労り「おいラー、耳の先に血が滲んでいるぞ」
「あぁ、大したことはない。寒さが厳しい時期は放っておくと乾燥してひび割れてしまうのだ」
ヒュンケルがそれくらいのことで太く凛々しい眉を寄せ眉の尻をやや下げているのを見て、ラーハルトは思わず目尻を下げながら、自分の耳に手をやって答えた。
「軟膏を用意するのを忘れていたな……とりあえず油をつけておけば保護にはなる」
そう言いながら寝台の横に据え付けた棚の扉を開け、オリーブ油を取り出して手に取り、耳につける。
「軟膏というと?」
「基本は、このオリーブ油や、羊の毛から採れる脂だ。そこへ、アロエの葉の中のずるずるした物を、すり潰して、濾して、煮たものを混ぜ込む」
「ほう、詳しいな。いつも自分で作っているのか?」
「あぁ。街に行けば売っているだろうが、この姿で店を訪ねるより、自分で作る方が楽だったからな」
「そうか。置いているのは薬屋か?」
「ああ。大抵の薬屋にあるはずだ」
「では今からいつもの薬屋に行ってみるか」
「何もそんなに急ぐことはないが……お前も薬屋に用があるのか?」
「いつものを買い足しておこうと思う」
いつもの、というのは、先の大戦で受けたダメージから、回復魔法を以てしても全快しなかったヒュンケルのため、少しでも体が楽になる薬を、と、賢者たちがアバンと相談して調合した飲み薬だ。二人が街での買い物に慣れてきた頃、いちいち登城せずとも買い物のついでに受け取れるよう、調合方法を記したものを持たせてくれたので、二人がよく行くようになった市場の薬屋にそれを渡して用意しておいてもらうようになった。
二人は外套を着て家を出る。
「母さんが」
「あぁ」
「作るところを見せてくれたのだ。死んでしまう少し前に」
「母親も自分で作っていたのか」
「売ってもらえなかったからかもしれんが」
母親の心労を思ってか、ラーハルトの表情が少し曇る。ヒュンケルはそれを横目で見つつ、続きを待つ。
「それに、自分がそう長くないことが分かっていたのであろう。オレが生きていくのに困らぬよう、身の回りのことをいろいろと教えようとしてくれた」
「だからお前も作れるんだな。優しいものだな、母親というものは」
「そうだな……オレは、母さんに愛されていたんだ」
ラーハルトは、母親が傷つけられる恐怖や不安でいっぱいだった自分が、その母親から愛されていたこと──母親が亡くなってから、自分を守るために傷ついていたことを思い、母親は苦しんでばかりいたと思っていたけれど、自分を見ているときの母親は、十分なことをしてやれない、させてやれない悲しみはあれど、愛しい子が、今日も生きていて、その柔らかい頬に触れ、美しい髪を撫でてやれる喜びと安らぎ感じていたのだと、ヒュンケルと暮らすようになって気づいたのだった。
ややあってヒュンケルが答える。
「そうだな。オレも、父さんに愛されていたぞ。だがオレの父さんは骸骨戦士だからな、軟膏なんか必要ない体だった」
「……笑ってよいものか困るのだが?」
「はは、すまん、笑っていいんだぞ」
ヒュンケルが慣れない冗談で自分の心を解そうとしていることに、ラーハルトは、寒風にさらされていた体が少しだけじんわりと暖まるのを感じた。
終わり