ココイヌ『シンプルキス』 放課後になると校門の前でRZ350にまたがった乾が待っているのはいつものことだ。
しかし今日の彼はくたびれた青いスウェットのセットアップを着ていたから、九井は驚いて目を瞬かせた。
二月に入ったばかりの冬真っただ中である。周囲では学生たちが寒風に首を竦めて下校しているのに、乾は部屋着同然の恰好でヘルメットを抱えたままぼぅっと空を見上げていた。グローブとブーツは身に着けているものの、外には何も防寒していないから細い首と刈り上げた襟足は丸見えだ。
その寒々しい恰好に、九井はブレザーの上に巻いたストールの中で嘆息する。風邪ひくっつーの、と胸中で呟きながら彼のもとへと歩いて行った。
「ココ、お疲れ」
足音に気付いたのだろう、こちらを向いた乾は相変わらずのぼんやり眼でそう言った。その声がいつも以上に眠そうに聞こえるのは、きっと彼のラフすぎる恰好のせいだ。
九井は、すぅっと目を眇めて乾を見る。
「イヌピー、珍しいカッコしてんじゃん」
「そうか? いつもこのカッコだ」
たしかに、二人のアジトに来る時の乾はその恰好だ。しかし放課後に自分を迎えにくる乾はそうではない。
いつもなら黒龍の特攻服でやってくる。あのスタイリッシュな羽織を着た乾はロシアのメンズモデルにも負けない出で立ちだから、学校でも「九井君をお迎えにくる王子様みたいな不良くん」としてそれなりに有名になっているくらいだ。
それが今はセットで3000円もしそうにない毛玉だらけの安物スウェット姿である。下校途中の女子たちも「あれ?」という顔でこちらをチラチラと窺っていた。
……イヌピーのことだからイヌピーの好きな恰好をすればいいけどな。
と、思いながらも、同級生たちにこの恰好の乾を見せるのは面白くない九井だった。
「特攻服はどーしたんだよ。そのカッコで単車乗るの寒くねぇ?」
見た目はさておき、特攻服の方が防寒に優れているはずだ。そもそも、いつもならどこへ行くにも黒龍を背負っている乾が今日は珍しい。
「あー……」
すると乾はスッと目線を逸らし、
「なんとなく」
と、答えた。
……なんだ?
その一瞬のしぐさに妙な違和感を覚える。
イヌピー、今、何か隠したか?
九井は無意識に眉をひそめた。
それについて問い詰めるかどうか逡巡した一瞬に、乾はいつもの調子を取り戻してパッとこちらを向いた。
「ココ、今から忙しいか?」
そう言われて、九井は今から予定していたスケジュールを思い出す。
だがそれは急ぎのことではないから、すぐに思考の外へ追いやった。
「別に。ヒマ」
「じゃあ」
乾が、手の中のヘルメットを寄こしてきた。
九井はそれを受け取り、かぶりながら乾の後ろでシートにまたがる。
「で、どこ行く?」
「さぁ。ココはどこに行きたい?」
「は? イヌピーがどっか行きたいから迎えに来たんじゃねーの?」
「別にそういうわけじゃねぇ」
「マジかー」
と、言いつつ、そんな予感はしていた。この幼馴染はいつも行き当たりばったりなのだ。
乾が単車のエンジンをかける。九井は乾の腰に手を回しながら行先を考えるも、いい場所は思いつかない。そもそも、どこかアテがあったなら自分が乾を誘っているだろうから、そう簡単に思い当たるわけないのだ。
乾は前を向いたまま、もう一度「なぁ、どっか行きたいとこないのか」と訊いてくる。
「んー……思いつかねぇ。イヌピーも一緒に考えて」
そう言うと、乾はわずかに首を傾げた。
かと思えば、パッとこちらを振りかえる。
「じゃあ図書館」
「……は?」
一番予想していなかった案に、九井は耳を疑った。
しかし聞き返す間もなく、乾はふたたび前を向いてエンジンをふかしはじめる。その合間に乾が「ココ、あそこ好きだろ」と呟いたのを九井は聞き逃さなかった。
「イヌピー、オレは……っ」
別にあそこが好きなわけじゃ――。
「出発」
九井が言い終わらないうちに、乾は単車のアクセルをギュンッと踏み込んだ。九井は慣性の法則に引っ張られて首をのけぞらせる。冷たい風がビュウッと頬を切り、ブレザーの中に吹き込んだ。
「寒っ!」
寒さにはそれなりに強いと自信がある九井だが、校舎から出てすぐに単車で風に吹かれるのはさすがに寒かった。少しでも風にあたる面積を減らすため、身体をかがめて乾の後ろで縮こまる。同時に、平然と運転してるイヌピーはすげぇなと思った。
と、その時、覚えのある匂いが九井の鼻を掠めた。
毛布のような、野暮ったくて妙に懐かしさを覚える匂いだ。
これ、なんの匂いだ?
