留守 頬に風が当たって気づく。オレの頬を伝うのは涙か。
ヒュンケルが死んだ。
懐かしい仲間をはじめ、これまでにこの世界で縁を紡いでくれた人々が集まり、それぞれの想いを込めて、ヒュンケルにお別れを言ってくれた。奴はそれを静かに聞いていた。それから火葬して、奴は自分の父親と似た形になって、オレのところに帰ってきた。
二人で住んでいた家はそのままに、オレは今、奴の遺骨と共に、あの頃と同じように旅をしている。
この海で、当時、オレはなんとなく母の思い出を話し始めたのだった。そのうち日が沈むと、それに引きずられるように、母が死んだときの、この世の全てに母が殺されたような気持ちが甦ってきて、オレは少し取り乱した。
もはや、人間の存在自体が悪だとまでは思っていない。生きているものは皆、複雑で、それぞれの魂の中の小さな戦いを日々生き抜く中で、どれだけ誠実でいられるか、それが歪められるのは、悪意というよりは弱さによることも理解している。しかし、当時母を苦しめた人間たちのことを赦せたわけではない。さらに言えば、母の喜びであったと同時に苦しみの原因となっていた己のことも、赦せてはいない。そして、オレにとっての全てであった母が報われることなく死んでしまったときの、全てが喪われた絶望も、忘れられたわけではなかった。
纏まりのない言葉を吐き出して、目的地を失って彷徨うオレに、ヒュンケルは、辛かったな、とだけ言った。そして、少し迷って、お前にとって意味がある言葉になるかどうかは分からないが……と前置きしてから、オレはお前を置いていったりしない、少しの間、留守にすることにはなるだろうが、すぐに戻るさ、と言った。
「早くしてくれよ……」
オレの中には、ヒュンケルと過ごした日々が刻まれていて、本を読む奴に、食卓の向かいに座る奴に、寝台の隣で横になる奴に、オレの前で竜の背に跨がる奴に、話しかければ、奴は顔をこちらに向けてオレの話を聞いてくれる。だから一人ではないのだと思う。だが。オレは、お前の体温を感じたい。その頬に口づけて、美しい髪をこの指で梳いて、目と目を合わせて、この耳をその声で直接震わせてほしい。
「留守番はしているから。帰ってこいよ」
濡れた頬を、ヒュンケルを抱いているのと反対の手の甲でぬぐって、オレは今夜の宿に足を向けた。
おわり