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    お箸で摘む程度

    @opw084

    キャプション頭に登場人物/CPを表記しています。
    恋愛解釈は一切していません。

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    お箸で摘む程度

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    ビームス兄弟
    ナイプ24話でタイムマシンが修復せず、タイムパラドックスが起きてしまった世界線のif小説。リトル・フェイスがフェイスになり、フェイスがフェイスでなくなるまでの七日間の兄弟のお話。
    決して明るい話ではありませんが兄弟間の感情の大きさについて考えています。

    ##ビームス兄弟

    one no named 張り詰めた空気の糸を、低い溜息のような音が揺らした。ぴんと張った空間に振動は波の如く伝播して、そしてそれこそが、答えだった。鉄塊は動かなかった。溜息はきっと、それを最後に生命が尽きた音だったんだろう。博士がマシンに近づいて、扉に手を掛けると、頑丈そうに見えたのにあっけないほど簡単に開く。オスカーが小さく息を呑む。

    「お兄ちゃん、おれ、おうちに帰りたい……」

     色褪せた写真から、存在したはずの過去は消えていた。



    one no named



     この世から、俺の存在は無くなった。これを一日目とする。
     沈黙のタイムマシンから再び顔を出したリトル・フェイスは、彼こそが、この世のフェイス・ビームスだった。過去に帰るはずだった彼は、帰る家をこの世に知っていた。兄をこの世に知っていた。戸籍上、フェイス・ビームスとして、七年前の二月十四日を生年月日に記されている。二十年前の記録はもう、どこにも見当たらない。

    「タイムパラドックスが、現実になっちゃったんだ」

     ブラジルの蝶の羽ばたきが、テキサスに竜巻を引き起こした。虚構が真実に成り代わり、俺は偽物に成り下がった。
     それでもあまり動揺しなかったのは、いつからか、俺の中にその予感があったからかもしれない。リトル・フェイスは元の時点に帰れないということ。楽観的な周囲に疑問を感じ続けていた俺は、その時にはもう、分かっていたのかもしれない。自分自身だったからこそ、そうだ。リトル・フェイスは元の時点に帰れない。そして、そうなれば俺は、存在できなくなる。その覚悟が、できていた。

    「ホラ、寝るよ」
     けれど、俺の心理だとかそんなことは最早、どうだって良かった。考えたところで、究明したところで、俺はもうフェイス・ビームスでは居られない。明日‟自宅”に帰るリトル・フェイスは、いそいそと俺の布団に潜り込んでくる。

    「良い子。おやすみ」
    「うん、おやすみなさい……」

     俺はこの子に何と呼ばれていたか、思い出すことができない。







    二日目

     俺とブラッドは車に乗って、リトル・フェイスを実家まで送り届けた。出迎えた母さんの足に飛びついた子どもらしい姿を見て、あぁ帰れて良かったな、と、ごく自然にそう思う。
    「忙しいのにありがとう、ブラッド。――そちらの方もね」
     けれど、母さんにはもう、俺を息子だと捉えることは出来ないらしかった。よそいきの笑顔を向けられて、俺は頭を鈍器で殴られたような衝撃を得た。

    「……少し時間があるから寄っていこう。荷物を持っていく」
    「ええ、そうしなさい。お茶を淹れるわね」
     ブラッドは目配せをして、言葉の出ない俺を家に引き入れる。少し埃っぽい部屋は、知らない匂いがした。


    「フェイス、これはお前のものか?」
    「ううん、違うよ? こっちはおれのだけどね!」
     俺の自室だった部屋にあるものは、この世界ではリトル・フェイスのものであろうが、彼の年齢が届かない時期に手に入れたものは、どうやら俺のものであるらしい。
    「……きっと、もうここへは戻って来られないだろう。手元に欲しいものは持って行け」
    「うん……」

     俺の部屋だったはずなのに、俺のものだとは思えないものもたくさんある。ブラッドに言われて俺は、まだ俺のものだと分かるもの、数枚のレコードと楽譜、いくつかのがらくたを手に取った。ブラッドも何故かリトル・フェイスに所有を尋ねながら、自分の荷物を手にしたらしい。


    「お邪魔しました」
     仕事を理由にお茶を断り、振り返りもせず家を出た。母だった人は礼儀を重んじる人だから、愛する次男を送り届けた俺は、けれど、良い印象は残せなかっただろう。そんな別れだった。タワーに戻るブラッドの助手席で、少しだけ涙が出た。







