雨音の中に爆笑が響いた 雨が降りしきっていた。
成人男性二人が入っても余裕のある大きなえんじ色の和傘に雨粒がしきりなく当たり、バツバツバツ、という音を立てる。油紙に弾かれた雨粒がそのまま地面に流れ落ちて、水溜りの一部になった。
雨で憂鬱な気分になり室内から出てこようとしない人間を嘲笑うように、普段人に踏まれる以外に存在意義のないアスファルトの道が雨で濡れ生き生きとしている。
生駒と水上が歩く道にも、当然のことながら人は二人以外いなかった。元から人通りの少ない道であったが、雨によってそれが助長されている。
「なんで雨の日に徒歩で移動せんとあかんねん」
「車パンクしてたんやからしゃーないっすわ」
「せやけど小一時間話しとる間にパンクさせられることある?」
「ありえんから今マリオと隠岐に犯人探させとるんです。あと少し歩いたら着くんで大人しく歩いとってくださいよ」
「じいさんに会うから言うて袴着て来んかったら良かったわ。靴だけは普通のにしといて正解やったな」
「それは……まあ同意しますけど」
「いや、お前袴やないやん」
「袴やなくてもですよ。ていうか着物より袴のが歩きやすいでしょ」
それはそうなんやけどな、と生駒が返した時、雨音だけが聞こえていた道にバイクの排気音が響き渡った。雨で作られていた静謐な世界に横槍を入れられたようで、生駒も水上もいい気はしない。風邪引いてまえ、滑って転けてまえ、と両者違う方向の暴言を心の中で吐き捨てながら、道の端に寄る。道路と歩道の境界線がない道だ。轢かれてしまってはどうしようも無い。
遠くから小さく聞こえていた排気音は次第に大きくなり、また小さくなっていくと思われた。
しかし予想は裏切られる。
二人の前方から来ていたバイクは、道の端へ寄った生駒と水上の方へ迷うことなく突っ込んでくる。つけられていたライトでそれに気づいた二人は、二手に分かれ突っ込んできたバイクをやり過ごす。そばにあった電柱の後ろに生駒が、道路のど真ん中に水上が散開する。
バイクはそのまま通り過ぎることなく、水溜りを轢き水飛沫を上げながら五メートルほど離れた場所に停車した。
バイクから男が降り、自分たちの方へと向かってくるのを確認して、生駒と水上も肩を並べる。水上は指していた傘を閉じ、表面についていた水滴を二、三度振って落としながら、口を開く。
「お前なんでここにおるん? ここら辺に顔出すな言うたよな? 指一本や足りなかったん?」
「うるせぇ……んなこたどうでもいいだろぉが! オレはテメェらに借り返しにきたんだ」
「借りてお前……。俺らは薬はやらん決めとるんに、お前が俺らん名前借りて薬売ってたんやから、借りもクソも何もあらへんやろ」
「知るか、んなこと! テメェらに見つからなけりゃ今頃オレは……」
それまでの威勢の良さから一変、男はブツブツと何事か呟き始める。地面に雨が当たる音でかき消されるそれは、二人の耳に届くことは無い。
「やってますね」
「おん。どうするん?」
「んー、パンクもアイツが絡んどると思うんで、とりあえず拘束っすかね」
「了解」
「殺してやる……テメェら殺してオレが、オレが……!」
生駒が水上に返そうとした言葉は、男に遮られ、音が空気を震わせることなく、行き場の無くなった息だけが開かれた口から漏れた。
男の言葉に、生駒と水上はお互いに向けていた視線をそちらに戻す。
男は着ていた雨で濡れて色濃くなったグレーのパーカーのポケットから小刀を取り出す。鞘から刀身を抜き、用済みとなった鞘は地面に投げ捨てた。水溜まりにちょうど落ちて、バシャンという音の後、カランカランと地面を転がる音がした。
男の生駒と水上を見る目は正気ではなかった。目の焦点は合わず、口は常に何かを喋っている訳でもないのにワナワナと震えている。
「殺してやる……!」
一言、ハッキリとそう言った男はそのまま水溜まりを踏みしめ、二人の方へと足を進めてくる。走らないのは、組を抜けさせられる前に受けた処罰で、アキレス腱を切られたからだ。歩くことは出来るが、まだ走ることは出来ないのだろう。バイクに乗るのも辛かったはずだ。運が悪ければ、水上が心の中で思ったように、本当に雨で滑り事故を起こしていた可能性もある。
