面包鍾魈🐚小話
面包
「はいこれ」
公子殿から少し重みのある紙袋を渡される。
「開けていいよ」
贈り物を目の前で開けるのは時に無粋だが勧められたのであれば反応を楽しみたいのだろう。
斯くして中には茶色の巻貝を彷彿とさせる香ばしい香りがする何ものかが入っており、ぐっと眉間に力が入るのを感じた。相手が公子殿という警戒はしていたつもりだったが、友人という油断はしていたようだ。
気取られないように努めたが敏い公子殿には無駄だったようでにやにやと愉悦を隠すことなく向けてきた。
「まずは一本。それチョココロネっていうパン生地でチョコを包んであって、まぁいわゆる菓子パン。相棒に頼んで作ってもらったんだー」
上機嫌で別れを告げる公子殿を見送り帰路につく。
枕詞のような「一本」もだが、去り際の「もう一つ置き土産があるからちゃんと受け取ってよ?」という額面通りに受け取れない言葉が歯の奥に挟まった菜っ葉のようにわずかに不快で、あの公子殿だからこそ測れない「悪ふざけ」の程度を推測しながら石畳を踏みしめる。
置き土産という言葉を分析すれば、部屋に何かを置いてきたということになるが、さしもの彼ら…ファデュイの技術をもってしても俺の邸宅を開けられるとは思えない。
ならば往生堂に預けたのだろうかとも考えたが、表立っては璃月にいないことになっている公子殿が顔を見せるのは騒動の火種となるだろう。なによりあの堂主が黙っている筈がない。それに帰り際に待ち構えていたのだから往生堂に土産を取りに戻らせるという意図は無いはずだ。
あとは旅人の塵歌壺に置いてあるという場合だが、それならわざわざこの菓子パンだけを届ける必要が無い。
可能性を潰していけば、ぞくりと背筋に悪寒が走る。
俺の邸宅に自由に出入りできる人物は俺を除いてただ一人。
よもや彼に何かしたのか?
戦闘という視点では公子殿に遅れをとるわけが無い。
しかし本来優しいあの子は「凡人」に本気で手を降すことは出来ないだろう。いかに神の目を持ち、邪眼さえ使う青年であったとしてもだ。
禁忌滅却の札を盾に取られればなおさら、契約に従い身動きを封じられる。
純粋で純朴な彼が、同じくある意味純粋とはいえ己の目的のために純粋な悪ともなれる青年相手に口車に乗せられて苦汁を味わっているのではないかという考えに至り焦燥感に背中を押されるまま早足になる。
常の俺らしからぬ振る舞いに通りすがる人々が不思議そうに視線を送ってくるのが目に入ったが、構う暇は当然ない。
かつてであれば、俺を「見ている」ものたちを失望させないよう振舞っていたものだが、凡人となった以上個人的な心配事に焦る姿を晒そうとそれを味わいとして受け取れる自分に喜びを感じていた。
あの子を第一に考えている自分に陶酔さえしているのだから救いようがない。
はっと愚かな自分を鼓舞し、嘲笑うように息を吐く。
目の前には自宅の扉がある。
部屋の中から感じる風元素は紛うことなき彼の気配であり、小指の先ほどの砂粒程度の懸念材料だった呑兵衛のものではなかった。さしもの公子殿も隣国の呑兵衛とは誼を通じてはいないようだ。
さしたる力もかけず、いつも通りに扉を開ける。鍵もかかっていないようにみえる扉はその実俺の仙術をかけている。だからこそ俺が不在であればこの扉を潜れるのは彼一人。呑兵衛が本気になれば侵入も可能だろうが、あの呑兵衛がことさら権能ともいえる水準で力を行使してまで押しかけてくることはほぼない。ほぼだ。時に静かに彼と二人で酒を酌み交わしているときに押しかけてくることはあってもだ。
幾たびかあった無粋な「宴会」を思い出しこめかみに力が入る。首を振って無理やり悪夢を追い出し慎重に部屋の中を進む。
自由に出入りしていいと言っているが彼が俺の不在時に邸宅を訪れることもほぼない。ほぼだ。
