくあるよと答える。緊張で頭の中がくらくらした。するとココが平坦な声で尋ねてくる。
「どっち? ヤるほう? ヤられるほう?」
「……ヤられるほう」
今度は俺が生唾を飲み込む。喉がからからに枯れて声が少し引っかかった。
動揺する俺にココは無感情な顔をして、そしてとんでもないことを言い出した。
「俺ともできる?」
……IQの高い男は、性欲が強い。その研究は、どうやら名門大学の学生の方がセックストイを購入している確率が高いことからそう結論付けられたらしく、つまりそれは知的好奇心が旺盛なせいじゃないだろうか。平凡な人間だったら試さないようなことも、知的好奇心に駆り立てられて試してしまうような。そう、例えば――男の幼馴染と寝てみるとか。
俺ともできるのかと真面目な顔をして尋ねてくるココを目の前にして、俺はそんなことを考えながら……頷いてしまった。
頷いた俺を引き摺るようにしてベッドに連れていき、ココは俺を抱いた。女と同じようなやり方で抱かれたせいで解し方が足りずに痛い目をみたけれど、それでも俺にとっては生まれて初めて好きな相手と寝た夜だった。
が、翌朝ココはそんなあれこれを覚えていなかった。正確には、行為をしたことは覚えているけれど自分が押し倒したことは忘れていたみたいだ。まさに酒の過ち。蒼褪めて俺の顔と自分の股間を何度も見るココは、まるで処女でも失ったみたいだった。
安心しろよ。お前は突っ込んだ方だ。
そんな軽口をたたいてやろうかとしたけれど、殴られるかと思ってやめた。
その代わりに別の軽口を叩くことにした。
「付き合うとか、そういう面倒なことはいいから。……たまに会ってヤろうよ。それなら都合、いいだろ?」
どうせ断られるだろうと思った。もしかしたら殴られるかも、とも。でもこれで縁が切れてしまうなら、もう一生会えなくなるなら、何言っても変わらない。だったらセフレにでもしてくれねぇかな。そんなやけっぱちの気分で吐いた言葉だった。
まぁ断られるだろうと思っていた俺を、蒼褪めていたココは瞬きを忘れたように見つめて……それからなぜか分かったと呟いた。
◇◇◇
時間が空いたら呼んでよ。
そう告げた俺の言葉通り、ココは暇な時に俺を呼ぶようになった。
頻度は7日から10日に一度。俺の休日の前の日が多くて助かるけれど、そうでなくてもココに呼ばれたら無理やり予定をあけている。行く場所はだいたいココの部屋。二度か三度ほどホテルに呼ばれたこともあるけど、煌びやかすぎる部屋に緊張したからあんまり覚えていない。
俺が準備してココのマンション……と言ってもたぶん住処のうちの一つ……に行って、特に会話もなくヤって、終わったら帰る。それだけの関係だ。好きだとかもっと会いたいとか言われたこともなければ言ったこともない。つまり俺はココの都合のいい男、セフレというやつになったんだと思う。
それで満足していた。ココが生きていて触れ合える距離にいる。だったら性欲処理だろうがオモチャだろうが何でもよかった。ココに他の愛人がいてもいい。口出しして愚かな独占欲を見せるなんて真似はしない。俺は妊娠もしないし分をわきまえた、都合のいい相手になれる。
そう思って半年ほどたったのに、ココは俺に飽きはじめたみたいだった。
そうだ。俺にはココは何よりも大事なものだしセックスだって特別だけど、ココにとってはそうじゃない。それを彼の行動の端々から感じるようになった。
今日だって、10日ぶりにようやく会えたっていうのに……ココは俺のことなんて見もしないで携帯を弄っている。
通いなれたマンションで、リビングに足を踏み入れた俺はそのことに唇の端をへのじに曲げた。
ココの中で俺の優先順位がどんどん下がってきていることに気が付いたのは、つい一月ほど前の話だ。俺はもともと鋭いタイプじゃないし人の心の機微なんて分からないから、もっと前からサインが出ていたのかもしれないけど、最近まで気が付けなかった。
俺のことだけ見て欲しいなんて言わないけど、それでもわざと俺から目を逸らすような仕草に腹が立つ。最初の頃はまぁまぁがっついてたくせに。部屋に入った途端ベッドに引きずりこんでいた男の変わりように、俺は眉を寄せた。飽きがいつかくるのも分かっていたけど早くないか。女に不自由していないのは知っていたけど、これだからチャラいやつは嫌だ。
