断片 「香水」***
今…は、いつだ
オレは何者としてここにいるのだったか
ここは世界のどの辺りだ
オレと関わりのない人間ばかりの雑踏で、動く背景となっていた誰かとすれ違いざまに包まれた、その香りが、オレを世界から切り離す。
一瞬で、まわりの景色も音も消え去り、己自身さえ見失う。
正体不明の焦燥感がビッグバンのように膨らんで全身を支配する。
苦しい、痛い。
思わず胸を掴む。
何か見える……。
眼前に迫り来る、土の色の上、銀色の美しい髪と、眩く光る鎖。
風を切る音を掻き消す、気迫に満ちた叫び声、次いで全身に感じる、凄まじい圧力。
この感情は……。
慎重に思い出す。
驚き。感嘆。敗北感。
血管が、強烈に収縮させられる。
思い出すだと……?
オレにそんな劇的な出来事の記憶はない。
いつ覚えた感情だろうか……。
少しずつ世界と己の位置を取り戻す。
大勢のまばらな足音、話し声、車の音、木の葉の擦れる音。
明るい日射し、行き交う人々、ビルの灰色と看板の原色、街路樹の緑。
自分が重力を受けてアスファルトに靴底を接し立っていることを認識する。
オレは今大学生で、つい先週、22歳の誕生日を迎えたばかりだ。
今日は休日で、オレは来週のゼミで解説を担当する内容について調べていて、分からない箇所に行き当たり、何冊かの教科書と何本かの論文を読み比べていたが、一向にすっきりしないので、気分転換のため、コーヒーショップに向かっているところだ。
誰か己と関係の深い人間がつけていた香水だろうか?
これまでに出会い、ある程度以上の関係を築いてきた人々の顔を思い浮かべて記憶を辿ってみたが、心当たりがなかった。
もう一度、香りを思い出そうとしてみる。
爽やかでスパイシーだが落ち着く香り、だったように思う。
香り自体はものの数秒で嗅覚から失われ、再現は難しい。
だが、その複雑な香りで呼び起こされた感情は、しばらくの間、余韻を残した。
思い出したい、思い出さねばならない、何か大切なことがある、そんな気がする。
それが香りによって引き出されようとしてまた、隠れてしまったように思う。
***
ゼミの発表が終わった。
先日の、鮮烈なフラッシュバックを起こした香り。
どうしても気になる、その記憶の正体が。
手がかりを求め、男性向けの香水を多く扱う店を訪ねて、店員に、人とすれ違いざまに香った香水を探している、爽やかでスパイスのような香りがするが、落ち着いた気分にもなる、と伝える。
『オードパルファム・ヒュンケル』
店員によって取り出された香水は、そう銘打たれている。
「ヒュンケル…」
己の意思によらず、己の口から発せられた名。
知った名前だったか?いや、そういう名前の知り合いはいない。
だが、なぜか口から出すのに容易く、また呼べば少しずつ、心に火が灯るようだ。
店員の説明によると、古よりの伝説に登場する人物の名で、香水はその人物をイメージした香りだという。
人間と魔族と竜族がいた頃。
大魔王が地上を滅ぼそうとしたとき、それに抗った勇者たちの中で、己の中にある光と闇の戦いに苦しみながらも、闘志を燃やし、己の命も燃やし尽くして戦った、不死身と言われた男。
店員によって細長い紙片に『オードパルファム・ヒュンケル』がスプレーされる。その香りがオレの嗅細胞に届いた瞬間。
今度は、青い空を背景に、銀髪の下、銀の睫毛に涙が光るのが見えた。
己の途切れがちな声が聞こえる「……さまをたのむ……」。
オレは何を頼んだ……?
切実な願いだったように思う。
頼んだ相手は誰なのだ……?
オレとどんな関係だった……?
いつ、出会った……?
出来事は記憶にないのに、断片的なシーンの強調された一部が鮮烈に脳裏に浮かび、煙のように消えていく。
そのとき、ショップの扉が開いた。
何気なくそちらを見れば、そこには、今見たばかりの銀髪。
はっと胸をつく美しい顔、逞しく鍛えられた体躯。
色白の肌に、瞳の色はペリドット。
そしてこちらを見るその目は、あらん限りに見開かれ、ペリドットが揺れている。
刹那、オレは、全てを思い出した。
あまりの情報量に、オレは立っていられなくなり、その場にしゃがみこんだ。
オレに駆け寄ったヒュンケルが、オレの背を支えながら呟く。
「会えたな。ラーハルト」
徐々に視界が正常になる。
顔を上げ、オレの半身だった男の顔を見る。
なぜ忘れていられたのか、と思うほど、その顔はオレの視界に馴染んで、愛しさでたまらなくなる。
ヒュンケルは、ためた涙を溢さないようにやはり目をいっぱいに開きながら微笑んで、オレを見つめている。
ラーハルトはやっとのことで掠れた声を出す。
「お前……」
「オレの名前の香水が出たと聞いてな。香水などつけたこともないが、つい来てしまった。だが来てよかった」
まわりの視線に気づき、すみません、大丈夫です、と言いながら立ち上がり、二人で店を出る。
「ヒュンケル、お前は覚えていたのか?」
「思い出したのは高校生の頃だ。お前がつけていた香水によく似た香りを嗅いだときに」
オレがつけていた香水…ああ、バラン様から賜った。
「龍涎香だな」
「そうだ。希少な物らしいから、なかなか出会わなかったが」
「あれはドラゴンたちにも好評でな……待て、お前も香りで思い出したのか…」
「お前もだったのか?」
「ああ。オレはたった今思い出したところだ」
ラーハルトが正直に告げると、ヒュンケルは一瞬驚いた後、いたずらっぽくくしゃっと笑う。
「そうか、それは助かった。お前が思い出していなければ、オレはただの不審者だったな」
「そうだな、お前に気づかずにこの機会を逃していたらと思うと恐ろしい」
本当に恐ろしい。だがヒュンケルは事も無げに言う。
「心配ない。オレは思い出した日から、お前のことを一日たりと忘れたことはなかったから、出会いさえすれば、お前が思い出すまで粘ってみせたさ」
「お前……そんなに執念深い男だったか……いや、そうだったな」
「そうさ」
Fin.