トリガーバグで涙が止まらない水上の話 目から溢れて頬を伝う液体は赤信号の存在を知らないようだった。
俺はいくら擦っても擦っても、止めどなく流れ続ける涙に途方に暮れていた。
涙を流しているからといって、別に俺は悲しい訳でも怒っている訳でもない。ただ本当になんの理由もなく溢れるように、次から次へと流れてくるのだ。
とはいえ原因は既に分かっている。
隊室に入り、適当に床にカバンを置いて、特に理由はないが何となく今日はしとくか、ぐらいの考えで、俺は換装した。瞬く間に学ランから赤を基調とした隊服に切り替わり、心なしか体が軽くなったように感じる。ゴーグルと手袋は必要ないから取り付けられていない。
換装し終え、フゥと一息ついて椅子に座るよりも先に、ポロリと涙が落ちてきたのだ。は、と間の抜けた声をあげたら、また一つポロリと落ちる。それからはもう何をしてもしなくても、ポロポロポロポロの繰り返しだった。幼少期、本当に本当の幼少期、将棋に興味を抱く前のまだ外を走り回っていたような幼い頃。そんな頃に盛大にずっこけて、手の皮も膝の皮もずるむけた時と同じぐらい涙が止まらなかった。
つまるところ俺の涙が止まらないのは、トリガーのバグだった。
逆に俺にはそれ以外の理由が見当たらなかった。前述したように悲しいわけでも怒っている訳でもない。悲しい出来事があったとしても、それで自分が涙を流すような人間ではないことを俺は誰よりも理解している。そして怒るとしても隊の誰かがバカにされた時だ。ここ最近で隊員の誰かがバカにされた記憶などどこにもない。記憶処理を受けていない限りは存在していない。
「どないしよ」
隊員が他に誰もいない静かな隊室に俺のポツリと漏らした声が響く。出た声がまさに絵に描いたような涙声で驚いた。変にリアルを追求しているらしくて、涙を流している時の引きつって震えた声まで再現されているらしかった。
これといった感情を抱いている訳でもないのに、涙が溢れ、声がひきつっているのに、次第に笑いが込み上げてくる。人間、自分の許容範囲外のことが起きると笑うことしか出来なくなるというのは本当だったらしい。
クツクツと背中をふるわせる度に、涙が頬をつたい、そのまま床に落ちる。どういう原理なのか、唇の端から口の中に入ってきた涙は、生身の時に流れる涙と変わらず塩辛かった。
何はともあれトリガーのバクなら、変に換装をとくのはあかん。このまま隊室で立ち尽くしてても何もならんし、とりあえず開発室に行ってみるか、と俺が隊室から出ようとドアの方を向いた瞬間、それが開いた。俺が開いたのではなく、外から誰かが開けたらしい。
カシャン、という重ための音の後に顔を出したのは、この部屋を使っている隊の隊長のイコさんだった。
イコさんは俺が先に隊室にいることに気づき、挨拶をしようとした口のまま、ピタリと固まってしまった。隊室に入ったら、立ち尽くしたまま隊員がポロポロ涙を流していたらそんな反応になるのも仕方ないだろう。俺も隊員の誰かが、今の自分と同じような状況になっていたら、驚き焦って固まる自信がある。固まるのは行動だけで、頭はクルクルとこまのように回り続けるのだろうけれど、それはそれ、これはこれ、だ。
カシャン、とイコさんの背後でドアが閉じる音がする。その音でイコさんは正気に戻ったのか、開けていた口を一度閉じた後、もう一度開く。
「ど、どうしたん?」
イコさんは心配が乗った言葉を喋りながら、そろそろと俺に近づいてくる。泣いている子どもを怖がらせないためのような行動に、イコさんの登場で引っ込んだ笑いが再び込み上げてきそうになった。
「い、やなんで、も、なくて」
涙が流れているせいで、喋りにくいことこの上ない。喉が細い糸でキュッと縛り付けられてしまったかのように、言葉が堰き止められていて声に出すのも一苦労だ。トリオン体にそこまでのリアルさを追求していることに、俺はもう感動すら覚えた。逆にここまで涙を流しているのに、鼻水が出てこないのが不思議なほどだった。