ココの視界に入るようにわざと足音を立てて部屋を突っ切って、そのまま寝室へ行こうとする。裸になって待っていたら嫌でも来るだろ。来なかったら襲いに行けばいい。
すると、俺にチラリと視線を流したココがようやく口を開いた。
「イヌピーいらっしゃい。もう飯食った?」
「……まだ」
「俺さぁ、腹減ってんだよね。飯食ってからしようよ」
クソ、まただ。
舌打ちしたくなるのを堪えて、なんとか頷く。
最近のココはいつもこうだ。
会えることは多くないのに、会ったら腹が減っただの見たいテレビがあるだのとのらりくらりと俺を躱してなかなかセックスをしようとしない。きっぱりと振られたわけじゃないし未だに俺を呼んでくれるってことはまだ少しはヤりたいと思っているんだろうけど、少し前の飢えを満たすようなセックスはしなくなった。
俺よりも飯が大事かよ。不機嫌さが態度にでそうになるのを無表情で覆い隠して、ココが座るソファの隣に腰を下ろした。ジャケットを脱ぐと背もたれへと放り投げる。少しでもまともな見た目になりたくてわざわざドラケンに選んでもらった一張羅はくしゃりと潰れて、きっと次に羽織るときには皺ができているだろう。体のラインを見せるような薄手のシャツも高かったパンツも、どうせあいつの目からしたらただの安い粗悪品だ。いそいそと髪までセットしてきて馬鹿みたいだなと思った。
ココはと言えば、俺の見た目の変化なんか気が付かずにスマホに目をくぎ付けにしてしきりにフリックしている。
「飯、なに食いたい?」
「ココが好きなのにしろよ」
「え~……じゃあ中華とか? 洋食もいいけど、デリバリーでフレンチとかってイマイチだよなぁ。イタリアンはこの間食ったし」
つらつらとそんなことを言うココは、しばらく迷った後に適当に注文をしたようだった。いちいちどのメニューにするか聞いてくるのが、面倒くさい。俺はお前が傍にいるってだけで触れたくてたまらないのに。ココはそうじゃないんだと見せつけられているみたいで無性に悲しかった。
ココがようやく注文を終えてスマホを置いた。
これでこっちを見るはずだ。すこし痩せた彼に飯はちゃんと食わせてやりたいけど、届くまでにせめてキスくらいは。そう少しだけ期待して、ココの方を向くと……今度は彼の指先がテレビのリモコンをとり、動画配信サービスのサイトを画面に映し出した。まさか。
「あ。なぁこれ、見たかったシリーズなんだよ。飯届くまで見てかねぇ? イヌピーも好きそうだし」
屈託のない顔でそう言って画面を指さすココ。
その顔にキスがしたいなんて言えるわけもなく、俺は心の中で肩を落として、だが顔だけは平静を装って無言で頷いた。
◇◇◇
はー、と大きなため息を吐く。
その拍子に手からトルクレンチが滑り落ち、カランと耳障りな音をたてた。
いつもは気にならないその音にも舌打ちを零して拾い上げると、バイクへと向き合う。昔は楽しくて堪らなかった瞬間なのに、今は集中できない。これだと怪我するなとほぐすように肩を回した。
心の中を占めているのはもちろんあの幼馴染だ。
結局この間行った時はネットフリックスオリジナルシリーズとやらと長々と見て、途中で届いた飯を食い、そうしてようやくセックスにありつけた。それまで指一本触れられなかったことには正直落胆しかなかった。
ヤるのも面倒なら帰ろうか。そんな言葉が何度も喉まで出かかったけれど、もしかしたら次の瞬間にでもココがヤろうかと言うんじゃないかと期待してしまって、結局俺は黙って座っていることしかできなかった。
先ほどよりも大きなため息を吐くと、後ろから軽く肩を叩かれた。
「おいイヌピー、なにやってんだよ」
「悪ぃ……ぼーっとしてた」
「ぼーっとしてんのはいつもだけどな……、体調悪いなら帰れよ?」
「平気だ」
いつもじゃねぇよ。少しムッとして眉根を寄せるが、この年下のくせに異様にしっかりとした青年……ドラケンはふんと鼻で嗤ってから、少しだけ瞳の奥に真剣な色をのぞかせた。
「なに、悩み事?」
バイクに手を伸ばしつつ、何気ない様子を装って尋ねてくる。
この面倒見の良い男はいつもそうだ。
