執着執着
軽く払う仕草に先端の肉片が飛び地面に落ちる前に塵となって消える。
風の音だけが過ぎ去る荻花洲で、満月の下に少年と思しき背格好の人影が一つ。
儀式のための仮面はひとまず役目を終えて、黒と翠の混ざる元素の破片となって散っていく。
その下から現れたのは宵闇の中、月影にあってもなお冴える金色の双眸に影を落とす長く濃い睫毛、朱色の隈取、すっと通った鼻梁、鋭い眼差しには少々似つかわないふっくらとした薄い桜色の唇は総じて未発達だからこその美しさを生み出している。
その顔立ちだけを見れば誰もその人が常在戦場を旨とする「夜叉」であるとは思わないだろうが、浮世離れした美しさには「ヒト」であるとは思わないだろう。
璃月の魔を祓い人の世を護る。
降魔大聖・魈の務めは太陽の下を謳歌する人には知られることもなく、また知られるときはその人が命の危機に瀕しているとき。故に死に近しい不吉の象徴と忌み嫌われることもあるが、彼にとって毀誉褒貶など意味をなさない。
身の丈に合わない長槍を振るう腕は引き締まっており、本性である鵬の紋は戦いの後で高揚しているためかうっすらと風元素の光を放っている。辺りを伺う視線は鋭く、魔を断つために辺りを伺うさまはまさに武人の残心の構えである。
(…穢れはない…か)
構えを解き一息つく。
「…くっ…」
骨が軋む。傷を負ったわけではない。魔を祓えばより強い魔の怨念が体を蝕む。消えることのない魔神の怨嗟…業障だ。
槍を支えにして頽れる。自分の荒い息が煩い。ぽたぽたと汗が影を作る。
(…消えろ…)
強く念じる。脳裏に浮かぶ彼の人の背中に、強く、強く誓いを立てる。
『□□□』
その背中がざあっと掻き消えた。
ぞわりと肌が泡立つ。
「あ…」
息を全て吐き切った後の喉の奥から搾り出たうめき声はひどく掠れていた。
『ああ、やっと見つけた。吾の可愛い玩具。おいでおいで、もう一度遊んであげよう』
淀みがじわじわと近づいてくる。
ありえない話ではない。魔神は滅びない。璃月の地脈の奥底に流れ、ふとした時に地表に現れる。だからこそ払い続ける者が必要なのだ。
そしてそれが過去に因縁のあるものであることも。
かつて彼の真名を奪い、恣に嬲り操り自尊心を砕き殺戮人形として使役していた魔神。
「…い、いや…だ…」
魔を微塵も恐れることなく果敢に戦う夜叉が、まるで幼子のようにうっすらと涙を浮かべ、顔を恐怖で顔を歪める。
その様子に淀みは機嫌よさげに揺らめいた。
『怖がらなくていいよ□□□、どうしたの、また可愛がってあげる。ほらおいで。可哀そうにモラクスなんかに攫われて、嫌な思いをしなかったかい』
ねっとりとした声が次第に近づいてくる。
怖い。
純粋な恐怖が体を支配し呼吸さえままならない。それでも、赦せない。
「モラ…クス様を汚すな…」
みっとみないほどに震えながらも口ごたえしてきた夜叉に淀みは不機嫌そうに揺れる。
『吾の可愛い□□□、可哀そうに。あの岩の魔神ごとき騙されて…吾のもとに帰っておいで』
淀みが魈の腕を掴む。
その瞬間、空間を黄金の光が切り裂いた。
耳を劈く断末魔が荻花洲の静寂を破る。大地が震え木々で眠りについていた鳥たちが一斉に羽ばたいた。
淀みと魈の間にすっと長身の男が降り立つ。地面に突き刺さった破天の槍を事も無げに抜くと再び突き刺す。
細身の体躯からは信じられないほど膨大な岩元素が溢れ辺りを支配する。淀みを睥睨する様は咎人に罰を下す神のそれだ。
「真名をいくら呼べども彼の心を奪えない時点で己の格を悟るべきだな」
『モラ…クス…っ』
ゆらりと岩元素の光が昇り、石珀色の瞳が灼き尽くさんばかりに睨め付ける。
「全く魔神と言うのは手に負えない。執着心、独占欲、嫉妬心、我慾に支配された外法の輩だ」
言葉とともに岩の檻が作り出され淀みを雁字搦めにし地中奥深くへと沈めていく。
「二度と現れるなとは言わない。だが何度現れようと結果は同じだ」
低く淡々としているが底知れぬ怒りが滲み出ている。だがその何よりも力強い言葉に魈の目から一筋の涙が落ちた。
地面に岩の印が現れて一瞬の輝きのうちに辺り一面は元の姿に戻った。
夜叉の微かに乱れた呼吸だけが風に乗って流れる。
立ち上がることのできない魈の前に青年が膝を折ったのを見て慌てる。すぐさま立ち上がろうとするが足に力が入らない。不甲斐なさにまた涙が滲む。
「申し訳…」
非礼を詫びるその言葉は涙を拭う温かい手に遮られた。
先程の怒りを顕にしていた青年とは同一人物とは思えぬほど穏やかで、だがどこか悲しそうな笑みを浮かべている。
「帝君」
「助けに来るのが遅くなった、すまない」
逆に非礼を詫びられぎょっと目をむく。
「帝君がなぜ詫びねばならないのですか。全ては我の油断が招いたこと。いくらでも罰は受けます故どうかそのような…」
そのような表情をしないでほしいと言いかけて、何故そんな表情しているのかに疑念が湧く。
「てい・・・鍾離様」
凡人として生きると決めた方に、まるで神のような振る舞いをさせてしまったことが申し訳なくて、だが同時に何故そこまでの怒りを見せたのかもわからなくて、魈は戸惑いがちに名前を呼ぶことしかできなかった。
「魔神というものは、本当にどうしようもないな」
何が、と問う前に魈の体はぽすんと鍾離の腕の中に収められてしまった。
「執着心、独占欲、嫉妬心、我慾・・手にしたものは奪われたくない。俺もあの魔神と同じだ」
「鍾離様があんなやつと同じだなんて」
「同じだ」
大きな手が優しく魈の頭を撫でる。
「一度手にしたものは手放したくない」
ゆるゆると髪、耳、頬と撫でる手付きはどこまでも優しく、魈は思わずうっとりと目を細める。その様子に鍾離もまた同じく満足する。
最後に柔らかな唇を軽く親指で押す。弾力のあるそれに己の唇を軽く乗せると夜叉の耳があっという間に朱色に染まった。
何度交わそうとも初々しさが一向に消えない反応にやはりとひとり納得すると夜叉を抱え上げた。
「さあ、手当をしよう。ここからなら旅館も近い」
当然抗議の声を上げた夜叉を無視してそのままゆるりと歩き出す。
やはり、手放せないな、と。
お前はもう十分に強い。自身で己の真名を守れるだろう。
だが俺はまだお前に名を返していない。
一度手に入れたものは、守り通すとしよう。