「そないに泣いててなんでもないわけないやろ」
イコさんは、涙を拭うことを諦めてだらんと下げっぱなしにしていた俺の腕を引っ張って、隊室のソファに導いた。俺はされるがままにソファにポスリと腰を落とす。イコさんはそのまま床に膝をついて、ソファに座った俺を下から覗き込んで話しかけてくる。
「ズ、ボン、よごれ、ます、よ」
「今気にすることやないやろ。なんで泣いとるん? なんか嫌なことでもあったん?」
俺は首を左右に数回振る。喋るよりもジェスチャーの方が幾分も楽だった。内部通話が使えればいいのだが、あいにくイコさんは換装しておらず、それを使うことは不可能で、肉声で喋る他なかった。
「じゃあなんや、嬉しいことでもあったん?」
俺はもう一度首を左右に振った。嬉しくて泣いたのなんて、病気で活動を休止してた俺の大好きな落語家が復帰した時ぐらいだ。あれを超える喜びを、俺は最近経験した覚えはない。
「でもなんもなしに泣くやつおらんやろ」
今目の前におるんですよ、イコさん。という俺の心の声が空気を震わせることは無かった。言葉にする代わりに、ズッと鼻を啜ったからである。
前言撤回。俺はさっき頭の中で思ったことを取り消す。
鼻水なんて出てこなくて良かったのに、ここにきて鼻水まで出てくるようになってしまった。みっともなく鼻水を垂らすわけにもいかず、スンスンとすする羽目になり、上手く喋ることができない。涙だけなら話せないこともなかったのに、鼻水が加わったせいで話すのも困難になってしまった。涙だけの時喋りやすさがなつかしいぐらいだ。五十歩百歩、どんぐりの背比べってやつだとしても、鼻水はそれぐらい喋りにくくてめんどくさい。
無駄な技術力に感心を通り越してもう呆れの領域である。
そんなことを思っていても、涙は変わらず出続けるし、鼻水も出る。
「ほん、まに、なんも、ないんで、すってば」
「ほんまになんもないのに泣いとるん?」
そう言うイコさんは俺の言葉を全く信用していないみたいで、訝しげな目で俺を見る。そりゃそうだ。俺だって涙ポロポロ流して、鼻水スンスンすすってるやつがいたら、なんかあったんやろか、って思う。何もないのに涙を流すやつがいるなんて普通思わんからな。でも今はおるんですよ、イコさん。
瞬きして弾き出された涙が頬を伝っていく。一回の瞬きにつき一粒の涙だ。まあ瞬きをしなくても、目の淵に溜まった涙は、表面張力で形を保てなくなったら勝手に頬を伝って、隊服に黒い染みをつくってく。涙で黒く濡れた跡ができた隊服を見て、後でさっき涙が落ちた床拭かなあかんな、と思った。
「水上ほんまになんもないん?」
イコさんがまた聞いてくる。涙でぼやけた視界でも、イコさんが見たこともないような心配そうな顔をしていて少し笑いが溢れた。
「敏志君? 何わろてんねん。俺めちゃくちゃ心配してんねんけど」
いや、ちゃうくて。笑っとるのはなんもちゃうくないんですけど、けどちゃうくて。なんて言い訳にもならない言葉がつらつら頭に並べられる。並べられるだけで、喉から出るのはしゃくりあげる音だけだから、イコさんには届かない。
イコさんはどうしたらええんか分からんくなって、迷子の子どもみたいな顔してる。親指の腹で頬伝ってる涙を拭ってくれた。
内部通話が使えればいいのに、と思ってもイコさんは換装してないからそんなの出来ない。
それなら携帯に文字打ち込んで会話すればええやん、と思いついた俺は、涙が出続けるなんていう摩訶不思議な出来事の当事者であるにしてはとても冴えていたと思う。
イコさんに『そこのカバンの携帯取ってください』 とお願いするよりも先に、カシャンと音を立ててドアが開いた。