なんでこの無表情な自分の考えていることが分かるんだろうかというくらい俺の頭の中を読むし、気の遣い方が嫌味じゃない。こいつには意地を張ってもしょうがないかと肩の力を抜くと、バイクの前に座り込んだ。ドラケンはそんな俺を見下ろすように傍に立つ。
「……なぁ。セックスと飯、どっちが好き?」
「は?」
「セックスできる。でも腹も減った。どっち優先する?」
「えー……そりゃ、まぁ……男だしセックス? いや飯は食わないと死ぬけど、セックスはそうでもねぇしなぁ」
唐突な質問すぎると自分でも思った。だがそれを真面目に考えてくれているのか、ドラケンは腕を組んで首を傾げている。なるほど。たしかに飯は食わないと死ぬ。だったら俺よりも優先順位が高いのはしょうがないのか。
「じゃあテレビとセックスは?」
「どんな質問だよ」
「いいから教えろ。見たい番組あるからってセックス後回しにするか?」
今度は呆れたような声だ。が、俺も真面目に聞いているんだと、重ねて尋ねる。
なんとなく自分の言葉に棘が見え隠れしてしまったようで気まずい。後回しにされて苛ついてんのが透けて見えそうだ。
だけどドラケンはそのことに気が付いてはいないのか、あー、それはねぇなと小声で言った。
「俺はしねぇな……まぁ乗り気じゃねぇ時なら、後回しにするかもしれねぇけど」
「乗り気じゃない時?」
「昨日もヤったし今日はいい、みたいな時とか、疲れてるとか?」
昨日もヤった、ということがあるとしたら、ココが他の女やもしくは男を相手にしてきたということか。それはあり得るかもしれない。あいつにどれだけ愛人がいるのか知らないが、モテないわけはない。他で処理しているから俺相手に手を出すのが面倒になったというのはあり得そうな話だった。疲れているのはいつもだろう。
他の相手がいるのは承知の上だけれど、やっぱりそうかと思うと少し気が沈む。
「そっか……」
「なに、イヌピー大丈夫なのかよ? ていうかイヌピー今付き合ってる相手いたの?」
「平気だ。俺じゃなくてダチの話」
分かりやすい俺の嘘に、ドラケンは少しもの言いたげな顔をしたけれど口を噤む。本当にこの共同経営者はよくできた男だ。こいつみたいな男を好きになればせめて楽になるようにすっぱり振ってくれたのにな、と少し口惜しく思った。
ココは優しくて残酷な男だから、俺を簡単には楽にしてくれない。
俺に飽きても、いくら他の相手を抱いても、それでもノコノコ俺があいつの元に通う限りはその俺を傷つける優しさで俺を拒否しないのかもしれない。酒に酔って始めた関係だけれど、それなりに責任感みたいなものを感じているのかもしれない。記憶がなくて死にそうなほど焦った顔をしたココ。もし今のこの関係が覚えていないことに対する罪滅ぼしみたいなものだったらと思うと胸が重く沈んだ。
だとしたら……もう呼ばれても断るべきなのか。
ココは聡いから、俺の気持ちに気が付いているだろう。叶わない俺の恋心に同情して、飯よりもテレビよりもつまらない俺とのセックスに付き合ってくれているのかもしれない。別の愛人なり恋人なりとセックスしたいのを我慢して俺を抱いてくれているのなら、そろそろ身を引くべきなんだろうか。
それが正しいことのように感じるけれど、ようやく再会した想い人との時間を手放してくなくて、自分から言い出すことはできそうにない。そんな卑怯な自分が嫌でしょうがなくて、ため息が出る。
俯いたきり黙り込んだ俺を見て、ドラケンが気まずそうに低く声を上げた。
「あー、そういや、イヌピー来週誕生日だよね。どうする? よければ東卍の連中とお祝いしようか。タケミっちとか千冬とかも呼んでさ」
いいだろ?とにやりと唇を吊り上げた笑いと共に誘われる。ドラケンの気遣いと懐かしい仲間の名前に少し目元が緩むが、俺は首を横に振った。
「いや、悪い。俺その日、早めに上がるかも」
「あ、予定あり? 了解」
楽しんで来いよと言われて曖昧にうなずく。
本当は違う。予定はない。
ただ――その日にココからセックスの誘いがないかと思って、できればあけておきたかったのだ。ココが俺の誕生日を覚えているとは思えない。けどもしかしたらセックスの呼び出しだけならあるかもしれない。その万が一を絶対に取り逃したくなかった。