時に旅人に唆されて料理を持ってきたり、彼とて寂寞を埋めたい日があるのか月夜の晩に待っていたり…数回だがどれも印象深く心に刻んでいる。
俺を驚かさないようにといつも緊張している彼を逆に驚かさないように慎重にならざるを得ない。彼に「勝手に来訪したことを不快に感じている」と勘違いされないようにだ。こればかりは時間をかけて…十年でも百年でも…いつ逢いに来てくれても嬉しいのだと骨の髄まで納得してほしいものなのだが。
しかし、玄関を抜け、居間を覗いても彼の姿はない。
書斎、彼のために用意した部屋にもいない。
まさかと思い除外していた候補…主寝室へと向かうと臥榻がふんわりと盛り上がっている。
ありえない光景に妙な警戒心…そして不安が過る。
もしや力尽きて休息所として無意識に「ここ」を選んだのではないか。加護を求めて転移していたのではないか。
じわりと脂汗が滲み、したたり落ちる。
一歩、一歩と重い足を引きずる。不意にかさりと音がして、公子の土産を手にしたままだったことを思い出した。中身は幸い潰れていなかった。完全に失念していたとはいえ握りつぶしていなかった己の冷静さに、そしてこんなときまで状況を客観視している自分がいることに呆れもした。
紙袋を臥榻近くの棚に置くとそのままの流れで盛り上がった布団を覗き込む。
瞬間、膝から力が抜け、そのまま頽れた。
うつ伏せに近い姿勢ですやすやと寝息を立てつつ、布団にくるまれた夜叉。
世の無垢という光を集め、穏やかという風で包み込めばこれほどに美しく、愛らしく、純粋な容貌となるのだろうか。
顎の下に添えられた手は布団を軽く握りしめており「きゅっ」という可愛い擬音が聞こえてくる気がする。
三眼五顕仙人、降魔大聖護法夜叉、仙衆夜叉金鵬大将、魈。
悪しき魔神に身を支配され、心身、夢でさえも蝕まれるも同じく魔神であるモラクスより解放され、璃月の魔を祓い、妖魔を降し、その身に業障を受けつつ大地と人々を護り続けること数百年、戦い以外のことに関心を寄せることなく、無邪気で優しかったという鵬の気性も薄くなってしまった夜叉が、小さな寝息を立てて安らかに午睡しているなど誰が信じようか。
ふかふかの布団は常の体温が俺より高い彼には温かすぎるのか、頬がほんのり上気して桜色に染まっている。その頬は「魔を屠る冷徹な夜叉」とは思えぬほどふっくらとまろみを帯びており、触れれば最高級品の求肥の菓子よりも滑らかで柔らかく、そして甘いというのは俺だけが知っている事実だ。ああ、稲妻には桜餅という菓子があったか、無性にそれが食べたくなってきた。
かすかに開いた唇はそれなりに布団にもぐって時間が経っているのか少しかさついているようだ。軟膏はどこにあったか、それとも別の方法で潤してやろうか。
次々と湧き起こる劣情を盤石の精神で抑え込む。常ではないこの状況をまずは理解することが必要だ。可哀そうだがそろそろ起きてもらうとしよう。
とはいえ揺さぶって起こすのは無粋かと、額に軽く元素を込めて唇を落とす。幼子が読むような寓話であれば唇がお約束というものだが、あいにく体勢からして無理がある。
ほどなくして目蓋が持ち上がり潤んだ黄金色の瞳が俺を捕える。
「ていくん……帝君…っ」
ここだけでなく魈が定宿としている望舒旅館や、時に野外で寝入っていることもある彼が目覚めた時に傍にいると弾かれたように飛び上がり拝謁の姿勢を取ることがある。長年染みついた反射のようなものだから仕方がないとはいえ、ゆっくりと直してほしい癖ではある。
その癖が、言ってしまえば悪癖ともいうべきそれが発揮されることなく、ぐっと食いしばって踏みとどまった感があった。
おはようと声をかければ羞恥で桜色の頬が真っ赤な夕暮れの実へと変化していく。触れれば当然熱い。こくりと喉が鳴ってしまったが聞こえてしまっただろうか。