俺もイコさんも条件反射でそっちを見ると、仲良く三人揃って、海、マリオ、隠岐の順番で中に入ってくるところだった。
「ただいまー!」
元気のいい挨拶の後ろで隠岐が間延びした声で「ただいまぁ」と言っている。マリオは「声でかいわ」と海に言ってから、続けて小さな声でただいま、と言った。
俺はおかえり、の代わりにスンっと鼻をすすった。
「ちょ、こっち来て。水上がおかしなってんねん」
イコさんが立ち上がってそう言った。
いつも返ってくる「おかえり」では無い言葉に、三人はゾロゾロとイコさんのそばに集まってくる。
ひょっこり、とイコさんの背中から顔を覗かせたのはやっぱり海が最初だった。
海はそのまま俺の隣にボスっと勢いよく座る。そして年下ん子らに泣いてる顔見られるのはさすがに恥ずかしいわ、と俯いていた俺の顔を覗き込んでくる。
「えっ? 水上先輩泣いてるんですか!?」
海の声を聞いて、隠岐とマリオも「水上先輩が!?」と天地がひっくりかえったのを聞いたみたいな声を上げて、ひょい、ひょい、と俺の顔を覗き込んでくる。そんな見せもんやないねん、そう言おうとしても、漏れるのはヒグッというなんとも情けないしゃくり上げる音だけだ。
ほんまにどこまでリアルに寄せてんねん。トリオン体に泣くなんて機能をつけた、開発部の誰かに悪態をつく。どうせ聞こえてないから何を言ったって構わない。
「何かあったんすか?」
「でも先輩、学校でいつもとなんも変わりかなったですよ」
「イコさんなんか理由聞いてへんの?」
「聞いてもなんもない、しか返さへんねん。それにさっきから泣いてて喋れへんのか、声も出さんくなってまったし。あ! でもさっき笑っとったで」
「笑っとった? 泣いとるのに?」
「おん」
「いや泣きながら笑うって意味わからんやないですか」
「はい!」
「はい、海君」
「オレ嬉しい時泣きますよ! それじゃないですか?」
「俺もそれ聞いたんよ。でもちゃうって」
「えー、じゃあなんでなんだろ」
「先輩ほんまになんもないんですか? 学校からここ来るまでの間とか……」
隠岐の問いに俺はふるふると首を振る。ほんまになんもないから首振ることしかできない。
三人は話しながらも、色々やってくれた。隠岐は手に持ってたココアを渡してくれた。じんわり暖かくて、ここに来る前に買ったやつっぽかった。自分で飲まんでええんか、と聞こうとしたが、鼻をすすることしか出来ずに、結局ココアは俺の右手の中に収まった。
マリオはマリオがよく使ってるひざ掛けかけてくれた。濡れるけどええんか?って聞きたかったけど、そんな言葉よりしゃくり上げる音のが先に出た。可愛らしい花柄の膝掛けが、俺の膝にかかってるのは、あまりにも似合わんくてちょっとおもろい。
海はずっとセーターの袖伸ばして頬に伝った涙抑えててくれてる。高校に入って一年も経ってないのに、もう既にボロボロの袖に吸い込まていく涙が、海のお母さんに申し訳なかった。
イコさんは相変わらず迷子の子どもみたいな顔で俺の手をずっと握ってる。ココア持ってない方の手を、床に膝ついて握ってる。海が抑えてない方の頬に伝う涙を、たまに親指でら拭ってくれる。そういうとこ見せれば女の子にモテますよ、と言おうと思ったが、やっぱり上手く喋れなくてやめた。
ここまでしてもらって、ただのトリガーバグです、なんて言うのが忍びなくて、逆になんかもう別の理由あった方がいい気がしてきた。アンチボーダーの市民に暴言吐かれたとか、学校でいじめられたとか。その程度で泣くようなやつやない、って俺やなくても分かってるだろうけど。
「てか水上先輩話せなくても、トリオン体になれば内部通話で会話できるんちゃうん?」
そんなことを思ってた矢先、マリオが俺が考えてたことまんまの提案をしてくれた。それや!それが言いたかってん!!っと喋ろうとして短く空気が漏れた。代わりに膝を叩こうとしたが、右手にココア、左手はイコさんに拘束されてて出来そうになく、大人しく全員が換装するのを待つことにした。