    三日目

     ふとした瞬間、俺は一体何をしているんだろうと考える。白い廊下で立ち止まって、しばらく考えを巡らせて、そうだ、俺は【HELIOS】のヒーローだ、と気づく。それから、もう俺はその立場に無いんだ、と思い出す。そんなことを何度も繰り返して、そのたびにやるせなさが胸を覆った。
     別に、特段努力を尽くして生きてきたわけじゃない。ヒーローの立場も、やっと手にした栄光だとか、これから名声を重ねていこうとか、そんな風に考えていたわけでもない。のらりくらりと生きてきた二十年だ。そう考えれば、もしもヒーローが一人消えていなくなる運命だったなら、それが俺で良かったのかもしれないとも思う。
     けれど、やっと楽しくなってきたこともある。胸を覆い続けた暗雲も、やっと晴れ間の兆しを見せてきた。兄なしにヒーローとしての自分の意義を見出せそうなところだったし、ブラッドとの関係もまた動き出せそうな気配がしていた。だから当然、悔しい。いつの間にか、十三期のシフト表から俺の名前は消えていた。俺の、名前は――

    「フェイス」

     無音の廊下に突然声が響いて、俺は知れず伏せていた顔を上げる。……ブラッドが、こちらを見ていた。俺に話しかけたのだろうか。
    「何……?」
    「大丈夫か、顔色が悪いぞ」
    「あー……、まあ、特に何も無いけど」
    「それなら少し来い」
     ブラッドは自分が顔を出した部屋にまた引っ込んだので、言われるまま付いていく。日当たりの良いリビングからさらに扉を潜って、ブラッドの部屋と思われる場所に入った。整然としているのに、何故か不自然に家具をシーツが覆っている。

    「今日からお前はここで生活しろ。そちらのスペースを使っていい」
    「え? そっちって、ええと……オスカーの部屋じゃないの」
    「ああ、オスカーはしばらくウエストセクターでディノの補佐をすることになった。家具はお前が使ってもいいと許可を得ている」
    「……何でディノの補佐を?」

     妙なトレーニング器具を避けてベッドに座る。棚を挟んで、ブラッドの表情はよく見えない。
    「ウエストセクターは三人しかいないので、今期の体制にはイレギュラーが多い。そういうことになっている」


     知らない匂いに包まれて、眠気を呼ぶのが難しい。耳を澄ませば静寂の中にブラッドの寝息がかすかに聞こえて、その一定のリズムは波のように、俺をどこか安心させた。
     今日は感情を揺さぶってばかりで、疲れているはずなのに。そう考えて目を閉じたけれど、どうして俺はそんなにも情緒不安定だったのか、その理由は、眠りに就くまでの長い時間をかけて記憶を浚っても、ついぞ思い出すことはできなかった。







    四日目

     朝目が覚めると、知らない場所にいた。俺は一体、どこで眠りに就いたんだっけ。寝起きのぼんやりした頭が冴える前に、棚を挟んだ向こう側に人影があることに気付く。身体を起こすと、影はこちらを振り返った。

    「起きたか」
    「うん……、ここって……」
    「ここは、俺とオスカーの部屋だ。フェイス、お前は昨日からここで生活している」

     それからブラッドは、俺の身辺のことを簡潔に、けれど懇切丁寧に、説明してくれた。ここはヒーローが住まうエリオスタワーの居住区で、俺はヒーローだったけれど今はもうそうではなくて、空いているオスカーの部屋に招き入れられたのだ。そういえばそうだった。過去から来たはずの俺が現在のフェイスになったから、現在のフェイスだった俺はフェイスではなくなるのだ。そう考えて昨日はいちいち落ち込んでいたのだけれど、今は何だかそんな気も起らなかった。

    「うん、大体思い出した。……ありがと」
    「ああ。俺は職務があるからもう行く。この部屋とリビングは自由に使え」
    「……分かった」

     ブラッドはさっさと出ていって、部屋には俺だけが取り残された。ふと時計を見るともう昼近い時刻だったが、ブラッドは俺が起きるまで待っていたのだろうか。


     その日はずっと、リビングのソファで日に当たって過ごした。自分のことも自分が置かれた環境もよく分からなかったが、好きな音楽はすぐに思い出されて、自分のライブラリを聴いたり新たな発見が無いかランキングを漁ったりした。

