できることとできないこと『来週金曜、ゼミ飲みです』
午前中は私用を済ます暇がなく、昼食の定食屋(沢庵マシマシに対応してくれる)でスマホを開いてメッセージアプリを見た。斎藤からのスタンプは、小動物が壁の陰からこちらをうかがっているものだ。
ハテナマークを浮かべて首を傾げるうさぎのスタンプを送ると、
『メンバーの半数は女の子です』
『そりゃそうだ』
俺の母校だから、文学部の女子の多さはよく知っている。
『僕、実は女子人気高いんですよ。同級生よりも落ち着いてるって言われて』
『結構じゃねぇか』
嫌われるよりずっといい。そう思って送ったメッセージがお気に召さなかったようだ。唐揚げを平らげるまでの間沈黙していたスマホが、不穏に震えた。
『俺には嫉妬する価値もない?』
一人称のチェンジとタメ口は、俺をこじらせた時のわかりやすいサインだ。味噌汁を飲み終える間に、二の矢が来た。
『そんなとこ行くなって言わないの?』
『別に言う理由がねぇ』
定食屋の入口から、外の行列が見えた。会計を済ませて店を出て、チェーン系カフェでブレンドを頼んで喫煙席に落ち着く。この会話は長引くかもしれない。
『ゼミ飲みなんだろ? 話せるやつは多い方がいい』
『行くなって言ってよ』
直截(ちょくせつ)な言葉で、斎藤の意図はわかった。しかし俺には年長者としての責任がある。
『お前の人生を俺で縛れねぇよ』
『縛ってよ!』
メッセージなのに、鋭い声が聞こえた気がした。
『俺はあんたに縛られたいのに、あんたに人生めちゃくちゃにされたいのに』
『そんなわけにはいかねぇ』
ファム・ファタール気取りの同級生ならともかく、十近くも歳の差があるのだ。そうそう人生を狂わせてたまるか。親御さんに合わせる顔がなくなる。
『……あんた、俺のことなんて好きじゃないんだ。俺が誰と何しても、あんたには関係ないんだ』
俺は財布とスマホだけ持って店を出て、物陰で通話ボタンを押した。
『……もしもし』
今にも泣きそうな酷い声が、スピーカー越しに聞こえた。
「よく聞けよ」
斎藤は俺の声が好きだと言っていた。一言で俺の意図がわかるよう、喉に力を込める。
「好きでもねぇやつにあんなことさせるか」
今も、ワイシャツの下には三日も前の情事の痕跡がある。ベッドでの好き勝手を許す程度には絆(ほだ)されているのだ。
しかし斎藤が欲しがっていたのは、愛の告白ではなかった。
『元カノの話、してなかったですよね。酷い子に当たって、一時間ごとにどこにいるか誰といるか報告させられて……二ヶ月で別れたんですけど。そん時はほんとうっとうしいなとしか思わなかったんだけど』
耳許で聞こえた息継ぎに、背筋が震えた。昼間なのに、外なのに。
『あんたにはそうされたいとか……考えちゃうんだ』
「俺にはできねぇ」
他を当たってくれ、という言葉はなんとか抑え込んだ。
斎藤は、
『……もういい。鬼』
と通話を切った。すぐにメッセージが飛んできて、
『鬼とはしばらく口利きたくない』
俺はカフェの店内に戻って、ジャケットから煙草を取り出して火を点けた。煙を肺に行き渡らせて、吐く。
恋で得られる莫大な多幸感に、斎藤は浸っている。俺にもそれを浴(よく)させようと、常に俺のシャツの裾を引っ張っている。
俺もそれを味わえればどれだけいいか。
いっそ別れれば、これ以上斎藤を惑わせ、苦しめることもなくなるだろうか。
しかし。
俺の一挙一動でくるくる変わる表情が可愛い。と思えば、夜はまるきり雄の顔をする。そのギャップ。
何よりも、未熟ながら俺をいたわり、気遣い、包み込もうとする心根を、もっと見ていたいと思ってしまっている。
年長者としての責任と、恋する男としての放縦(ほうしょう)さ。
どうすれば、それが斎藤に伝わるだろうか。
仕事用のスマホのメッセージアプリに、後輩からの通知が来た。顧客の担当者が、折り返しの通話を求めているという。
マグカップと灰皿を返却口に置いて、店を出た。
頭を仕事モードに戻さなければと思うのだが、どうしても小さなしこりが残ってしまっている。
なんとか大きな失敗だけは避けよう、と思う辺り、俺にはしこりをつぶして斎藤と別れるつもりなどまったくないのだ。