迷子 遠くから幼子が泣く声がした。
正確には鳴き声というべきかもしれない。ヒトのそれと雛鳥のそれが絶妙に混ざり合った音だ。
本来このような街中ではまず聞こえることのない、鍾離自身数百年と立ち会っていない…仙鳥の雛鳥独特の鳴き声にまさかと背筋が泡立つ心地がした。
「あ、しょぉぉぉぉりぃぃぃぃぃーーーー」
鳴き声を上回る友人の相棒…パイモンの絶叫に通りすがりの人々さえも振り返る。その後ろをぱたぱたと…予測に違わず子どもを抱えた旅人が姿を見せた。
「パイモン、それに旅人…それから……」
自然と鍾離の視線が旅人の腕の中へと移る。
いまだ鳴き止まぬ稚児は手足と、そして羽をばたつかせて旅人の腕の中から抜け出す勢いだ。
「あっあのねっ…旅館の近くで協会依頼の魔物討伐してたら、いつの間にかこの子がいて、なんか魈に似てるし、でも違うって泣くし、羽生えてて絶対仙人だから魈に世話を頼もうと思ったけど旅館にいないし、呼んでも来ないし、だから閑雲にとりあえず預けようかなって…」
翡翠色の髪は確かに魈のものに似ている。ぴょこんとひと房跳ねているのも酷似としか言いようがない。さらに風元素を抑えることなくばら撒いているので先ほどからパイモンは吹き飛ばされそうになっているし旅人は強風に煽られたように額が全開になっている。
「そんなわけっだからっ…先生、さよならっ」
「閑雲なら留守にしているぞ。申鶴の修行に付き合って奥蔵山に帰っている」
ぽとりとパイモンが地に落ちる。
「どどどどうしよう旅人ーーーそうだっ、甘雨に」
「甘雨は今日で六徹目だと出前に向かう香菱から聞いた」
旅人の顔に絶望が浮かぶ。腕の中の稚児に動揺が伝わったのか鳴き声がさらに大きくなった。
鍾離は覚悟を決めて一歩踏み出すと稚児を取り上げる。
視界が突然高くなり、一際高く鳴いた稚児は鍾離の顔を見つめるとピタリと鳴き止む。
「…もや、くすしゃま」
風元素が止まり、氷元素と水元素が降り注いだ心地がしたとはのちの旅人の言葉である。
稚児が鳴き止んだのは幸いだが、それに負けない大きさで「もらくしゅさま」「もやくすしゃま」と連呼しだしたので三人は全力で璃月港を飛び出した。
人目がないことを確認し、鍾離は稚児に「俺はモラクスではない」と言い聞かせるが大きな黄金色の目を輝かせてにこにこと「もやくす、しゃま。もや、くすさまっ」と舌足らずな声と時折混ざる雛鳥の鳴き声に膝から崩れ落ちそうになるのを必死で踏ん張っているのが旅人たちの目には明らかだ。
「鍾離のことをモラクスって呼ぶってことは、この子やっぱり魈なのか」
「ちがう、われは」
開きかけた口を鍾離の手が覆う。
『………』
何か聞いたことのない「音」で鍾離が稚児の耳に囁くのが見えて旅人とパイモンが顔を見合わせる。稚児は意味が分かるのか完全な鳥の鳴き声で応えたことに鍾離が安堵の息を漏らした。
「先生、今のは」
「…仙人には「真名」というものがある。この子は本来夜叉たちの里で守られているべき年齢の子でそこであれば真名を名乗ることも許されただろうがここでは駄目だ。どんな妖魔・魔神が聞き耳を立てているか分かったものではない」
自分の言うことをちゃんと聞いた稚児を優しく抱き直すとよほど嬉しかったのか羽がぱたぱたと忙しなく動いている。
真名の話は魈から聞いている。
真名を悪しき魔神に奪われ、自由を奪われ、それから。
仙人らしく達観した表情で淡々と語ってはいたが、凄惨な過去に代わりにパイモンが号泣していた。
「それじゃさっきのは」
