見下ろす背中に当たる風は冷たく、窓から差し込むわずかな光が夜明け前であることを知らせる。
空は紺色と薄紅をないまぜにしたようで、次第に星が消えていく。
しんと静まり返った部屋の中、翡翠の髪がわずかに揺れる。
音を立てずに行動するのは造作もない。気配を断つことも息をするようにできる。そっと寝台を抜け出して身支度を整え終え、別れの挨拶をその背中に送るべく振り返る。そして、今にいたる。
峻厳さ、厳かさ、冷徹さ・・・六千年近く璃月を収めてきた統治者が見せていた様相は彼にとって触れ得ざる美しさでもあった。
かつての近づくこともまして声をかけるなど烏滸がましく、畏れ多くてできなかったそれら。しかし「凡人だから」の一言で彼が作っていた壁は容易に砕かれた。
規則正しく上下する胸をなんとはなしに見る。凡人となっても姿かたちはかつて一番よく見かけていた武神の姿に近く、逞しくもしなやかだ。
閉じられた双眸はまさにトパーズそのものを埋め込んだようで、鉱石のごとき冷たさにかつては震え上がったものも多くいた。しかし彼に向けられる視線はいつも優しく温かい。救われた時からずっと。
(そうでも、ないか)
業障に苦しみ、幾度となく自害しようとした己に向けられた視線は怒りも哀しみもあった。厳しく戒められ「応」と答えるまで…。
(見下ろされたのだ。ずっと)
単純な身長差もある。
彼自身は少年の姿のまま変わらない。仙人は己の役目、力に合わせた姿かたちを取る。
戦場を果てから果てへと駆ける俊敏さを是とした己の身は今の姿を最良としたのだ。
対してモラクスは、凡人の尺度でいえば「高身長の男性」、武神の名に恥じない細身でありながら完璧に配置されたかのごとき筋肉質の体形は正に戦うべく定められた神のそれであり、かつて七天神像を作り上げた彫刻家たちもさぞ苦労しただろうと思う。
フードの向こうに見え隠れする相貌は凝視するなど不敬だとわかっていても、つい視線を止めてしまう端正な顔立ちであった。
『お前はいつも、俺に報告するときに一瞬止まるな。そんなに俺が怖いか』
須臾の称美、刹那の敬慕を見抜かれたこともあった。いや、見抜かれてはいないはず。ただの緊張と動揺だと受け取ってもらったはずだ。
小さく息を吐く。音はしていないはずだ。
見下ろすなどありえなかった。膝をつき、礼を尽くし、時に穏やかに労われ、時に戦況に厳しい口調で命令を下す彼の声をその項に受け、見上げた時には彼の背中を見送っていたことのほうが多い。
魔神討伐と建国。一介の仙人に割く時間などそれこそ須臾だったのだから、見下ろされる時間などほんの僅かだった。
ましてこうして、穏やかな眠りについている主君をじっと見下ろして、いわば観察するような不敬な真似など、ほんの少し前の自分たちの関係であればありえない状況だった。
眠りについている姿を見たことないわけではない。あるいは洞天で、あるいは戦場の片隅で、自ら作り上げた岩のゆりかごに護られてしばしの休息をとる彼の傍で不寝番をしたことがある。当然時間が来れば起こすようにと命じられていたので、彼に言われた通りの方法で目覚めを促していた。
(…我以外のものは、どのようにして起こしていたのだろうか)
ふとその考えに至り、胸の奥がツキンと針を刺したように小さく傷んだ。
(同じ方法で、起こしていたのだろうか)
半歩前に出て、立ち止まる。
夜はまだ明けていない。
起こすようにと命じられていない。
ならば眠りを妨げるような真似をするなどもってのほかだ。
(愚かな…モラクス様は璃月すべての民のもの。あの頃だって、ほかに多くの仙人たちがいた。我ひとりのはずがない)
今は
