紅紫「はいこれ」
望舒旅館露台で吟遊詩人に手渡されたのは淡い紅紫色の液体が入った硝子瓶だ。形は情愛を示す形だったと記憶している魈は色と言い形と言いあからさまに怪しい雰囲気のそれを目を細めて押し戻そうとする。
「説明も聞かないで否定するのはよくないよー これはね、旅人謹製のお薬」
「…説明を聞いてもなおさら我には不要のものだ」
立ち去ろうとしたがぐっと腕を掴まれ、有無を言わさず卓まで連れていかれた。自由と奔放を体現しているようなこの詩人には、主君であり敬愛するかの御仁とはまた別の意味でどうにも逆らえない。悪意も善意も悟らせない。しかし害意はゼロなのが余計にタチが悪いと思う。
「今旅人はね、モンドで錬金術を広く一般の人に知ってもらうために西風騎士団を手伝って錬金薬の製造販売するお仕事やってるんだ」
説明をしながらてきぱきと魈にはお茶を、自身には酒を用意する。
押し付けられた瓶を眺めながら、錬金術…とぽつりと呟くと、詩人…ウェンティはそれを聞いて「どれくらい知ってる」と問いかけてきた。
手にしていた硝子瓶を卓の中央に置くと、幾ばくかの知識をかき集める。
「仙術とはまったく異なる体系の無から有を生み出し、有から有を変転する術式…という程度だ。仙術は仙力を伴うのが基本であるゆえ凡人には扱えるものではないが、錬金術は術式と道具さえ揃えば凡人でも扱えると聞く」
「うんうん、だから凡人の旅人でも工夫次第でこんな薬も作れちゃう」
白い指がつんと件のボトルを突く。紅紫色の液体が予想に反し単一色ではない不思議な煌めきを放ちながら揺らめく。
「今度のイベントもね、錬金術をもっと身近なものにしたいっていう思惑があるらしいんだ。みんなが簡単な傷薬とか、魔物討伐に便利な薬とか、そこらに生えてるスイートフラワーや蒲公英なんかで作れるようにってね」
説明を聞きながら、珍しく常の飄々とした物言いの陰に棘が潜んでいる気がしてきて知らずにうちに小首を傾げてしまう。その細やかな少年仙人の仕草を目ざとく捕らえたウェンティは己の言動に気づき失敗失敗と心の中で呟く。
錬金術はいま旅人が広めようと協力している面だけをみれば、生活を豊かにし、助けとなることは間違いない。
だが負の面に目を向ければ、楽をしたいという過度の欲望は廃人を生み出し、強力な生命薬は傷の痛みを省みず兵士を使い捨てにする上官を生み出す。
何より先に魈が述べた通り錬金術は「無から有を生み出す」術であり「有から有を変転する」術だ。
それは魂という生命の根源さえも歪め、世界の在り様さえも変えかねない危険性を内包している。
モンドに錬金術を齎した黄金・レインドット、そしてその弟子であるアルベド。
この二人を手放しで受け入れるほど「風神」は愚者でもない。
しかしその裁定を自ら下すほどの賢者であるつもりもない。
モンドの事はモンドの民に任せる。それが風神の矜持。
面倒だから考えたくない…なんていう本心は酒と一緒に飲み下し、いまは善意の塊しか入っていない旅人謹製の薬を渡す方が最優先だ。
「君の抱えてる業障がじーさんお手製の薬でしか緩和できないのは知ってるよ でも旅人も僕も君の痛みや苦しみを少しだけでもいいからほかの方法で軽くできないかなーっ願うのは悪いことかい」
「作り困り顔」で問われて魈は押し黙る。
「…この薬は、業障の痛みを緩和するのか」
受け取る気になったと悟ったウェンティはぱっと顔を輝かせて旅人から受けた説明を伝える。 曰く、傷薬でもあり体力回復薬でもある。気持ちを落ち着かせる効能もあるから、傷には直接塗る。寝る前であれば一口飲む。せめて安眠できるようにと願って作った薬だと伝えると、魈の頬が少し緩んだ。
「ほとほと…お節介な凡人だ…」
優しく柔らかな物言いにウェンティも釣られて笑った。
その夜、降魔を終え旅館の自室へと戻った魈は月明かりに照らされた旅人の薬に目をやった。
さほどの傷は負っていないが旅人の善意と少しの好奇心に突き動かされ手頃な杯を用意すると一口飲んだ。
見た目の毒々しささえある紅紫色に反して花の蜜のようなほのかな甘みは魈の好むところにある。
安眠を齎すと言っていたからには眠らねばなるまい。
しかしふと胸のあたりがざわついて思わず愛しい人の名前を口にしてしまった。