九井は記憶の糸をたどってその正体を探る。
そしてカーブに備えて乾の身体に身を寄せた時に気づいた。
……あ。これ、イヌピーの家の匂いか。
かつては毎日のように遊びに行った、今はもうないあの一軒家の匂いだった。
***
昨年のクリスマス、黒龍は東京卍會に敗北し、柴大寿は第十代目総長を引退した。
それは乾の目指していた強くてかっこいい黒龍再建の夢が振り出しに戻ったことを意味していた。
その事態に九井は、乾がまた糸の切れた凧のようになってしまうのではないかと危惧していた。初代黒龍の幻影を追ってさまよい、また誰彼かまわず喧嘩をするようになってしまうのではないか。そう思っていたが、意外にも乾は次の目標をしっかりと見つけていた。
「オレは花垣武道に“初代”の面影を見た」
「アイツについていきたい」
いつになくまっすぐな目をして乾はそう話した。
乾の性格はシンプルだ。思ってもないことを口にするような人間ではないから、心からそう思ったのだろう。
九井としては、中坊相手に……という思いもあれば、あの花垣ならという思いもあったのでコメントは控えた。いずれにせよ、九井には乾の決めたことに口出しするつもりは一切ないから「なら、オレもついていくぜイヌピー」とだけ答えた。
そうして新年を迎えてすぐに黒龍は東京卍會の壱番隊の傘下に降った。
しかしそれは九井にとっては些細なことで、乾が行く先ならどこであっても関係なかったし、どんなところだろうとうまくやる自信があった。そして乾を支えていこうという野心があった。
ところが、そううまくはいかなかった。大きな誤算があったのだ。
東京卍會に身を置いてからというもの、やることがないのである。
花垣からの呼び出しもなければ、喧嘩も抗争もない。集会さえ総長マイキーの気分次第の不定期開催だから、丸一週間以上呼び出されないこともあった。
大寿のもとで黒龍の拡大に取り組んでいた時は、やることが山積みだった。練度の高い兵団を作り上げるために部下の統率、シマの見回り、資金稼ぎのための営業と仕事。あげればキリがない。夜遅くまで出歩くことは当然だったし、仕方なく学校をサボったことも何度かあった。
一方、東京卍會ではシマの見回りも金稼ぎも必要とされない。花垣に「必要な時には呼べ」と携帯電話番号を伝えた時、「じゃあ、トランプの人数が足りなかった時は電話していっすか?」と訊かれたから嫌な予感はしていたが、まさかここまで暇だとは思わなかった。
それでも一月はまだやることがあったからよかった。大寿の去った黒龍の残務処理があったし、乾も突然の方針転換に不満を抱いた構成員の後始末(つまりは喧嘩)に忙しくしていたようだった。だがそれらも二月になる頃には落ち着いてしまった。
だから最近は放課後に乾が迎えに来ることもなかったし、アジトにいても二人して何するでもなくソファの上でダラダラしているばかりだった。あのアジトは電気の通っていない廃墟同然のバイク屋跡地だから、ただ時間を潰すには寒すぎて、次第に足も遠のいた。
そんなわけで九井は久しぶりに平穏に高校へ通う毎日を過ごしていた。だから三日ぶりに乾が迎えに来てくれたのは歓迎することだったし、その行先がどこだろうとかまわなかった。
しかし、まさかあの図書館に連れていかれることになるとは予想外だった。
冬の図書館は、人気もまばらでいつも以上に静かだった。空調も暖かすぎず寒すぎないちょうど良い具合に保たれていて、居心地がいい。
九井は久々に訪れた本の匂いに包まれる空間で、机の上に経済の本を開いていた。
そして、隣の乾はバイク雑誌を積み上げて、それを枕に居眠りしていた。長いまつ毛を伏せて、くー、かー、と小さないびきを立てている。
乾がマイペースなのはいつものことだが、今回ばかりはさすがの九井も平静ではいられない。
……どこまでデジャブさせんだよっ!