だけどそのことは言う気にはならなかったので、誤魔化すように頷いておいた。
うなずいた俺に満足したのかドラケンは一つ大きな伸びをして仕事へと戻っていく。ドラケンの誘いを受ければ、きっとみんなに囲まれて幸せな誕生日を過ごせるんだろうな。辮髪を揺らして歩く後ろ姿を見ながら、そうぼんやりと思った。
◇◇◇◇◇
……もうこんな時間か。口の中でそう呟くと、ずっと握りしめていたスマホのディスプレイを指先で撫でる。
今日に限って時間が経つのが早く感じる。もうじき12時になってしまうじゃないかと少しだけ力を込めて唇を噛んだ。
10月18日。
スマホのカレンダーには無情にもそう示されているが、今日までココからの誘いはなかった。そもそも彼と会えるのは月に3、4回。そのどれもがあらかじめ決められた日で、急遽呼び出されるということは少なかった。だからココと会える可能性は限りなくゼロに近いというのはもとから分かっていた。
ココが俺の誕生日を祝うなんてことはない。覚えているわけない。だけど……もしかしたら偶然があるかもしれない。他の女の都合が悪くなった、なんて理由で呼ばれるだけもいいから。誕生日くらい奇跡が起きるんじゃないか。そう思って仕事を急いで終えてアパートにいそいそと帰って、欠片くらいの期待を持って尻の準備までして待った。
心がソワソワとして落ち着かない。ベッドに腰掛けていても落ち着かずまた立ち上がり、うろうろと部屋を一周するとまたベッドへ戻る。やることもなくテレビをつけるが、高い声で笑うバラエティー番組の声が耳に刺さって不愉快ですぐ消した。
きっと他の奴が見たらバカみたいだと思うだろう。
俺だって、女々しく誕生日に一人で好きな相手のことを待ついい歳をした男がいたら馬鹿だと思う。女子中学生じゃないんだ。誘いを待つばかりじゃなくて、自分から動けと殴るかもしれない。
でもどの口で『俺、今日誕生日なんだ』なんて言えるだろうか。
「……言えねぇよなぁ」
俺はセフレ、いやもしかしたらただの穴扱いなんだ。穴が急に意志を持ってあれこれ言いだしたら気分が悪いだろ。しかも誕生日だとか伝えるなんて、まるで物でもねだっているみたいじゃないか。
俺はプレゼントだとかお祝いだとかはもとから望んでいない。だけどココはずっと俺が傍に居る理由が金のためだと思っていた。そんなココに誕生日を伝えたら……十中八九、金の催促だとでも思われるよな。あいつ、誰と間違えているのか俺にタクシー代渡そうとすることあるし。きっとココの周りにはそういう女がたくさんいるんだろう。俺はただ『おめでとう』と言ってほしいだけだけど、でも彼は勘違いするかもしれない。
違うんだ。俺はココに少しでもこちらを見て欲しいとは思っているけど、なにかを奪おうとは思っていない。
それを口下手な俺がうまく伝えられる気がしなくて、結局スマホを握りしめて部屋でノイローゼの熊のようにうろうろすることだけしかできない。
ガキじゃねぇんだから誕生日だなんて浮かれてんなよ。そう自分をぶん殴って寝てしまおうかとも思うけど諦めきれない。しつこくスケジュールアプリを睨んで……ふと思いついた。
――そうだ。別に誕生日だから電話をしたと伝えなくてもいい。次に会う予定を忘れたから確認したかったとか言って、電話をしてしまえばいいんだ。そうすれば何とか声だけは聞ける。いつもはこちらからの電話は滅多にしないけれど、それが俺の誕プレっていうことにしてしまおう。あいつは仕事かもしれないけど、誕生日くらい迷惑かけさせてもらおう。
座り込んだベッドからもう一度立ち上がると、気合を入れるために頬を叩いた。
「……よし!」
スマホの通話履歴を開くと『ココ』の二文字を見つめる。
なんて言おうか。あいつも取り込み中かもしれないし、まずは忙しくないか確認して、急に電話したこと謝って……。いや、そもそも出ないかも。そう思いながら受話器から流れるコール音に耳を澄ませる。するとそれは、5回ほど間延びしたメロディーを奏でた後に途切れた。電波が悪いのか少しざらついた音とともに、受話器の向こう側から幽かな音がする。
――でた。
「あ、コ……」
心臓がどきりと高鳴って、セックスしたことすらある相手なのに緊張感に喉がひっかかる。唾を飲みこんで彼の名前を呼ぼうとしたが――俺の言葉は流れ出てきた細く高い声に遮られた。