まあ、薬で犯された脳ではそんなことも考えられないのだろう。
男は小刀の短い柄を両手で持ち、腹の辺りで、切っ先を二人の方に向け構えている。切る、と言うよりも、刺す、為に小刀を使うようだった。もしかしたら刺してそのまま内蔵でも抉り出そうという考えかもしれない。
パシャ、パシャ、という間の抜けた音が場の緊迫感にそぐわないが、二人が命を狙われているという状況に変わりはない。
「水上」
「イコさんが行くんです?」
「最近実戦出てないやん。そろそろ体なまってまう」
「一日一時間は道場に篭っとる人が言うセリフですか、それ」
早口での応酬の後、さっき閉じたばかり和傘の持ち手を水上は生駒の方に向ける。払いきれなかったら雨粒が手のひらについて濡れ、水上は不快感に顔をしかめた。
生駒は差し出された持ち手を掴み、そして引く。するりと持ち手は傘から離れ、鈍く光る刀身が現れる。
「やっぱ軽いなあ、これ」
生駒が手に持ったそれを、物足りなさそうに見ながらそう言った。
「こんぐらい軽くなきゃ傘として扱えんでしょ。傘で筋トレでもする気ぃですか」
水上は端末で隠岐の電話番号を打ちながら後ろに下がり、生駒から距離を置いた。持ち手が無くなり使い道の無くなったそれは、適当なところに投げ捨てた。
生駒は雨に濡れて整髪剤が取れたために、額に落ちてきた前髪に構うことなく、静かに仕込み刀を構え、男が近づくのを待つ。
パシャン、と男が生駒の目の前にあった水溜まりを踏む。水が辺りに飛び散る。散った水が地面に落ちるよりも先に、生駒が刀を振る。
男の小刀を持つ手を、刀の峰で下から上に一閃。思わぬ衝撃に男は耐えられず、弾かれた勢いのまま小刀を持った両手が上にあがる。
生駒はがら空きになった前面めがけて、同じく上がった刀を、肩からそのまま斜めに振り下ろそうとする。
散った水が地面に落ちる。
「峰ですよ!」
後ろに下がっていた水上が声を張った。
生駒はその言葉に言葉を返すことはしない。しかしその言葉を聞いていない訳でも無い。
生駒は肩に当たる直前だった刀の軌道を変える。そして、くるり、と手の中で刀を返す。そのまま鳩尾めがけて刀を打ち付ける。
生駒は頭の中で『峰打ちだ』と呟いた。
当たったのが刃ではなく峰であろうが、衝撃が来ることに変わりはない。鍛えられていても、力が入っていなければ、それは何も意味をなさないのだ。
男は的確に与えられた衝撃と痛みに、グウっと呻き、その場でうち崩れた。カラン、と手の中から転がり落ちた小刀が軽やかな音を立てる。
生駒はそれを蹴飛ばし、男の手の届かない所へとやる。ふぅ、と一息つき、落ちてきていた前髪を手のひらで上げる。整髪剤には劣るが、雨で濡れているおかげで邪魔にならない程度には押さえつけることが出来た。
「水上ー」
この後どないするん?という疑問は、振り返って視界に入った水上の背後に迫るものによって、違うものに置き換わる。
「水上! 頭!」
袖に端末を戻していた水上は、生駒の言葉に疑問を持つことなく、素早く腰をかがめる。すると水上の真上で、ブンっと何かが振り抜かれる音がした。
水上は腰をかがめたことにより見えた、背後にある足の間に、自身の足を入れる。そして背後の人間の踵を払う。
その人物は、水上が足を入れたことに気づいていなかったのだろう。思わぬところから加えられた力に抗うことが出来ず、バランスを崩し、アスファルトの上に背中から倒れた。
ビシャッ、と盛大な音を立てる。
「水上、大丈夫か?」
生駒は足元で起き上がろうとしていた男の頭を、ガンっとアスファルトに押し付けるように踏みつけながら、水上に問う。
水上は地面に倒した男の持っていた鉄パイプを取り上げ、遠くへと投げながら、それに声を返した。
「大丈夫です。すぐ隠岐が車で回してくれるんで、イコさんはソイツの意識適当に飛ばしといてください」
「生駒了解」
水上の指示を受け、生駒は続けて男の頭を踏みつける。さながらアスファルトの地面と生駒の靴裏の間で、男の頭がバウンドしているようだった。