九井はページを繰る手を止めて頭を抱えた。
さっきから本に集中しようと試みているが、すぐ隣で乾があどけない寝顔をさらしているのに気にならないはずがなかった。
それに、今の状況はあの時に似すぎている。図書館に誘ってきた本人が、自分の右隣に座って本を枕に眠っている。そんな状況では、本に集中できようもない。
……人の気もしらねぇで。
九井は思わずため息をこぼす。
乾はどうして図書館に来たがったのだろうか。
校門を出発する時、何か隠すようなそぶりを見せたことと言い、今日の乾には何か思惑があるのではないかと考えてしまう。
……いや、イヌピーに限ってそんなことはないか。
これまでの経験からそう答えを導き出した九井は、だからこそどうして図書館なのかと不思議に思った。
そんな九井の思考など知りもしない乾は、相変わらず小さな寝息を立てている。
九井は無防備な寝顔の頬をツンとつついた。しかし乾は何の反応も示さずに眠ったままだ。
もう、あんまり似てねぇな、と思う。
机にもたれかかる乾の身体は自分よりも大きく、肩幅も広い。顎や首のラインも、もう繊細さを感じさせない男の骨格を浮き立たせている。
あれからずいぶんと時間がたった。今年は自分もあの女性と同い年になるから、乾だって同じだ。もう、未成熟な小学生ではない。
「ん……」
乾がほんのわずかに長いまつ毛を震わせた。
そのしぐさには強い既視感がある。
……もう似てねぇけど、やっぱパーツはそっくりだな。
消えない火傷の跡はあっても、整った眉毛や厚めの瞼、色の薄い長いまつ毛は、あの日見た彼女のものと同じだ。
鼻筋は通っているのに先は丸みのある鼻も、厚すぎず薄すぎず形の良い唇も。
ふと、その唇の淵がかさついていることに気付いた。寄って見てみれば、乾燥した皮膚がわずかにめくれている。
イヌピー、ちゃんとリップ塗れよな。
と、思ったその時、
「ココ?」
青い瞳がぱちっと開いた。
「……っ」
無意識に顔を寄せていた九井は、飛び跳ねる勢いで乾から離れた。椅子がガタッと鳴って、乾が眉を顰める。
「どうした?」
「べつに、なんでもねぇ……」
九井は相手の顔を正視するなんてとてもできず、手元の本に視線を落とす。平静なていをとっているものの、体中の毛穴からは汗が噴き出し、心臓は爆発しそうなほどにバクバクと揺れていた。
乾に悟られないよう深呼吸をする。早く動悸をおさえようと努力するが、かつて犯した前科が頭を掠めてうまくいかない。本の文字なんて少しも頭に入ってこなかった。
大丈夫だ、おちつけ。このまま本を読んでたらやりすごせる。
そう自分に言い聞かせていると、乾がこちらの肩をつんつんとつついてきた。
「?」
なんだと振り返れば、乾は机の上に開かれたバイク雑誌を指差していた。しかも、二冊の雑誌を重ねて並べている。
九井はその意図を測りかねて眉根を寄せると、乾はそれぞれの雑誌の特集記事にある文字を指差した。二冊は特集記事の見出しの大文字が一つの文章に繋がって読めるように重ねられていたのだ。
そして繋げた文字をひとつずつ指差す。
“運”
“故”
「ぶっ……!」
唐突に小学生な発想のものを見せつけられて、九井はたまらずふきだした。
乾は得意げにニヤニヤしている。いつもは大して表情筋を動かさないくせに、こういう時だけは趣味悪く口角を上げて見せるから憎らしい。
不意打ちとは言え、こんなくだらないことで笑ってしまった自分が悔しい。九井は、声には出さずに「ばーか」と乾に言い放つ。
ところが乾はフンと鼻を鳴らし、また雑誌をめくって次のネタを探し始めた。