『もしもし?』
「あ、え、ココ、……?」
ココじゃない。そんなの分かっている。だけど頭の鈍い俺は呼ぼうと思っていた名前を間抜けに繰り返す。
だってこれはココの携帯じゃないのか。間違えた? そんなわけない。先週はこの番号からかかってきたんだ。でもその携帯に女がでるってことは……。
その理由を、俺は分かっているけど分かりたくない。通話口の先からは、電波が悪いのかざらついてはいるが、さぁさぁと壁に当たる水音が聞こえる。明らかにプライベートな空間を匂わせるその音。
何も言えなくなっている俺のことを訝しく思ったのか、彼女が聞いてもいないことを話し出した。
『ココ? ハジメさんのこと? 彼ね、シャワールームに携帯置いてっちゃったの。出たら伝えようか?』
ハジメさん。シャワールームに携帯。出たら伝える……つまり彼女もシャワーを浴びているっていうことで。そしてその言葉は携帯から漏れ聞こえる背後の音に嘘なんかじゃないと分かり、そこからはじき出される答えに心臓が悲鳴を上げる。
この女もココの相手なのか。本命か、愛人か、俺と同じオナホなのか知らないけど、この女は今からココに抱かれるのか。
そのことが脳みそに届くと叫び出したくなって、俺はなんとか低い声を絞り出した。
「いや、いい」
『そう?』
「電話があったことは言わなくていい。通話履歴も消しといてくれ」
『え? なん……』
女が言葉を最後まで発する前に通話を切り、勢いのまま電源も落とす。それだけでは気持ちのおさまりが付かず、ベッドの端を蹴り飛ばした。
「あー……クソ!! 分かってただろ!」
ガン!ガン!と何度か派手な音を立てて蹴り上げ、衝撃でベッドが壁にぶつかり更に大きな音をたてた。まだ苛立ちが胸の中に渦巻いているが、はーはーと荒い息を吐いて怒りを押し殺す。これ以上暴れて騒音で文句でもつけられたら面倒だと頭の中の冷静な部分が怒りを押しとどめた。
でもやりきれない思いで頭をがりがりとひっかき、何度か呻くと行き場所もなくベッドにうつ伏せに倒れ込むと枕に顔をうずめる。
クソ。クソ、分かってたじゃないか!
あいつに他の女がいるのも、俺は特別なんかじゃないってことも!
分かっていたはずなのに、胸が引きちぎれそうだった。ココが他の女とヤっているのが嫌だ。だけどそれ以上に、そのことにダメージを受けてる自分が嫌だ。あいつが俺のことをなんとも思っていないのは分かっていたのに、いざ現実として目の前につき付けられたら苦しくて堪らない。ココに他に女がいるのは分かってた。だからムカついているのはココにじゃない。他の相手がいると分かっていながら、どこかで俺がココの特別なんじゃないかと傲慢にも思い込んでいた自分自身にだ。
燃えるような独占欲が腹の奥に渦巻いて、あの女に俺の方がココを愛していると叫びたくなる。携帯も電源を落とさなければもう一度、いやココが出るまで朝までだって掛けて泣き叫びながら俺だけを愛せと怒鳴ってしまうかもしれない。俺とそいつのどっちが大事だと、地獄みたいなことを言ってしまいそうだ。
そんなことしたって最悪なだけだって分かってるのにおさまりの付かない気持ちが暴れ出しそうで危なくて、きつく瞳を閉じる。
「分かってた。分かってただろ……」
今日、俺は誕生日で。ココに祝ってもらおうなんて考えていなかったけど、でも声だけ聞ければなんて浮かれてた。そんな欲を出すから痛い目をみたんだろうか。ああ、なんで電話なんてしてしまったんだろう。そんなことしなければ、俺はもう少し……彼に捨てられるまでは夢を見ていられたのに。
電源を失った暗い画面を見つめると映るのは、ココがいつも褒めてくれる金髪と深緑色の瞳。それは遠い昔に喪った、姉と同じ色だった。
◇◇◇◇◇
もう駄目だ。俺はあいつの一番になれないのにいつまでもしがみついて、そのうちにきっと迷惑をかける。嫌味なことを言ったり泣き叫んだりなじったり、セフレとして最悪な相手になってしまう。だったら俺がこんなに重たい気持ちを持っているって知られる前に去ってしまった方がいいんじゃないか。