凡人の姿となり、神であったころよりもずいぶんと自由気ままに日々を過ごしている。隣国の風神の言葉によると「まだまだ堅いね」とかなんとか言っていた気もするが、彼にしてみれば驚嘆すべき「柔らかさ」だ。
今は・・どうなのだろうか。
寝所に今は二人。
ここには、だれか来るのだろうか
知らずのうちに奥歯を噛んでいた。そして気が付けば跪き、寝台から零れ落ちる彼の手を取り、唇に風元素を載せて指先にそっと触れた。
う…と低く掠れた声がして、打たれたように寝台から離れる。
「…なんだ、見送りでもしてほしかったのか」
きっちりといつもの戦装束に身を包んだ彼にからかうように声をかけたが、わずかに震えながら跪く彼は顔を上げようともしない。
「どうした」
「…眠りを、妨げてしまいました。お詫びの申し上げようもありません」
今にも泣きだしそうな声に、ただの詫び以上の何かを感じた鍾離は寝台から身を起こし縁に座りなおす。
「どうした」
もう一度同じ言葉を投げる。不要な言葉を使わない。かつての問い方にますます魈は震えた。答えねば立ち去ることなど赦されない。見えない岩元素が己を串刺しにしたような心地がした。余計な言葉も、まして偽りの言葉も許されない厳粛な儀式の間に引き出されたようだ。
「烏滸がましくも、我は…嫉妬したのです」
「嫉妬」
「ここに誰か他のものが立ち入っているのではないかと、かつても帝君の不寝番を仰せつかったときも、他のものはどうしていたのだろうかと、我のような起こし方を他のだれがしていたのだろうかと・・・その、ような不埒な考えを、して・・・」
喉が痛い。恥じ入るあまりに視界が歪む。身に余る寵愛を得ながらなんと傲慢なのか。自分は仙人であるはずなのにあさましい我欲の強さがただただ情けない。
ほう、と嘆息したような呆れたような…判断のつかない呼吸の音に床についた拳に不意の力が入る。声を上げまいと噛みしめた唇から鉄の味がした。
ぎしりと立ち上がる音がして、次の瞬間には視界が浮き上がりそして沈んだ。
ぽすんと自分が載せられた先は…再び寝台の縁に腰を下ろした鍾離の膝の上だ。慌てて降りようとしたが腕を掴まれ、中腰になることしかできない。そしてその姿勢は…彼を見下ろすことになってしまった。
少年とはいえ軽々と座った姿勢の自分を持ち上げてしまった彼の行動を理解できず、見上げてくる石珀の瞳が愉しそうに自分を捕えていて言葉も思考も失ってしまう。
「一言でいえば、魈、俺は過去も今も「他のもの」など呼んでいないぞ」
「は、へ、え」
「久々に懐かしい起こし方をされたから、つい「モラクス」のような振る舞いをしてしまったな。すまない。怖がらせるつもりはなかったのだが、ああ、お前はいつも俺に報告するときに震えていたな。最初は怖がられているものと思っていたが…あの熱は今でも健在で結構なことだ」
熱という言葉に明け方の薄暗い部屋でもわかるほど赤面する。
はくはくと紡ぐ言葉を失った夜叉を見上げながら、翡翠の前髪に指を絡める。ふと血のにじんだ唇を認め、すうっと頬を撫でるように動かし唇まで辿り着くと血をぬぐってやる。
「あんな起こし方、お前以外にはさせない。お前もできれば俺以外にはしないでほしい」
ゆるりとした動作で魈の手をとると、軽く指先に口づける。かすかな岩元素が流れ込んでくる。
「それ、は…契約ですか」
「お前がそう思うならそれでもいい。だがこういうことは「お願い」のほうがかわいげがある」
かわいげ・・・似つかわしくない単語に混乱する魈に追い打ちをかけるように石珀の瞳が嗤う。
「できれば、もう少し遅い時間に起こしてほしい。俺が先に起きてもいいが…その時は指先にするとは限らないぞ」