今度は絶対負けねぇと意気込む九井だったが、乾が雑誌のツーリングコース記事の上に、九井が読んでいた株の本を載せたのは予想外だった。
“均”
“多摩”
「んふっ」
思わぬ攻撃に九井はまた耐え切れずに吹き出してしまう。またまた乾がニヤリと笑った。
すると、ひときわ大きな咳払いが響いてきた。どこかの席に座っている誰かが、静かにしろと遠回しに注意してきたのだろう。
「あぁ」
乾がその咳払いの主に向かってガンを飛ばす。九井は、そんな乾の肩を叩いた。さすがに今のは自分たちが悪い。
あれこれ考えていた自分が馬鹿らしくなってきた。九井は笑いすぎてにじみ出た涙をぬぐいつつ、乾にだけ聞こえる声で提案する。
「イヌピー、別んトコ行こうぜ。オレもう真面目に本読んでられる気しねーワ」
「別んトコ?」
「オレ、小腹空いてきたから何か食いてぇ」
「いいな」
乾の眠たげな眼がきらりと輝く。
乾は表情豊かとは言えないが、目つきはとても素直でわかりやすい。いつもみたく尻尾を振っている子犬のような顔をする彼に、九井はにやりとなる。
「なに食う?」
「ラーメン」
「なら築地だな」
そう答えると、乾はよしと頷いて早速席を立ったのだった。
図書館を後にした九井たちは、今度は単車で西を目指して走った。そろそろ日が暮れようとしている頃合いだったから、西日に向かうのも単車のスピードを上げるのも過酷な状況で、二人揃って「さみぃ!」「まぶしっ!」と文句を言いながら晴海運河を渡った。
目指すは築地近くの魚介スープのラーメン屋で、前にも二人で訪れたことがある人気店だ。店はいつもなら席待ちの行列ができているのだが、今日は平日の早い時間だったから待ち時間なく席につくことができた。
乾は器を蓋するほどチャーシューが並ぶチャーシューラーメンを注文し、九井は同量のチャーシューに加えて山盛りのもやしと半熟煮卵が添えられた全部盛りを頼んだ。久しぶりに食べるラーメンは変わらぬ美味で、九井はペロリと平らげた。一杯で千円かかるが、それだけ払っても文句なしの美味さだった。ちなみに乾はまだ食べ終わっておらず、チャーシューに飽きた顔をしていたから、九井は彼の器から残りのチャーシューを引き抜いて食べてやった。
会計を済ませて外に出ると、もう日は落ちていた。気温も一段と下がったはずだが、たらふく食べて温まったばかりの九井たちは、まだ遊びに行けるなと言い合い、今度は南に向かって単車を走らせた。乾が「海に行きたい」と言い出したからだ。
そうしてしばらく、二人は工業地帯の海辺にある公園にたどり着いた。
「砂浜がねぇ!」
路肩に単車を停めた乾は、海への転落防止柵まで大股で歩いて行きながら吠えた。
そのショックを受けている乾の様子に、九井は寒さに震えつつ後ろから声をかける。
「イヌピー、ここ東京だぞ? 砂浜なんてねーよ」
たどり着いたのは、港のそばにある芝生と海沿いの遊歩道しかない簡素な公園だ。目の前に広がるのは黒々とした海、そして対岸に立ち並ぶ物流施設の明かりが生み出す美しい夜景だけで、砂浜などあるわけなかった。
しかし、海に行きたいと単車を走らせていた乾は砂浜のある海を所望していたようで、ここに来るまで何度となく「違ぇ」とか「ここじゃねぇ」と呟いていた。九井は乾の好きにさせるつもりだったが、さすがに二月の夜に上着も着ずに単車で走り続けるのは寒すぎたから、乾の耳元で「ギブ! もうギブ!」と叫んで停めてもらったのだ。
ラーメンで温まった身体は、もうすっかり冷えてしまっている。暖をとろうと両腕をさするが、ブレザーは凍ってしまったのかと思うほどに冷たい。