体だけでも繋がっていたいと喚く心を抑えて、朝までかかってそう決心を固めた。前々からココが俺に飽きてきたんだろうなという態度は感じていた。あいつから死刑宣告されるまでしがみつこうと思っていたけれど、それを早めることになっただけだ。手を放さないと、とずっと思っていただろうと自分に言い聞かせる。
そして1週間ほどして、気持ちが揺らいでは決心をし直して……の繰り返しに疲れてきた頃にココから短いメールで呼び出しがあった。
『夜、いつもの場所で』
時間の指定すらない、たった一言しか書かれていないメールはいつものことだ。けどはじめての時と同じくらい緊張してマンションへと足を進めた。
――今日で終わりにする。
本当は誘いそのものを断ってしまおうかとも思った。
もう会わない、とメールすればきっと返信すらなく関係は終わるだろう。『なんで?』だとか『会って話し合おう』なんて普通の恋人みたいなやり取りはきっとない。だけど最後にもう一回、顔を見て終わりにしたいと思ったのだ。だってこの繋がりが途切れたら、もうココとは一生会わないかもしれない。片想いは永遠に片想いのまま葬り去られることになるのだから。
いつも通りセックスして……いや。ココは最近飽き気味だから、先にこれで終わりにするって伝えてやってそれから最後のセックスの方が楽しめるかな。最後って思った方が燃えるかもしれないし。でもそうしたら俺は泣いちゃってちゃんとココを気持ちよくさせてあげられないかも。
ぐだぐだとそんなことを考えながら彼の部屋へ向かう。超高級に分類されるマンションのエントランスを通り、もう俺に慣れた様子のコンシェルジュとやらに会釈をして通り過ぎた。他の住人と滅多に会わないエレベーターはいつも薄暗くて、足元はふかふかとしたカーペットが敷かれている。初めて来たときは戸惑ったそれももう慣れたものだった。
チャイムは三度鳴らして、返事をされなくても合鍵を使って勝手に中に入り込む。ココに言われた小さな取り決めを守って玄関を開けると、先の尖った革靴がきちんと揃えて並べてあった。
自分のアパートとは広さも長さも倍くらい違う廊下を通り、リビングへと向かう。漏れ出る明かりと幽かな人の気配から、そこにココがいるのは分かっていた。そっとドアノブ手をかける。
通いなれたこの部屋にももうお別れなんだ。
一歩踏み込む勇気が出ずに立ち止まっていると、前触れもなく扉が内側から開かれた。
「よう、久しぶり」
「……! あ、ああ、ココ。久しぶり」
俺の方が遅ければいつもは仕事をしているココが、どういう風の吹き回しかリビングの扉を開けて迎えに来たらしい。切れ長の瞳が少し緩んで笑みの形を作り、そのことに心臓が跳ねる。どうやら機嫌がいいらしい。
「早く入れよ。今日は飯の用意ももうできてるし」
「え?」
「あ、もう食ってきちゃった?」
「いや、……まだ、だけど」
これも珍しい。ココは忙しいためか飯をこの部屋で食うことが最近多いけれど、いつも俺が来てからあれこれ悩みながらデリバリーを選び始める。それまではずっとパソコンに向かっているのに。背中を押されて促されるままにリビングに足を踏み入れる。
すると、いつもより……いやいつも豪華な飯だけれど、それよりも更に豪華な料理がダイニングテーブルに並んでいた。どこかの料亭の印が入った上品な日本料理は、宅配ではなくてどこからかわざわざ調達してきたのだろう。一目で手の込んでいると分かる料理が使い捨てではない美しい器に盛られて、箸を付けられるのを待っていた。殺風景だった部屋なのに花まで飾られている。
驚きに目を開いていると、ココがまるで悪戯に成功した子供のように笑い声をあげた。
「イヌピー、先週誕生日だったろ? おめでとう」
「……え?」
「はは。え、ってなんだよ。忘れちまったの?」
料理を前に呆然とする俺を前に、ココが可笑しそうに肩を揺らす。
「いや、だって、」
誕生日って今言ったのか?
まさか覚えているわけない。そう何十回も自分に言い聞かせた。昔は仲の良い幼馴染だったかもしれないけれど、今はただのセフレで。ココにはそんな相手はたくさんいて。なんなら俺にはもう飽き始めているはずで、誕生日なんて俺から伝えて面倒くさいと思われるのが嫌だから黙っておこうと思ったのに。
そんなただのセフレのはずなのに、思い出してくれたのか?
