いつかの終わり「魈、帰ったぞ」
「ぁ……、あ」
「うん。ただいま」
カシャン。と音がした。魈が鎖を引きちぎろうと引っ張る音だ。初めは岩元素の拘束を手首にしていた。しかし、もはや痛みなどを認識しなくなった魈が、いくら皮膚が深く傷つこうともそれをやめなかった。なので柔らかい素材に変えて、鎖で壁に繋いである。
拘束を解けば直ぐ様鋭い爪を首に当てて自害しようとする。あの日見つけた時には、魈は既に発狂していた。いくら名前を呼び掛けても反応しなかった。今までは幾度となく既のところで間に合ってきたが……間に合わなかったのだ。目が合った瞬間、瞬時に消えようとする魈を掴んで咄嗟に洞天に連れて来てしまった。
俺は、まだ魈と離れる決断が出来ていなかった。
連れ帰った所で、もうどうにもならないことはわかっていた。かろうじて人の形を保ってはいるが、いつものように舌足らずな音で『鍾離様』と読んでくれる魈はどこにもいない。
岩王帝君であったなら、もしこれが魈ではなかったのなら。連れ帰ることもなく、その場で処していただろう。しかし、俺は余りにも長い間魈と同じ時を過ごしてしまった。だからすぐに決断できずに、判断を遅らせてしまったのだ。
なんとか、今からでも魈を元に戻す方法はないのだろうか。
そんな方法がないことくらい、自分の六千年の歴史が物語っている。魈を野放しにする訳にはいかない。洞天から出すことはもう出来ない。武力で勝てるのも、最早俺くらいしかいないのだ。
「魈、今日は霓裳花が綺麗に咲いていたぞ。望舒旅館の近くのものを摘んできた。見てくれ」
「ぅ……ぁ」
花を見せても、良いとも良くないとも、花の香りをどう思うか聞きたくても、呻き声以上の返事はない。
何の意味ももたらさないけれど、唾液をだらだらと零している唇へと口付けをした。舌を入れると噛み付かれた。鋭い痛みが走る。しかし、自分の血肉を与えることで、少しでも魈が生き永らえてくれるのであれば、それでも良いかもしれないと思ってしまった。
俺はまだ、魈と共に居たい。
何故手遅れになる前に俺を呼んでくれなかったんだ。
いくら後悔しても悔やみきれない。魔神戦争の最中で失ったものは多岐にわたる。しかし、今の自分であれば、零れてしまう前に受け止めることが出来るとどこかで傲慢めいた気持ちがあった。
そんな確証は、どこにも無かったというのに。
俺もいつかは摩耗して消える命だ。勿論魈もそうだ。人の命なんてもっと儚い。いつかは消えてしまうものを、いつまでも留めておくわけにはいかない。
血管が浮き上がっている首筋に手を触れ、指を掛ける。
『我が発狂したその時は、迷わず首を刎ねてください』
魈は事ある毎にそう言っていた。ぐっと指に力を込めると、大きくなる呻き声と共に、唾液が吐き出される。こういう時は何も考えてはいけない。少しでも魈のことを思うと、これまで共に過ごしてきた何千年の日々が頭を駆け巡り、判断が出来なくなる。
「魈……俺は……」
指を緩めて抱き締めてしまう。まだ魈の匂いがする。これは魈でしかないのだ。しかし、魈は俺の首筋に噛みつき、今にも食い破ろうとしている。
……今日も出来なかった。
ここまで来ても、まだ俺は魈が何処かで帰ってきてくれるのを望んでいる。
嗚呼、こんな姿に成り果ててでも、俺は魈が大切で大事で失いたくなくて……まだ魈と共に居たくて堪らなかった。