「イヌピー、いつもこのへん何度も走ってんだろっ」
九井が乾の横に並んで言えば、乾は呆然と海を見つめたまま「……たしかに、砂浜見たことねぇ」と呟いた。
「南に行けばなんとかなると思ってた」
その正直な物言いに、九井はフハッとふきだした。
そして、こんなに迂闊な考えでこんなに寒い中を連れまわされても、少しも怒りがわいてこない自分が可笑しかった。
隣の乾がクシュンとくしゃみをする。夜の、それも冬の海の風はひどく冷たい。それをスウェットだけで受け止めているのだから、乾の身体は相当冷えているだろう。
「ほら、風邪ひかない内に帰ろうぜ」
九井は自分の首に巻いていたストールを乾の首にかけてやる。
乾はこちらに顔を向けたものの、鼻をすすりあげるだけで動かない。
九井は嘆息し、ストールを引っ張って乾の身体を正面に向かせた。そして、しっかりと首に巻いてずり落ちないよう縛ろうとする。
「……昔、家族で砂浜のある海に行った。その時、すげぇ楽しかったからまた行きたくなった」
不意に、乾が言った。
それは――その思い出は、家族四人の思い出だとすぐにわかったから、九井はぴたりと手を止める。
「今日は楽しいことがしたかった。だから海がよかったんだ」
乾が、抑揚のない声で言う。
九井はストールに向けている視線を上に向けることができない。
彼はどんな顔をしてそう言っているのか、見ることなんてできなかった。
――なんでだ?
なぜ、乾は突然そんなことを言いだしたのか。
今までに自分たちの間でその話題を口にしたことはなかったのに……。
「ココ」
呼ばれて、九井はびくりと肩を震わせた。
海辺の寒さなど忘れて、額からじわりと汗がにじんでくる。九井はなんと答えればいいのかわからず、唇を引き結んだ。
互いが沈黙していたのは、一分にも満たない時間だっただろう。しかし九井には永遠とも思えるほど長く感じた。それだけ待っても乾が次の言葉を発することはなかった。
九井は小さく息を呑み、おそるおそる視線を上げる。
そこにはきらめく夜景を背に立つ乾の顔があって、いつもより暗く見える青の瞳がじっとこちらを見つめていた。
「今日、楽しかったか?」
それは、どういう意味なのか。
なにを求められているのか。
九井は答えを見つけられず、冷たい空気をヒュッと吸うことしかできない。
「オレは楽しかった」
わずか数センチだけ背の高い乾が、こちらを見下ろしてぽつりと言った。
「ココと遊べて楽しかった」
後方から車の走行音が聞こえてきて、近くの車道を通りすぎていく。車が放つライトの明かりが乾の顔を撫でて、日本人離れした美しい容姿を夜闇に浮き上がらせる。
「オレ、今日はココと遊びに行きたかったんだ」
そう言う乾の表情が、唐突にふわりとゆるんだから、九井ははっと目を見開いた。
「なぁココ、オレが年少出てからはフツーに遊びに行くことなかったよな。いつも黒龍のことでしか会ってなかったもんな」
乾は、困ったように笑って見せた。乾がそんな複雑な表情を見せるのは滅多にない。
「ココは黒龍のためにすげぇよくしてくれた。あんなに支えてくれて、オレは心から感謝してる。けど……ココがあぶねーこともしてるってわかってたから、少し心配だった」
九井は胸の奥底をギュッと掴まれるような苦しさを感じた。そのわけのわからない感覚に、思わず唇を引き結ぶ。
「だから東卍に降ってからは、喧嘩も仕事もなくて少し安心した。もうココもあぶねーことしなくていい。けど……」
乾は長いまつ毛を伏せると、申し訳なさそうに肩を竦めた。