『――ってわけですわ。面倒かけてすんません』
「面倒やなくて心配な。ほんまびっくりしたわ」
『イコさん迷子の子どもみたいでしたよ』
「迷子の子どもみたいなイコさん見てみたいなぁ」
『イコさん前で泣いてたら見れんで』
「ほんまですか? 今度泣いてみよっかな」
「泣かんで? ほんまに心臓止まるかと思ったんやから。で、トリガーのバクでええんなやな?」
『そんな何回も聞かんでもええでしょ。別に悲しいことも嬉しいこともなーんもありませんよ』
「嬉しいことないんですか?」
『泣くほど嬉しいことがないっちゅーことやで、海。普通に嬉しいことならあったわ。昨日冷凍うどんがめちゃくちゃ安かってん』
「水上先輩またうどんばっか食べてるんですか? ちゃんと食べなあかんですよ」
『隠岐に言われた無いわ。どうせお前もおでん生活やろ』
「隠岐も水上先輩もそんな変わらんわ」
「マリオは厳しいなぁ。でもおれはちゃんと朝ごはん食べてんで。水上先輩は食っとらん」
『あー、じゃあ俺開発室行ってくるんで』
部が悪くなったのを感じて、俺は膝掛けをマリオに、ココアを隠岐に返して立ち上がる。涙は相変わらずポロポロと落ちてくる。鼻水は少し収まっていた。
『……イコさん手ぇ離してくれんと行けんのですけど』
「一人でいくん?」
『? はい』
「あかん。俺もついてくで」
「はいはーい! オレも行きたいです!」
「その二人やと心配やし、ウチもついてくわ」
「一人は嫌なんでおれもついてきますー」
『いやいやいや、一人で行けますけど?』
「開発室の人がトリオン体やなかったら説明できんやん」
『いやなんかに書くなりなんなりして説明できますけど』
「でもそれだと時間かかるやん。俺らが一緒にいって説明した方がはやない?」
『それはそうでしょうけど……』
「もー、うだうだめんどくさいねん。水上先輩涙止めたくないん?」
『いや、止めたいけどな?』
「ならはよ行こや。こんなとこで話してても始まらんで」
「マリオ先輩にさんせーい」
海がバッ、と手を挙げてソファから立ち上がった。
「ほら、はよ行きましょ。先輩」
隠岐がさっきまでココアを持っていた手を引っ張ってくる。イコさんはもう納得したのか、俺の手を離していた。
廊下に出てからあん時ちゃんと断っとけば良かった思ってももう遅い。
ただでさえ普通よりもデカい身長だ。人が多い廊下であっても目立たないわけが無い。それにプラスして、今はマリオが泣いてる顔見られたくないやろ、と頭から被せてくれたタオルがある。正直にいえばアホほど目立つ。
百八十近い身長の男が、頭から薄ピンクのタオル被せて、前後左右を四人で固められていて、目立たないわけがなかった。タオル被さってて前上手く向けないから、って海が手を引いてくれてもいる。ありがたいがもっと人通りの少ない道を通って欲しいところではある。多分海が人通りの少ない道通って行こうとしたら、迷子になると思うからいわんけど。
極めつけに俺らの隊服だ。俺らの隊服は赤色が基調となっている。C級隊員の方が人数が多いボーダー本部では、C級隊員の白いジャージの中にある赤い隊員はそれはもう目立つ。目立ちまくりだ。
海もイコさんも隠岐もマリオも、そんなこと全く気にしていないのか、最近何で泣いたか、なんて話をしている。
イコさんが最近泣いたのは、レモンを切っていたら目にレモンの汁が入ったことらしい。正直に言うと、レモンの汁が目に入って悶絶するイコさんの表情筋がどうなっているのかは、とても気になるところだ。
四人の話を聞き流しながら、せめて同い年の特に同じクラスのやつらとか、王子とか王子とかには会わないように、と信じてもいない神に祈りながら、海に手を引っ張られるまま足を進める。