結膜炎と出来心 金曜日の夜。部屋着で僕を迎え入れてくれた土方さんに、ちょっとした違和感があった。
目が赤い。虹彩が赤いのはいつも通りなのだけれど、白目まで血走っている。
僕の視線に気づいたのか、土方さんはお手本のように綺麗なウインクを飛ばしてきた。
「この目か」
僕はうなずく。
「目がかゆくてかすんで、眼科に行った。ドライアイと目の傷が引き金になった結膜炎だそうだ」
土方さんの仕事は企画系だ。各種販促の現場を奔走することもあるけれど、段取りが八割という言葉もあるように、資料作りなどのためのデスクワークも多い。
そうなるとパソコン画面とにらめっこする時間が増える。普段から裸眼で過ごす土方さんでも、消耗したのだろう。
二人揃ってこたつに入る。どことなく、土方さんの目はしょぼしょぼしている。
「僕の顔、見えます?」
「今は大丈夫だ、目薬差したからな。ただ、昨日は酷かった。太陽光が目に刺さるわパソコン画面もろくろく見られないわ。眼科に行ったらよく効く目薬もらったんだが、これがしみる」
「どれくらいですか」
「灯り落とした寝室で、しみすぎて三十分涙流しながら横になるしかできなかった」
「それは……」
大変だったとしか言いようがない。セックスの時以外僕に弱みを見せない土方さんがここまで言うのだから、相当の苦しみだったのだろう。メッセージアプリの返信が遅かったのもしかたない。
「僕にできることってあります?」
「とりあえず、今のところはねぇ。昨日一時間に一回点眼したら、傷が治って少しましになった」
――ちょっとすまねぇな、と言って、土方さんはこたつ板の上にあった目薬を手に取る。
「目薬差す」
「はい」
僕に許しを乞うたわけではないだろうけれど、土方さんは遮光袋から取り出した目薬のキャップを外して、上を向いて両目に点眼する。いてっ、とうめきが漏れる。
閉じた目から薬液を流す土方さんは、手探りで何かを探す素振りを見せた。
僕はティッシュの箱を土方さんの手に触れさせた。予想は当たったようで、土方さんは箱から二枚のティッシュを引っ張り出して、削げた頬を伝う薬液を拭き取った。
土方さんは目を閉じたままだ。薬液を目に馴染ませるためには、一分ほどはまぶたを開いてはならないと聞いたことがある。
改めて、土方さんを見る。
赤い瞳が放つとんでもない眼力は魅力的だけれど、土方さんの印象をきついものにしてしまうという欠点もある。
その赤い瞳が隠れると、余計に素の顔のよさが際立つ。
長すぎるまつ毛、通った鼻筋、薄い唇、削げた頬。まるで芸術品だ。部品のひとつひとつは繊細なのに、組み合わされることで野趣が生まれる。このデザインをした神様のセンスに、僕は毎日感謝している。
よくよく見ると、炎症のせいだろうか、目尻が赤い。閉じた目からこぼれ落ちる薬液が、まるでベッドの中のような印象を僕に与える。
僕はごく自然にこたつ板へ身を乗り出し、土方さんにキスをした。
暗闇の中、突然唇に唇を押しつけられた土方さんは、びくりと肩を震わせる。その初々しい反応に、僕は思わず相好を崩す。
けれど次の瞬間、赤い目を開けた土方さんは後ずさって僕の頭頂部にチョップをしてきた。痛い。
頭を押さえる僕に、土方さんは呆れたような表情を向ける。
「いつでもどこでも盛りやがって。目薬差す俺に欲情したなんて、笑えねぇぞ」
冷静になると、自分の短慮が恥ずかしくなってきた。初めて自慰を覚えた中学生じゃないんだから。
「ごめんなさい……」
「罰として、今日のセックスはなしだ」
「そんな!」
顔を近づけて泣きつく僕を、土方さんはうっとうしげに押しのける。
「それだけは……後生ですから」
「ほぉ」
土方さんは、形のいい眉をひそめる。
「他人(ひと)のことをさんざん身体目当てじゃないかとか言ってきたはじめちゃんこそ、身体目当てだったんだな」
「そんなこと――!」
取り乱す僕に、薄い唇は愉しげに歪められる。
あ、これ、意地悪だ。からかわれている、と気づく。
けれどその原因を作ったのは間違いなく僕だ。完全に意地悪のみというわけではなく、しつけの意味も込められているだろう。
「はじめちゃんは身体目当てか?」
「そんなこと! ないです!」
「ならこたつどけて客用布団敷いてやるから、今日はそっちで寝ろ。はじめちゃんは無敵だから耐えられるよな?」
今日はやたらと『はじめちゃん』と呼ぶ。いつもよりもさらに子供扱いするためだろう。
しかし、過剰な侮りにも、今の僕は逆らえない。
土方さんは寝室から客用布団一式を抱えてきて、僕の脇に置いた。こたつで寝ろ、と言わないのが慈悲だ。
愛されている。
そんな風に自分を慰めないと、涙が出そうだ。
出来心でせっかくのチャンスをふいにした。土方さんのニヤニヤ笑いを受け止めることもはね返すこともできず、僕はただ落ち込んだ。
その翌朝、土方さんは僕の掛け布団を引きはがしてまたがってきた。
僕へおしおきをしたはいいものの、耐えられなくて求めてしまう土方さんの可愛さに、僕はまた惚れ直した。