「アジトでひとりだと、ヒマなんだ。ずっとココを待ってた」
そして乾は、勝手だよな? とでも言いたげな表情を見せる。
「なんの用事もねぇのに、ココに声かけんのもなって思ったけど……悪ぃ。けど……オレ、今日はココと楽しいとこに遊びに行きたかったんだ」
だから、ココが好きなとこや、オレの好きなとこに行きたかった。
そう話す乾は、また困ったように笑った。
九井はハッと鼻で笑う。そうして湿っぽい何かを吹き飛ばす。
「んなこと言うなよ、イヌピー。今更気にすることじゃねぇだろ」
それは九井の本音だった。嘘じゃない。
なのに、また乾を傷つけたかもしれないという恐れを隠そうとするから、自分で言ってて嘘くさいなぁと思ってしまう。
「ありがとな。やっぱオレ、ココと一緒がいい」
それでも乾は、嬉しそうに笑ってくれた。いつものシンプルな乾らしい言葉をかけてくれた。
だが、その裏表のない言葉だからこそ、九井の胸の奥深くに刺さる。
今日、乾が迎えに現れなかったら、九井は行きつけの高級クラブに出かけるつもりだった。
もちろん、上客から新しい仕事をもらうためである。今の東卍ではやることがなくても、いずれは金が必要になるかもしれない。金はいくらあって困るものではないから、今のうちに稼いでおこうと思っていた。
だがそれは何のためだ。
乾のためだ。
乾を支えるためなら……乾の夢をかなえるためならなんだってする。そう決めているからだ。
中学生の時、九井は図書館の窓辺で眠る乾にキスをした。その横顔が、恋焦がれたあの女性と瓜二つだったから。
だが、その次の日から、自分に対する乾の態度に違和感を覚えるようになった。いつもなら気安くなんでも言い合えたのに、あの日を境に乾がどこかよそよそしい態度をとるようになった気がしたのだ。
それは九井の気のせいだったかもしれない。もしかしたら自分の罪悪感からくる思い込みだったかもしれない。実際のところはわからないが、九井には唯一無二の幼馴染との間にできた、たしかな溝を感じていた。
もしかしたらあの瞬間、イヌピーは起きていたのかもしれない。
そして代わりにされたことに傷ついたのかもしれない。
だから自分に遠慮するようになったのではないか。
その考えが頭から離れなくなった。
乾は時折、九井に「ココはどうする?」と訊く。
それは「オレは赤音じゃねぇけど、どうする?」と訊いているようだった。
その度に九井は、形のないナイフで刺されるような気分がした。
たしかに自分はあの女性のことが好きで、今でも忘れられずにいる。だが、だからと言って乾を――イヌピーを殺したかったわけじゃない。
イヌピーだって、九井にとってはふたりといないかけがえのない人間なのだ。
その彼を否定するような行いをして、彼を傷つけてしまったことを、九井には悔いていた。
それなのに全部を話して謝ることができないでいる。その勇気をどうしても持てなくて、ずるずると今日まで引きずってきている。
それならせめて、乾のそばにいようと思った。自分のすべてをかけて、彼のすべてを肯定する。彼の夢をかなえて、支えるのだと。
それなのに――自分は乾と過ごす時間よりも、金を稼ぐことを考えていた。
自分も彼と同じだ。ヒマになって、乾と会う口実を探せずにいた。金を稼げばなんとかなると考えていた。
本当に必要だったものに気付けないで……。
――十代目黒龍を失って、糸が切れた凧になろうとしていたのはオレだったのかもな――。
「また明日もガッコーに迎えに行っていいか?」
乾が照れくさそうに言うから、妙にくすぐったい。九井は自分も赤面してることを悟られないよう、いつもの調子を崩さずに頷いた。