「名乗ろうとしたのが真名かどうか確認した。お前たちにも魔神の残滓にも聞こえない「音」でな。返答もちゃんと「音」で返すように、返せなかった場合は俺の護りを与えるつもりでな」
そこまで聞いて、旅人たちの顔から血の気が引いていくのを認めた鍾離が眉を顰める。
「どうした」
答えは三人の足元に広がる「影」が示していた。
鍾離の目が石珀色に輝き、稚児を片手に抱き直すと空いた手には破天の槍が生まれる。
無数の漆黒の手が稚児に伸びる。伸びてきた手の中心に容赦なく破天の槍を突き立てると岩元素が爆発し粉々に砕けていく。だが次々と不気味な手は生えてきて稚児を奪おうとする。
旅人も応戦し次々と切り伏せていくが気配が止む様子がない。
その旅人の足元から岩柱がせりあがる。何が起きているのか理解が及ぶ前に次々と影を囲むように柱が生まれ、岩元素の渦が影を地中深くへと鎮めていった。
柱の上から呆然とその光景を見ていたが不意に柱が消えて慌てて体勢を整えて着地する。
きらきらと輝く岩元素の欠片の中を悠然と稚児を片手に抱えたまま歩んでくる鍾離の姿に岩場に隠れていたパイモンが傍らに飛んできて「やっぱり「もやくしゅさま」じゃないか…」と思わず先ほどの稚児の言葉を呟く。
「先生…今のは」
「魔神の残滓だ。お前たちがこの幼子に魈ではないのかと問い質したと聞いて嫌な予感がしたんだ…おそらく真名を連呼したのではないか」
鍾離の戦い方に興奮した稚児は頬を紅潮させているが、興奮冷めやらぬのは鍾離も同じで稚児を何気なく一瞥した視線が射殺すようなそれだったためひゅっと稚児は息を呑み、そして。
「うぇぇええええああああぅぅぅぴぃぃぃぃぃぃ」
ヒトのそれと雛鳥のそれが混ざる独特の鳴き声が再び璃月の空に響き渡る。
「しょぉりぃぃぃぃ」
恨みがましいパイモンの声に短く詫びると稚児をあやす。
「確かによく分からない音というか名前みたいなのを叫んでたかな。もしかして」
「真名を叫んでいたのだろうな。これだけ仙力の高い子どもだ。魔神どもの餌には十分おつりがくる」
「たべられる」
餌という単語に魔神の残滓が襲ってきたのが自分の所業が招いた結果と悟ったのか愛らしい顔はぐしゃぐしゃに涙と鼻水まみれになっている。
「そうだ。だから無暗に真名を名乗るなと里の者に言われていたはずだぞ」
「でも、われのなまえ…」
「魈、だ。お前の名前は魈。里に戻るまではそう名乗るといい」
どう見ても魈を幼くしたような風体の稚児に、それ以外の名前が浮かばない。
「しょお、しょう しょーー」
繰り返し練習する「しょう」の顔を手巾で拭う。
綺麗になり愛くるしい無邪気な笑顔が陽光に照らされて旅人とパイモンが思わず心臓を押さえる。もっとも間近で見た鍾離の脳裏には絶滅した野生の琉璃百合の花畑が広がっていた。
「け、結局この子は何者なの…」
忘我の域から戻ってきた旅人が同じく魂を高天に還しかけた鍾離を呼び戻す。
「分からないが…魈の真名を名乗っていた以上は魈なのだろうが、他の可能性があるとすれば…」
ふわふわとした「しょう」の髪を優しく撫でる。じっと検分していた鍾離の口元がふっと緩む。
「二人の想像に任せるとしよう。さて、魈の姿が見えないがおそらくどこかの洞天で休んでいるとみた。俺も久々に魔神の封印をして疲れたな。しばらくこの子と一緒に休ませてもらおう」
とんっと軽く踏み出した音がして二人の姿が消える。
「想像に任せるって…そんな無茶な…」
パイモンが不貞腐れるなか、歴戦の英雄である旅人の動体視力は見逃していなかった。
稚児の髪の隙間に、僅かに岩元素を示す石珀色の髪が覗いていたのを。