恋とは狂気である さっきまで目が離せなかったのに、今は顔を見るのが怖い。だって、初めて彼にキスをした。背中の糸屑を取ろうとしただけなのに、間近で彼の口元を見てしまったらもう、迷いより体が先に動いてしまった。
仮面にぶつからないように顔を傾けて、見たまんま薄くて、思ってたより温かい唇に三秒ほど触れた。子供でもできる幼稚なキスだと思う。けど、キスはキスだ。抵抗はされなかった。ポジティブに捉えてもいいのかわからなくて、俯いたまま指先の糸屑を見ていた。朱色の糸屑。彼には馴染みのない色。どうして付いてたのかは分からない。
「——やっとか」
「え?」
顔を上げようとした。けど、急に彼に頭を押さえられて動けなくなる。
「フン、何もしてこないから、てっきり正気に戻ったのかと思ったが。俺様の予測が甘かったな」
「……正気?」
どういうことだろう?
気になる言葉と共に頭がふっと軽くなった。離れた手が名残惜しくて顔を上げると、彼の仮面と視線が合う。どうしてだか、少しだけ笑っているように思えた。
「君にも分かるように簡潔に言うと、恋とは狂気だ」
「狂気……狂ってるってこと、ですか?」
もしかして『お前は狂ってる』と暗に指摘されたんだろうか? でも、別に不快感は無い。だって、事実俺は恋をしている。あの日彼に想いを伝える前から今この瞬間もずっと狂ってると云うなら、別にそれでいい。
「俺、狂っててもいいです」
真剣に伝えたつもりだった。彼は俺の言葉に少しだけ間を置いた後、口角を上げて、
「俺様も、どうやら狂っている」
と、静かに言った。それを聞いた瞬間、俺は衝動的に彼の手を取った。心臓が、今にも飛び出そうにバクバクした。抵抗も無いまま、彼の指先が少し震える。
でも、掌の中で細い指同士が軋んだ瞬間、俺はサッと血の気が引いて慌てて手を離した。
「……あ、あのっ、す、すいません、俺——」
やっぱり、ダメだった。
いつもそうだ。さっきだってずっと息を殺してた。幼稚なキスのその先なんて無理だ。俺が欲求のままに暴走したら、きっと彼を傷つける。それが怖くて堪らないんだ。
「……おい、泣くな。痛いのはこっちだ」
「!……」
目尻を、吸われた。さっきと同じ、思ったより温かい唇が俺の頬を掠めていく。
もしかして、これは彼なりのキスなんだろうか?
(抱きしめたい)
でも、やっぱり無理だ。一瞬彼の白衣を掴みかけたその手を、そのまま力無く下ろした。さっきの朱色の糸屑が、床に落ちていくのが見えた。
「……なんだ、怖いのか」
「怖いです」
意気地の無い俺を見透かす言葉。でも、責められてないのはわかる。だって今、俺の頭を撫でてくれてる彼の手は、気のせいじゃ無くとても優しい。
子供扱いとかペット扱いとかそんなことじゃなくて、多分彼にこうされることには、大きな意味がある。
「サテツ君」
「……はい、ヨモツザカさん」
「——もう一度、狂気に身を任せてみろ」
さっきよりもっと近い距離で、彼の口がそう告げた。
唇が僅かに開いて、口の奥が見えそうで見えなくて、一瞬で釘付けになったそこに、顔を傾けてもう一度唇を押し当てた。
彼と俺との唇の隙間がとうとう無くなった時、さっきまで二人で飲んでいたコーヒーの苦味を舌に感じた。
今日から、コーヒーを飲むたびこの瞬間を思い出してたまらない気分になるんだろうな。
彼も、そうだったらいいのに。