「いいって。トーゼンだろ」
その答えに、乾はまた目を細めて「うん」と頷いた。
そこで九井は「あ」と声をあげる。
「てか、それなら、オレ時計見に銀座に行きたいんだけど。イヌピー、アシしてくれよ」
「わかった、任せろ」
「けど、そのダセェカッコで一緒に銀座を歩きたくねぇから、まずは服見に行こうぜ」
「あぁ?」
ガラの悪い返事に、九井は笑う。
「いいじゃん、どうせ時間はあるんだしさ」
そう。自分とイヌピーがともに過ごせる時間はこれからもたっぷりある。
もうチームも、仕事も関係ない。ただのかけがえのない幼馴染として過ごす時間は、いくらでも――。
***
爪痕のように細い月が浮かぶ夜、九井はひとりでアジトを訪れていた。
息を吐けば白い靄となるほどに寒い。ここには電気が通っていない上、コンクリート打ちっぱなしの空間だから、冬の夜にはいつもつま先が痛くなるほどの冷たい空気で満たされてしまう。
電池式の作業灯が照らし出すのは、適当に持ち込んだテーブルとソファ。あとは壁際にある古い棚とガラクタくらいか。誰がどう見ても廃墟然とした部屋である。
かつては初代黒龍総長だった男が経営していたバイク屋だったらしい。だから乾は「真一郎君の思い出がいっぱいある」とよく言っていた。当時を知らない九井にとっては乾と過ごした思い出がたくさん詰まった場所だった。
今日ここに来たのは、必要なものを持ち帰ろうと思ったからだ。
しかし、いざ来てみると大した物はなかった。
積みあがったバイク雑誌も、時々遊んだトランプも、戯れにかき鳴らしたギターも、喧嘩に使ったバットも、夏に取り合いした電池式の扇風機も、冬に一緒にくるまった毛布も……。
どれもこれもこれでないといけないものではなかった。全部買いなおせばいい。こんなものを持ち帰っても重荷になるだけだ。
アジトの中をぐるりと巡った九井は、テーブルのそばの床に開きっぱなしの救急箱が置かれていることに気付いた。すぐ横には絆創膏の外装の紙がくしゃくしゃと丸められて転がっている。きっと乾が使った後、そのまま放置されたのだろう。
「ちゃんと片付けろよな」
今までにここで何度となく言ったセリフをひとりで呟く。
この救急箱は、この場所にふたりが初めて買って持ち込んだものだ。喧嘩っぱやい乾はもちろん、九井自身も何度となくお世話になった。
そういえば――ここをふたりで使うと決めた時、乾はこの場所を「秘密基地」と呼んでいた。対して九井は、その子供っぽい呼び方をするのが嫌で「アジト」と呼んだ。気づけば「アジト」と呼ぶ方が定着していたが、きっと乾にとっては今でもここは「秘密基地」だろう。
――それくらいに、自分たちは見ているものが違う。
乾は、今でも子供頃からの夢を追いかけている。
それはずっと以前から知っていたことだし、先日の関東事変の時にも思い知らされたことだ。
汚い金を稼ぐ自分とは、やっていることは同じでも、住む世界も追いかける夢も違いすぎる。
だから、もう一緒にいるのはやめるのだ。
九井は救急箱の蓋を閉めると、先週買ったばかりの腕時計に目を落とした。短針は、ちょうど7を指そうというところだった。そろそろ佐野エマの通夜が終わる頃だろう。
九井は照明を消して、アジトを後にする。
ここにはもう二度と来ない。そう心に決めて。
しんと静かな住宅街から駅までをつなぐ道の途中、九井が古い街灯の下で立っていると、通りの奥から革靴の足音が聞こえてきた。