瞬間、月明かり差し込む自室に黄金色の元素が溢れ、とんっという軽い音とともに夜着に身を包んだ長身の青年が現れた。
夜風に先端が石珀色に輝く茶色の髪が揺れ、同じ色の瞳がしっかりと魈を捕らえる。
「…珍しいな、お前が俺を喚ぶとは」
低く、少し掠れた声が、さほど夜の深い時間ではないとはいえ彼が完全に就寝前ですっかりと油断していただろうことが見て取れた。
「し、鍾離様 申し訳ございません」
とは最後まで言えず、唇は唇で塞がれていた。
ますます事態が把握できず、深く深く追い求められる口づけをひたすらに享受する。
ひとしきり堪能したのか鍾離はゆっくりと顔を離す。魈の唇から溢れた唾液を拭うとぺろりとその指を舐る。
「鍾離様…っ」
喚びだしてしまったらしい己の不注意をひとまず置いて、その手癖の悪さを非難する。
「不思議な味がするな」
その言葉にはっとして硝子瓶を見やる。
「旅人から、その、安眠できる薬とやらをもらい、先ほど飲みました。何でもいまモンドで錬金術の薬屋を営む手伝いをしているとかで…奴が作った薬を風神から受け取りました」
「錬金術か…」
重々しい物言いに彼もまた風神同様に手放しで錬金術を受け入れることはしないようだ。警戒心を隠すことなく瓶を手に取ると匂いを嗅ぎ、掌に一滴落とし口に運ぶ。
「効能は 旅人はお前に害をなすことはしない。だがあの呑兵衛を経由していることが気になる」
「え、その、傷薬でもあり体力を回復させ、それから安眠を齎すと聞いたのですが」
答えながらも心臓が早鐘を打つのを感じていた。飲んだ直後と同じだ。たまらなくいま目の前の御仁の名を呼びたい。側にいたい。手を取りたい…
はっと我に返ると鍾離が目の前に立っていた。次の瞬間には寝台にもつれ込むように倒れる。
「明日」
「は、はい」
「ともにモンドにいるはずの旅人を訪ねよう。おそらくだがこの薬は旅人が想定している効能ではない。彼が間違えたのかあるいは」
常に沈着冷静、業障を抱えている魈を苦しめないよう、細心の注意を払い接しようと心得ているはずなのに、思考がふわふわとし始めた。
腕の中の小鳥が極上の声で鳴くのを聞きたい。
ただその一心だけが全身を支配していた。
こんな形で錬金術の恐ろしさを改めて知ることになるとはなと、どこかに残っていた冷静な判断力も、耳元で吐かれた甘やかで小さな吐息とともに吹き飛んだ。
パイモンが腕を組み、むーーーっと唸っているのを聞いた旅人はどうしたのかと問いかけた。
「どーしても在庫が合わない これは販売管理者として由々しき事態だぜ」
「何が合わないの」
「生命力薬と魅力薬だな。うーんと、そうだ、いつぞやスメールの舞台俳優に売る予定だったやつがないんだ」
どれどれとパイモンの記録を確認する。確かに数日前に「観客を魅了する薬」を作った。舞台上で演技する際に耳目を引き付け、もう一度会いたくなるような薬と頼まれて、舞台と観客ぐらいの距離、そして多数の人を引き付けるという条件に見合ったいわば「媚薬」に近いものを作ったのだが、少し強すぎるかもとアルベドに言われてお蔵入りにしもう少し効能を弱めて作り直ししたのだ。効果は抜群で演者本人の演技力も相まって舞台は大成功したらしい。
「あくまで錬金薬は「補助」でなくてはならない。あの薬のままだったら演者の今の実力以上に観客を引き寄せてしまって、のちのち薬なしでは魅力のない俳優になってしまうかもしれない。強い薬ばかり作ればいいというものじゃない。錬金術はそのひとの人生に責任を負うことだってあるんだってこと忘れないで」
事の次第を聞いたアルベドからこんこんと諭されて、すこし調子に乗っていたかもしれないと反省し、忘れないように戒めのために倉庫の奥に置いていた。
「マズいぞ。あれアルベドが「璃月の仙人さえも惑わすかもね」なんて言ってたぞ」
こんな状況でもアルベドの物言いを真似するパイモンに少し肩の力が抜けた旅人はその発言にピタリとピースが嵌った気がした。
仙人をも惑わすかもしれない薬。
そういえばあの時ウェンティも近くにいた。
その彼がこれから魈を訪ねると言ったから、試しに作ってみた生命力薬を渡したが…。
旅人の手の中には渡したはずの生命力薬があった。