「お前は裏切らんと思ったんに残念やわ」
そう言いながら水上は地面に転がる男の鳩尾に踵を落とす。立ち上がろうとしていた男は再び地面に逆戻りすることとなった。
水上は鳩尾に落とした足を、そのまま男の喉へとやる。そして喉仏を潰すかのごとく、ゆっくりと力をかけて行く。
「イコさんよりアイツにつく方が良かったん?」
水上の問いかけに男ははくはくと口を動かす。喉を圧迫され声が出せないにもかかわらず、水上の問いに答えようとしているらしい。
「ああ、答えんでいいよ。後で俺が丁寧に聞き出したるから」
水上はそう言って、男の喉から足を離す。男は体を縮こませ、苦しげにゲホゲホとむせかえっている。
その間に水上は袖から扇子を取り出した。親骨が鉄で出来ている、いわゆる鉄扇と言われる護身具だ。
水上は男を跨ぎ、胸ぐらを掴んで上に持ち上げる。
「ほな、少しの間おねんねしときや」
パッと胸ぐらから手を離し、男の体が重力に従い地面に落ちるより先に、水上は男の顎の先めがけ思い切り鉄扇を振り抜いた。脳震盪を起こさせるのならば、顎を強く打つのが一番効率が良い。
ガツン、と景気のいい音がした後、男が水溜まりに倒れる。辺りに水が飛び散った。
水上は男の履いていた靴から靴紐を抜き取り、男の手首を上手いこと縛る。意識を飛ばしたとはいえ、ずっとそれが続く訳では無い。起きた時に反撃してこない為に必要な事だ。
鉄扇を袖に戻し、足を大きく開いたために乱れた着物を直してから水上は生駒の方を向く。
「イコさんそっち終わりました?」
「おん、終わったで」
生駒は男のフードを掴んで引きづりながら、水上の方によってくる。水上の近くによった時点で、ドシャッと地面に落とされた男の手首も、水上は同じように縛っていく。
「あとは隠岐が来んのを……っとタイミングええな、あいつ」
前方からやってきたバンが、生駒と水上の横でピタリと止まる。後頭部座席からスーツを着た二人の男が出てきて、昏倒している男二人を担ぎあげ、トランクに押し込んでいく。
それと同時に助手席の窓が空いた。
「何も怪我しとらんですか?」
「おん。俺も水上も一つも怪我なしやで」
「そら良かったです。あ、水上先輩」
「先輩言うのやめ言うとるやろ」
「しゃーないやないですか。先輩言いすぎて今更帰られんのですって。て、今はそんなことやなくて、車パンクさせたヤツ見つけたんで海に捕まえに行かせました」
「ほーん。コイツら思ったよりお仲間さんが多いようやな。こら色々聞かなあかんわ」
「ほな、伝えることはこれだけですんで。おれは先に帰ってますね」
「え、俺ら歩いて帰るん?」
「イコさんこの後頭部座席に乗りたいんですか?」
助手席に座る隠岐が示した後ろの席は既に満員で、生駒と水上が入る余地は無い。もし無理くり入ろうとするならば、男だらけで暑苦しい車内になること間違いないだろう。
生駒の暗くなる表情で乗らないことを察したのだろう。隠岐は「ほな」と言って、窓を閉め、運転席に座る部下に指示し去っていってしまう
「……別にええし……俺は水上と歩いて楽しく帰るし」
「さっきマリオに風呂沸かしといてって頼んどいたんで、帰ったら風呂入れますよ」
「ほんま!?」
「はい」
「水上お前ほんまよく出来たやつやな。花まるあげるわ。帰ったらマリオちゃんにも花まるあげなあかんな」
「そうですねぇ」
そんな会話をしながら、投げ捨てた和傘を水上は拾い上げる。ん、といって差し出されたそれに、生駒は持っていた刀を入れる。カチン、という音と共に和傘は元通りになった。
「傘……さします?」
「もう今更やろ。逆にびしょびしょになって風呂のありがたみ感じようや」
「りょーかい」
「一緒に入る?」
「一緒に入ったら風呂入るだけやすまんでしょ、イコさん」
「ありゃ、バレとる」
「雑魚やったとはいえ、久しぶりに戦ってイコさんが興奮しないわけないんで」
「で、入ってくれるん?」
「あー、着くまでに俺ん事爆笑させられたらええですよ」
文字通り取り残された二人は、くだらない話をしながら本屋敷への道を歩く。全てが終わったその場所には、再び静謐な空間が戻ってきていた。