「あ…う……」
問わずとも、状況を説明してほしいという俺の意図は伝わったのか、しかし語るのが得意ではない彼が必死で言葉を探しているのがわかる視線の泳ぎも愛おしい。
「よく眠れたか」
湯気でもあげそうな勢いで沈んでいく魈の頭をぽんぽんと撫でると、ふと公子殿の手土産を思い出し腕を伸ばす。
「一緒に食べるか 旅人が作ったチョココロネという菓子だ。ああ、お前はあまりパンのような小麦生地の食べ物は好まなかったな。だがいいお茶を留雲からもらったから一緒に食せば口当たりもよくなるだろう」
「ちょこ…ころね…‥その、申し訳ありません」
使い慣れない異国の発音の食べ物を口にする様も愛らしいが、その次に詫びが続くとは思わず、おやと目を見張ると慌てて否定を重ねる。
「我は、その、我は冬国の童に唆されたのです。いえ、しかしこうすると決めたのは我なのですから、処罰は如何様にも受けます」
短い自白の間にいろいろと問い質したい項目が含まれていたが、一番気になった公子殿に何を吹き込まれたのかを問う。
話は数刻前、旅人の声に喚ばれた魈は塵歌壺を訪問する。
そこには旅人、パイモン、そして公子殿がいて山盛りの茶色の巻貝を囲んでいた。
「やっほー高貴な璃月の仙人様ー」
軽薄だが油断ならない殺気を向けてきた「璃月に危難を招いた張本人」にあからさまな嫌悪を向ける魈の間に旅人が入る。
「稲妻に遊びに行ったら面白いパンを売ってたんだ。貝殻みたいなパンでしょ。チョココロネっていって言って、中にチョコが入ってるんだけどね、見た目だけだと絶対先生が嫌がりそうだねーってここで話してたら偶然タルタリヤが来ちゃって、聞かれちゃって…」
塵歌壺は旅人が許可した人物であればどこにいようとも自由に出入りができる。
冬国に帰還しているタルタリヤが現れることも不自然ではないがタイミングが悪かったというものだろう。
鍾離へ大なり小なり意趣返しを常々企んでいる冬国の武人は旅人にチョココロネの製作を依頼し、おいしいものを食べられるとあれば反対する理由のないパイモンの応援を背に受けて、これまた偶然ナタのショコアトゥルの実も大量に収穫していたこともあり現在に至る。
「この形だけどさ」
タルタリヤは弟妹達への土産にするからと楽しそうに紙袋に鼻歌交じりに詰めながら続ける。
「よく弟たちが俺の布団を温めるんだーって潜って待ってることがあるんだけど、その形に似てるんだ。可愛いし温かいしで、すごく嬉しいんだ」
すっとチョココロネをまるで宝具であるかのように掲げて魈に向ける。
「仙人様も、先生にやってあげたら すっごく喜ぶと思うよ」
魈の恋慕は旅人の知るところにあり、留雲借風真君などの旧知の者たちには公然の秘密であり、公子殿のように観察力の優れたものには察知される事実である。
本人が認めていない、自覚していないのが不思議なほどに。
告白を終え、処罰を待ちかすかに震える魈の手を取るとやんわりと包む。
チョココロネは名前の通り、中心には甘いチョコが詰まっている。
仕事を終えて疲れた身には、甘味が必要だろう。
数日後、万民堂で昼食に舌鼓を打つ俺の前には冷や汗を流す旅人とパイモンの姿がある。
「パン自体は発祥をモンドやフォンテーヌとする説があるが、食べ物というものはその国その国で独特の変化を遂げることがある。チョココロネもその一つだな」
旅人の前に置かれた椒椒鶏が冷えていく。実に勿体無い。
「形状は巻貝だが、一説では鬼の角を模したものらしい。だからフォンテーヌの言葉で角を意味する「コロネ」、またはモンドの楽器を模して「コルネット」からきているという説もある」
口の中の油を流すためにお茶を手に取る。淹れたての芳醇な香りを堪能すると一口流し込んだ。
「公子殿に伝えてほしい。チョコは大変に甘かった、と」