【ココイヌWebオンリー展示】小説「ある外商の記憶」 私はとある百貨店の外商として四十年以上勤めて参りました。昨年定年を迎え退職したのですが、今日はその中でも一番記憶に残っているお客様のお話を致します。
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そのお客様との出会いは今から十三年ほど前になります。その方はとある企業の社長様で、私共の百貨店の新しいVIP会員になられたばかりでした。これまでもVIPルームでのおもてなしはあったのですが、その日は初めてその方のお宅に招かれました。時期は九月の末頃で、道中金木犀の香りが漂っていたことを覚えています。都心にある高層マンションの最上階がその方のお住まいでした。広い部屋にはお一人でお住まいのようでした。ソファに着席を促され、短い挨拶を済ませると、早速持ってきたものを見せてほしいと言われました。
その方の御所望の品はハイヒールでした。
ただ他のお客様と少し勝手が違ったのは、そのサイズが一般的な女性向けよりもかなり大きい、という点でした。
いつもこのお方は買い物されるとき、饒舌に世間話をして下さいます。そして特に迷わず、少し見ただけで即決される。時計や宝石、鞄など、これまでたくさんお求め頂きました。しかしこの日はいつもとは違いました。
事前にお伺いしていたいくつかのブランドのハイヒールを並べると、その方はひとつひとつ手に取り熱心に吟味されました。何も話さず、ひとつ手に取るとまるで誰かが履いている姿を想像しているようでした。随分と悩まれた後、一足選びご購入を決断されました。普通、贈り物を購入される男性というのは、渡す時の期待感や経済力の誇示で満足気な表情をされます。ですがその方の表情は寂し気で、その日は終始口数が少ないままでした。
そしてこの時から毎年、同じ時期にハイヒールの購入を続けられました。二度目の年に、「昨年のお靴はお気に召して頂けましたでしょうか?」とお尋ねしたところ、「さぁ、どうだろう」と切ない笑顔を浮かべていました。その笑顔を見てから、私は年に一度のハイヒールについては深く追求しないことに決めました。
それから私の定年退職の日が決まり、これで最後になるという十三年目の秋のことでした。その方はこの十三年間で何度も住居を変え、これまでで最も大きなマンションに住んでいらっしゃいました。部屋に足を踏み入れた瞬間、私はいつもと違うことに気がつきました。客間に通されるとそこにもう一人いらっしゃったのです。窓際に立つその男性は私が来ると振り返りました。とても、とても美しい金髪の男性でした。顔に大きな痣があったのですが、それすらも魅力的に見えるほど整った容姿をしておりました。私が隣に立つお客様の様子を伺うと、目を細め、眩しそうに窓際の方を見つめていらっしゃいました。
「どれがいい?」
お客様は並べられたハイヒールを指して金髪の男性へと薦めました。
「もうヒールなんて履かねえけど」
男性は少し呆れたように、でも笑ってお客様へ声をかけました。
「いいんだ、俺が贈りたいだけだ」
お客様の声は、私が聞いたことのない優しい声でした。
「履いてみろよ」
ソファに座る男性の足元に跪き、お客様は靴をそっと履かせようとしました。「私が……」と言いかけたところでお客様に静止され、私は黙って見ておりました。
顔を見合わせて微笑み合うお二人は、まるで少年のようでした。
「これにする」
金髪の男性が決めたその靴を、お客様は購入されました。その表情は穏やかで、私がずっと見たかった表情でした。
「やっとご満足頂けたようで何よりです」
思わず出てしまったその言葉に、その方は笑っておりました。
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数ヶ月後に引き継ぎの挨拶をして私は定年を迎えました。しかしそれからしばらく経つと新たな担当者から、かのお客様が音信不通になった、と聞きました。私も連絡を試みたのですが、連絡を取ることは叶いませんでした。
テレビのニュースでは連日巨大犯罪組織の解体について報じられ、百貨店でも反社会勢力との繋がりは厳しくチェックがされるようになってきておりました。あのお客様が何者であったか、私には分かりませんが、どこかで幸せに暮らしていらっしゃることを祈るばかりです。最後にあの笑顔を見られたことは、私の一番の思い出になっております。
終