ありふれた黒スーツを着た男がひとり、うつむき加減で歩いてくる。二月末の夜にコートも着ないで出歩くなんて、相変わらず自分を大切にしない奴である。
九井はその男の前に立ちはだかった。
「よぅ」
乾が、顔を上げてこちらを見た。
「……ココ」
そう呟くように言った彼は、少し警戒しているようだった。
それも無理のない話だ。顔を合わせるのは、あの殴り合った日以来なのだから。
九井は乾に向かって歩き出す。すると乾もまたこちらへ歩を進めてきた。
互いの距離が一メートルにも満たなくなった時、どちらともなく足を止めた。
九井は、じぃっとこちらを見てくる乾を同じように見つめ返す。
相変わらずきれいな顔をしている。月明かりの乏しい夜でも、安っぽい街灯の下でも、その美が失われないのはさすがだな、と思った。
九井は上着のポケットからアジトのカギを取り出した。そして二歩ぶん前に進み出て、それを乾のスーツの胸ポケットに入れる。
乾は何の抵抗もなく、ただ九井の手元を見つめたまま立っていた。
世界に二本しかないカギをすべて乾に預ける。それの意味するところは、鈍い乾にもさすがにわかったらしい。
それなのに大人しくしているから、少し拍子抜けだ。
何か言ってもいいんだぞ、なんて余裕を持っていたつもりだったのに、しかし――乾がわずかに眉をひそめて口を開きかけた途端、九井の手は反射的に動いた。
黒ネクタイを掴み、力任せに引き寄せる。腕時計のベルトがチャリッと鳴った時、九井は乾の息を塞いでいた。
冷え切った唇が、歯を打ちそうな勢いでぶつかる。
湿っぽい言葉は聞きたくない。ただその一心のはずだったのに、これが最後と思うとどうしても我慢できなかった。
いつかやり直したかったキスをできるのは、きっとこれが最後だから。
それは一瞬とは言えない時間だったはずなのに、九井にはあまりに儚く、かすかな時間だった。
名残惜しく思いながらも、九井は唇を離す。瞬きをしてから目線を上げると、乾は胡乱な目でこちらを見ていた。
男にキスされて気持ち悪い、という顔ではない。
まだ赤音だと思ってんのか。
そう言いたげな表情だったから、九井は彼に見えないよう顔を伏せて笑った。
暗い夜でも、さすがに間違えたりしねぇっつーの。
オレはオマエにしたんだよ、青宗。
けど――それは教えてやらないけどな。
九井は乾の肩をぽんと叩く。
「オレはオレの道をいく」
乾は微動だにせず立ったままだ。
「もうオマエを支えてやれねぇから。道、間違えんなよ!」
わざと茶化して言ったのは、乾が拗ねればいいと思ったからだ。けして自分を鼓舞するためではない。
なのに、乾は何も言わないでいるから、九井も同じように黙って背を向けるしかなかった。
「じゃあな……」
それだけ言って九井は歩き出す。しかし、五歩も進まない内に背後から「ああ」と答えがあったから、九井はまた足を止めてしまう。
「…………」
夜の静寂が二人の世界を支配する。
言いたい言葉も、言うべき言葉も、あるようでなかった。見つけられないというのが正しいか。
しかし、何かを言わなければ断ち切れない。
気づけば一緒にいて、歪んだ友情で絡まり続けてきたこの関係を。
今夜、カタをつけると決めてきたのに。
九井が眉間に皺を寄せたその時、背後で乾が言った。
「今まで、ありがとな」
――ああ。それか。
イヌピーの言葉はいつでもシンプルでわかりやすい。
たしかに、それがすべてを終わらせるのにぴったりだ。
しかもいつになく穏やかな声色で言ってくれたから、もう何の文句もない。その言葉があれば、これからも生きていける。
九井は小さく笑ってまた歩き出す。
「バーカ、こっちこそだ」