     遅い昼食を終えた後くらいに、部屋にドタドタと赤毛の少年が入ってきた。彼は騒がしくあちらこちらと駆け回っていたけれど、その後に着いてきたブラッドに一喝されてすごすごと出ていった。何だったんだと怪訝な目を向ければ、ブラッドは少し困った顔をして、夜は二人部屋の方にいろ、と告げた。
     それからまた少し時間が経って、今度は金髪の青年が入ってきた。彼は俺に気付くと一瞬立ち止まって会釈をし、俺もつられて頭を下げると、すぐ脇を通過した彼の袖口から花と草いきれの匂いがして、それに引っ張られるようにして突然、彼がウィルであると思い至った。

    「ウィル」
    「あぁ、ビックリした。いらっしゃい」

     彼は飲み物を取りに来たらしい。自分はスポーツドリンクのペットボトルを取って、俺にアイスティーを注いでくれた。手を振って去っていったウィルは、そういえばブラッドと同じチームで、そうすると先程の赤毛もチームの一員だったのだろうか。


     人間が記憶を失う順番は、嗅覚が一番最後であると、どこかで聞いたことがある。匂いがトリガーになって、ウィルのことを思い出したんだろう。
     夜、ベッドに入ると、まだ慣れない匂いがする。けれど、その中に微かに感じる香りから、オスカーのことを思い出した。

     ちなみに、一番最初に失う記憶は、聴覚だそうだ。でも、耳に届く寝息の持ち主のことは、まだ、覚えている。







    五日目

     朝目が覚めると、知らない場所にいた。俺は一体、どこで眠りに就いたんだっけ。寝起きのぼんやりした頭が冴える前に、棚を挟んだ向こう側に人影があることに気付く。身体を起こすと、影はこちらを振り返った。

    「起きたか」
    「うん……、ここって……」
    「ここは、俺とオスカーの部屋だ。フェイス、お前は一昨日からここで生活している」

     それからその人は、俺の身辺のことを簡潔に、けれど懇切丁寧に、説明してくれた。ここはヒーローが住まうエリオスタワーの居住区で、俺はヒーローだったけれど今はもうそうではなくて、空いているこの部屋に招き入れられたのだ。過去から来たはずの俺が現在のフェイスになったから、現在のフェイスだった俺はフェイスではなくなるらしい。そんなことを言われても、いまいち何が何だか分からない。釈然としない顔をしている俺に、彼、――ブラッドは理解を急かそうとはしなかった。

    「とりあえず顔を洗って、コーヒーでも飲め。俺も今日は休みだから、好きにしていればいい」


     その日はずっと、リビングのソファで日に当たって過ごした。ブラッドは向かい側に座って、休みだと言ったわりには書類めいたものをとっかえひっかえしながら、何やらずっと作業をしていた。

    「お~い、持ってきてやったぞ。もう俺はこれで終わりでいいよな?」
    「ブラッド! 悪いんだけど、これだけちょっと確認してくれないか? お願い!」
    「オイ、メンターリーダーに用だって、人が来てる。まったく、なんでボクがこんなこと……」

     ブラッドの元にはしょっちゅう人がやって来て、その度にブラッドは俺に知っているかどうか訊いてきたけれど、あいにく誰の顔にも見覚えは無かった。向こうも向こうで知らないようだったが、ブラッドの話から考えるに、元々俺と彼らは仕事仲間だったのだろう。分からないと答える度に、ブラッドは複雑そうな表情をして、そうか、と短く言った。


     けれど、考えてみれば、他の人はもうすっかり俺のことを忘れているというのに、ブラッドだけは俺のことを覚えている。俺自身、寝起きにはブラッドの記憶もぼんやりしていたというのに。

    「……ブラッドは、何で俺のこと、覚えてるの?」
     そう尋ねると、ブラッドは少しだけ微笑んで、言った。

    「それは、俺がお前の兄だからだ」







    六日目

     朝目が覚めると、知らない場所にいた。俺は一体、どこで眠りに就いたんだっけ。いや、そんなことはどうでもいい、自分の場所に帰らないと、と思った。周辺を見回して、棚を挟んだ向こう側に人影があることに気付く。身体を起こすと、影はこちらを振り返った。