どくりと心臓が鳴る。
何も言えなくなって固まったままの俺に気が付かないココは、キッチンの方に一度行くと、置いてあった綺麗にラッピングされた袋を持ってきた。
「これ電熱グローブ。バイク用品は俺はよく知らねぇけど、手とか寒いだろ。いらないなら捨てて」
「電熱グローブ……?」
「うん。あ、別のプレゼントがいいなら言ってよ。俺マジでイヌピーの欲しいもんとか分からねぇからさ」
ぽんと投げるようにして渡されたそれを慌てて受け止める。
軽いその感覚に、じわりと胸の奥に抑えきれないものが広がるのを感じて、俺はそのプレゼントを抱きしめたままその場にしゃがみ込んだ。
――やばい。
「え? イヌピー?」
ココの慌てた声が聞こえるけれど顔を上げられない。腕で頭を抱えて顔を隠す。
――やばい。やばい、これは駄目だ。……嬉しすぎて駄目だ。
「なに具合悪い? 医者呼ぶ?」
ついにゆさゆさと肩を揺さぶられて、俺は『違う』と呻くような声で応えた。
ココ。
ココは優しいし頭がいいし気遣いができるいい男だ。
俺はおそらく赤くなっているであろう顔を上げると、戸惑ったままのココをぎりりと歯噛みしつつ睨みつけた。
「やめろよ」
「え?」
「だから! こういうの、やめとけよ。……期待するだろ」
「期待?」
俺がプレゼントを指さしながら言うけれど、ココはイマイチぴんと来ていないようで首を傾げる。こいつは頭がいいくせに変なところで鈍い。もしかしてわざとか? 俺がココのことを好きなのを知っていて、誕生日の後くらい夢見させてやろうって魂胆か? だったら大成功で俺は舞い上がってしまった。けど俺以外の相手にこんなことしたらいつか刺されるぞ。
そんなつもりでココに諭すように口を開いた。
「いいか、ココ、こういうことはあんまり他の女にはするな。お前はその、慣れすぎてて分からないと思うけど、セフレの誕生日覚えててプレゼントなんてしたら誤解される」
「いや他の女にはしねーし。つーか誤解って、なんの?」
首を傾げているココはさらりと変なことを言っている。が、それ以上に彼に伝わらないことに苛ついてしまった。ここまで言ってもまだダメなのか。俺は気が長いほうじゃないんだ。自分の額に青筋がたつのが分かる。
言うつもりのない言葉が喉元までせり上がってくるのを感じたけれど、それを押しとどめておける理性がなくなってしまった。
「…………お前が、少しでも俺を好きなんじゃないかって誤解だよ!」
ココが俺の誕生日なんて気にもしないでいてくれたら期待なんてしない。俺はただの都合のいい相手として分をわきまえて、セックスを与えられるだけで満足したし、面倒くさくなる前に去ろうと思ってた。なのにココが……プレゼントなんてまるで俺がただのオナホじゃなくて、ココにとって大事な相手みたいなことするから期待しちまうじゃないか。
こんなこと言ってもココはきっと「そんなつもりはねぇよ。勘違いすんな」とか酷いことを言うだけだろう。勘違いさせたのはお前のくせに、なんて恨み言すらも届かない男だ。
俺がこんな重たいことを言ったら、うるせぇって呆れられるかもしれない。だけど俺は嬉しさと腹立たしさでどうにかなりそうで気持ちを吐露してしまう。怒鳴りながら告白するなんて間抜け極まりない。
だが鼻で嗤うだろうと思っていたココはなかなか口を開かなかった。さっきまで何だかんだと開いていた口も閉じてしまったココ。
俺の告白に引いたのか。まぁオナホ代わりの男がそこまで思い上がっていたと分かったら引くかもしれない。今は頭の中で俺のことを消す算段でもしているのかもな。
とにかく俺の告白はココにとってはあり得ないものだっただろう。舌打ちをすると足に力を入れてしゃがみ込んでいた体を起こした。ココの顔をもう一度見るけれど相変わらず真っ黒い瞳がこちらを射るように見つめているだけだ。そこに、俺の告白に嬉しいみたいな感情はまったく感じられなくて胸が小さく痛んだ。
「変なこと言って悪い。帰るわ」
せっかくの料理に申し訳ないが大食いのココなら一人で平らげられる。誕生日を祝ってくれるつもりだったのに、結局自分からぶち壊してしまうなんて。蹴りだされる前にさっさと出ていこう。そう思ってリビングから出ようと足を進めると、伸びてきた手に腕を掴まれた。
「ココ、はなせ」
ただ握ると言うには強すぎる力で腕を握られ、小さく走った痛みに眉をしかめる。はなせと言った俺の言葉が聞こえなかったのか、ココはさっきよりも近くなった距離で俺のことを見つめている。
黒い瞳に吸い込まれそうだと思っていると、ココが小さい声で呟いた。
「イヌピー、俺のこと好きなの?」
そうだよ。気づいていなかったのか。でももうこの気持ちごといなくなる。安心しろよ、縋りついたりなんてしない。
そんな気持ちを込めて腕を振り払おうとするが、思った以上にしっかりと掴まれた腕は外れない。どういうつもりだと睨むが、ココは相変わらず気持ちのよめない瞳で俺のことをじぃと見つめて、それから口を開いた。