    「起きたか」
    「うん、いや、俺……帰らなきゃ」
    「……そうか」

     その人は、俺の身辺のことを簡潔に、けれど懇切丁寧に、説明してくれた。けれど、語られることの全てが、俺にはちっとも理解できなかった。否、理解はできるけれど、ちっとも実感が湧いてこない。客観的な俺の状況は置いておいて、目の前にいるこの人、ブラッドは俺の兄で、俺の名前はフェイス。それだけは何となく分かった。


    「――サブスタンスとかの影響は特に無さそう。至って普通の健康体だよ」
    「そうか。すまない、時間を取らせてしまった」
     俺はブラッドに連れられて、何やら病院めいたフロアで診察めいたものを受けさせられた。よれよれの白衣を着た黒髪の男が俺の周辺にさまざまな機械を宛がって、何やら大仰そうな雰囲気だったけれど、結果は普通の健康体。去り際に、診察をした男は心配そうな目でブラッドを見た。

    「ブラッドくん、ちゃんと寝てる? 大丈夫?」
    「ああ、問題ない。博士もきちんと休養を摂ってくれ」

     ブラッドと博士と呼ばれた人との間には面識があったのだろうが、きっと、見覚えの無い健康体の俺を突然連れてきたものだから心配したんだろう。俺だって、何故ブラッドがそんなことをするのか、分からない。


     ブラッドは俺を連れて、今度は元いたフロアの違う部屋へ入っていった。目にうるさいポップな部屋から、また違った意味で騒がしい部屋へと入る。髪も瞳もツートンカラーの少年が怪訝そうにこちらを見ている。朝目覚めた部屋と同じように区画された部屋の左側に、ブラッドは俺を導いた。

    「帰るのだろう」
    「そ、そうだけど」
    「ここには、お前の私物がある。お前が必要だと思うものは、ここから持って行け」

     そう言われて見渡すと、白を基調とした部屋には確かに、俺のものだと思われるものが置いてあった。薄型のノートパソコン、ラックに仕舞われたレコード。オーディオ機器類も自分のものであると思ったが、帰るのに必要は無いと思って放置することにした。


     こうして見れば確かに俺のものがいろいろとあるが、言われなければ全く忘れて、思い出しもしなかっただろう。それに、ブラッドの話と周りの反応とを踏まえれば、他の人はもうすっかり俺のことを忘れているというのに、ブラッドだけは俺のことを覚えている。俺自身、今もブラッドの記憶はぼんやりしているというのに。

    「……ブラッドは、何で俺のこと、覚えてるの?」
     そう尋ねると、ブラッドは少しだけ微笑んで、言った。

    「それは、俺がお前の兄だからだ」







    七日目

     朝目が覚めると、知らない場所にいた。俺は一体、どこで眠りに就いたんだっけ。いや、そんなことはどうでもいい、自分の場所に帰らないと、と思った。早く帰らなくちゃ、と焦燥感まで湧いてくる。棚を挟んだ向こう側に人影があることに気付いて、身体を起こすと、影はこちらを振り返った。

    「あの!」
    「……起きたか」
    「俺、帰らなきゃ」
    「……そうか」

     その人は、俺をじっと見下ろした。整った顔の表情は硬くて、どこか冷たい印象を受ける。その人は声音まで氷のように、俺に短く質問をした。
    「お前は、誰だ」
    「……分からない」
    「俺が誰だか分かるか」
    「……分からない」
    「どこに帰るんだ」
    「……分からない。でも、帰らなきゃ」

     俺は立ち上がると、さっと身なりを整えて、ベッドの脇に置いてある鞄を引っ掴み、足を踏み出そうとした。自分が誰なのか、この人が誰なのか、どこに帰るのか、何もかもさっぱり分からない。けれど、何の疑問も不安も無くて、とにかく俺は、ここから出ていかなければならなかった。


     それなのに、部屋を出ようとしたその瞬間、その人の声が俺を呼び止めた。

    「    」

     その音の意味を、俺は理解できなかった。遠い外国の知らない言語で話し掛けられたかのようだった。でも、その音は俺のことを意味していると、俺の心のどこかがそう気づいて、俺の足は勝手に止まった。