「じゃあ俺がイヌピーの誕プレになってもいい?」
……何言ってるんだこいつは。
「殺すぞ」
「いや! ちょ、待って! マジな話」
キレかけて、掴まれていない方の腕を振り上げると、ココは慌てて一歩飛び退いて俺から距離を取った。が、その後にまたすぐに俺の傍に戻るとなにやらそわそわと体を小さく動かして、あちこちへと視線を飛ばす。
「セフレじゃなくて、都合のいい関係でもなくて……っていうか、あ~……、いや、ずるい言い方した。ごめん」
そわそわしたココは口の中でごにょごにょと早口で呟いて、それから頭を手でがしがしと掻くと、彼は腹を決めたように息を吸い込んだ。なんだと思っていると、固く強張った俺の体にココがそっと手で触れてくる。
「ずっと前からイヌピーが好きだった。恋人として付き合ってください」
「……え?」
「ダメ?」
「いや、待ってくれ、ココ、」
急に言われた言葉に頭がついていかない。ごくりと唾を飲みこんで彼の言葉も一緒に飲みこもうとするけれど、いやいやそんなことココが言うわけないと頭が妙に冷静になる。
「好きって、……冗談だよな。からかってんのか?」
あんまり悪趣味な冗談言うなとけん制のつもりでやや声を落として言うと、ココは気分を害したように片方の眉毛を器用に吊り上げた。
「んなわけあるかよ」
「いやだってココ、そんな素振りまったくなかっただろ。俺の誕生日、他の女といたの知ってるし」
「他の女……? あ? あ! あ~……あれは仕事相手だって。一瞬そいつの前に携帯忘れてたけど、もしかして電話とかかかってきた?」
「仕事相手とシャワー浴びるのかよ」
「げ、あのクソブス、イヌピーになに変なこと吹き込んでるんだよ……! イヌピー信じて、マジのマジで俺イヌピー以外と寝てないから。っていうかあの女もう消したから! 証拠見せる?」
「いらねぇ」
わたわたとスマホを取り出そうとするココ。だけど番号を消した証拠なんて見せられても俺はあの女の名前すら知らないんだから、確かめようがない。俺が冷たく言うと、吊り上げていた眉をココは情けなくへにゃりと下げた。
「本当に俺のこと好きなら、誕生日に電話くらいかけてこいよ」
「……もしイヌピーが他の奴と祝ってたら、ブチ切れそうだったからできなかった」
本気で好きだからとさっきよりも勢いなく言われて、俺は少したじろいでしまう。
本当に本気で俺が好きなのか。心の中で期待がむくむくと育っていくのを感じて、いやこれで嘘だったらどうするんだと踏みとどまる。
「は、はじめて寝た日の翌日も嫌過ぎて死にそうみたいな顔してたじゃねぇか」
あの日の朝のことを思い出して唇を尖らせる。明らかに不本意ですという風だったココ。そのココに都合のいい関係なんていう細い糸をつなぐような提案をしたのは俺だ。
「それはさぁ~……。ずっと好きだった相手が裸で横で寝てたら、襲っちまったのかって焦るだろ」
襲うって、そんなことあるわけないだろ。そう思ったけれど、ココの頬が少しだけ赤く染まっているのがまるでその言葉が真実であるかと示しているようで、俺は目を丸くした。
「それなのにイヌピー、都合のいい関係とか言うし。そんなこと言われたら、イヌピーが俺のこと棒扱いしてんのかと思うじゃん」
「……俺のせい?」
棒扱いなんてした記憶はないけれど、彼の拗ねたような口調に聞き返すと、慌てて首を横に振った。
「いや! 違う、違った。俺が日和ったせい!」
謝らせてしまった気がして小声で悪い、と言うと彼は小さくほっと息を吐いた。じわりと体を寄せられて顔を覗き込まれる。
「なぁ、イヌピー……なんか、イヌピーも俺のこと好きっぽく聞こえるんだけど……。嫌じゃなければ付き合ってよ」
甘えるように小声で囁かれて俺の顔に血が上るのが分かる。普段は冷静沈着、冷たくさえ見える顔立ちの男の甘ったるい雰囲気に、これ以上踏みとどまることなんてできなかった。ぐぅ、と喉の奥から変なうめき声が漏れてしまう。ああそうだよ。好きだよ、好き。お前みたいに狡猾でずるい男がずっと前から好きなんだよ。ただそれは言葉にできなくて脅すようにココを睨んだ。
「後から、ただの好奇心だったとか言うなよ」
「そんなことあり得ねぇよ」
「別れたいって言ったら殴るからな」
「イヌピーこそ一生俺に付きまとわれる覚悟してよ。逃げても死ぬまで追いかけるから。ちょっとでもよそ見したら監禁するし」
「監禁……」
本気なのか冗談なのか分からないことを言われて、さっきまでのこわばりが体から抜けて小さく笑う。
「それは……ちょっと不都合だな。でもいいよ。ココの好きなようにしろよ」
逃げもしないしよそ見もしないけれど、どれだけ不都合があっても恋人として受け入れるよ。それくらいには惚れている。そう思ってココに抱き着くと、強く抱きしめ返された。