    「……何?」
    「どうしても行くのか、    」
    「……うん、行かなくちゃ、俺」

     その人の鉄面皮は、少しだけ歪んでいる。それを見て、俺は抗いようもなく心が痛むのを感じた。何故だかはわからない。けれど心臓が締め付けられるかのようだった。
     その人はデスクの横に掛けられた鞄から、その立派な革製の鞄やきっちりとした部屋の様相、またはその人自身の潔癖な出で立ちには全く似合わない、くたびれた布を取り出した。
     よく見ればそれは、小さなうさぎのぬいぐるみだった。

    「    、このうさぎのぬいぐるみの名前は?」

     その質問に、俺は固まった。尋ねられて、その答えを自分の中に探そうとすると、わけもなく、理由もわからず、俺の胸が悲鳴を上げる。もう十五、六年は経っていそうな、ハリの無い薄汚れたぬいぐるみ。そのつぶらな瞳はまっすぐに‟    ”を向いている。俺自身にも捉えられない俺の姿を捉えている。それは、この人も同じだった。俺にも、誰にも見えない    の姿を、彼とこのうさぎのぬいぐるみだけは、見ることができているように感じられた。
     けれど、うさぎのぬいぐるみの名前も、それを尋ねた彼の名前も、俺は切なく痛む心に耐えながら必死で探したけれど、どうしたって、見つけることができなかった。

    「分からない……」


     いつの間にか、俺の瞳からは涙が溢れていた。何が辛いのか、何が痛いのか、全く分からなかったけれど、辛くて痛くて、俺は泣いた。

    「そうか」
     その人は短く言って、口を噤む。一瞬の沈黙の後、すぐにその人は言葉を継いだ。
    「分からないのなら、今は仕方がない。だが、忘れてしまったわけではないだろう」
    「え……」

     涙を拭ってみたけれど、その人の顔を、うまく捉えることができない。その人の言葉も、うまく理解することができない。けれど、理解はできなくとも、その人の声は、俺の中に深く沁み込んだ。


    「いつか、名前を思い出したら、その時は俺のところに来い」
    「……なんで?」

     そう告げる声があまりにも優しくて、俺の心にわけもなく痛くて、俺は思わず尋ね返した。子どものような俺の問いかけに、    は少しだけ微笑んで、言った。

    「それは、俺がお前の だからだ」



     俺は俺を失って、その場所を出た。俺は地上に降り立つと、早朝の雑踏の中に紛れて、そうして誰になることもなく、俺という存在は消えていった。

     人間が一番最初に失う記憶は、聴覚だそうだ。でも、あの人の声は、問いは、きっと忘れられることはない。俺が全てを忘れてしまっても、いつか名前を思い出したらと、その言葉を、俺は覚えている。
     ずっと大好きな    の、その声を、俺は覚えている。




    one no named fin.
     
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    お箸で摘む程度

    TRAINING研究部
    感覚からヴィクターを想起してみるノヴァのお話。
    move movement poetry 自動じゃないドアを開ける力すら、もうおれには残っていないかもなぁ、なんて思ったけれど、身体ごと押すドアの冷たさが白衣を伝わってくるころ、ガコン、と鉄製の板は動いた。密閉式のそれも空気が通り抜けてしまいさえすれば、空間をつなげて、屋上は午後の陽のなかに明るい。ちょっと気後れするような風景の中に、おれは入ってゆく。出てゆく、の方が正しいのかもしれない。太陽を一体、いつぶりに見ただろう。外の空気を、風を、いつぶりに感じただろう。
     屋上は地平よりもはるか高く、どんなに鋭い音も秒速三四〇メートルを駆ける間に広がり散っていってしまう。地上の喧噪がうそみたいに、のどかだった。夏の盛りをすぎて、きっとそのときよりも生きやすくなっただろう花が、やさしい風に揺れている。いろんな色だなぁ。そんな感想しか持てない自分に苦笑いが漏れた。まあ、分かるよ、維管束で根から吸い上げた水を葉に運んでは光合成をおこなう様子だとか、クロロフィルやカロテノイド、ベタレインが可視光を反射する様子だとか、そういうのをレントゲン写真みたく目の前の現実に重ね合わせて。でも、そういうことじゃなくて、こんなにも忙しいときに、おれがこんなところに来たのは、今はいないいつかのヴィクの姿を、不意に思い出したからだった。
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