恋と呼ぶにはまだ全然早い。 「せっかくの短縮授業の日に手伝って貰っちゃって、悪いな。助かったぜ、ありがとな、真面目ちゃん」
ニカッという音が聞こえそうな顔で御影先生が笑う。
大人の男の人がこんな風に笑うんだ。
通学途中、声をかけられた時の笑顔にドキリとしたことを思い出す。
「いえ、大丈夫です。特に用事とかなかったですし。先生一人だとこの量の後片付けは大変だと思いますよ。」
・ ・ ・
親睦を深めるという名目で開催されたクラス毎のオリエンテーリング。
体育館でドッチボール大会を行うクラスや図書室で謎解きゲームを行うクラスもあるみたいだったけど、わたしのクラスは理科室が会場だった。
理科室はお湯が沸かせるからな、お茶が飲めるんだぞ、と言いながらイタズラっぽく笑う。
各テーブルに大きな三角フラスコやアルコールランプなどのお馴染みの実験器具とティーバッグが人数分、おそらくカップ代わりのビーカーが用意されていた。
「先生、お茶だけー?」
「お茶請けのお菓子はないのかよー」
「まさかこのビーカーがカップ?」
と、ざわめくクラスメイトの顔を見渡しながら、ふふんと小さく笑った。
「実は、…ある。氷室教頭には内緒だぞー」
先生が言った途端、歓声があがる。
「さすが、御影っち」
「先生大好きー」
「あー、こらこら、しぃーだ、しぃーっ、しぃーっ」
御影先生が慌てて人差し指を唇に当てる。
「静粛に!一体何事……。 御影先生……オリエンテーリングとは言え、あまり羽目をはずし過ぎないように」
「ほらな、こうなることは分かってたんだよ、だから初手からお菓子は配らなかったの。おまえらはしゃぐのはいいが、静かにはしゃげよー」
矛盾した注意のあと始まったリクリエーションのお絵描き伝言ゲームでは、
多分…御影先生が一番はしゃいでいた。
なんか可愛いな。
可愛いなんて変かな、大人の男の人なのに。
次のゲームのために配られた3×3の9マスの用紙は、真ん中に、BINGOという文字とモーリィちゃんのイラストが書かれていた。
「なにこれ?」
「ビンゴゲーム?」
「でも数字書いてなくね?」
それは、真ん中以外が空白になっているマスに先生の好きな料理を予想して書いていくというビンゴゲームだった。
先生の、大人の男の人が好きな料理なんて全然分からない。うちのお父さんが好きな料理とは違うだろうし。
そもそもそんなに一生懸命お手伝いをしたこともないわたしはたった8種類の料理名をひねり出すだけで結構時間がかかってしまった。
結局カレーやハンバーグみたいな小学生の男の子が好きそうなお料理でマスを埋めてみたら、思いがけず一番最初にビンゴになってしまった。
一位の景品は、園芸部の畑で育てていたプチトマトを株分けしてくれた苗で、プランターが重いので帰りは先生が送ってくれることになった。
「送っていくからって、小波さんに手ー出したらダメですよー」
と御影先生をからかう声に、わたしの方が変にドキドキしてしまう。
・ ・ ・
「おまえは本当に真面目でいい子だなー。プランター持っていくのに送るからって、後片付けまで手伝わされて。他の生徒なら多分、お礼に試験範囲を教えろーだの、課題提出を見逃せーだの、何かしらの見返りを求めて詰め寄ってくるとこだぞ。」
「うーん、それじゃあ…わたしも何かご褒美のオネダリ考えてみますね。思い付いたら言います」
「おお、そうしろ、どんと来い。ただし、無茶なことは言い出さないでくれよ。先生とデートしてみたーいだの、キスして欲しーいだの、女子はすーぐそういうこと言い出すからな」
先生の軽口を聞き流しながら、洗い物を片付けていく。
(え?)
「先生…き、キスって……」
思わず声が震える。女子はすぐそういうことを言い出すって、まさか先生と?
「あー、いや、ごめんごめん。そんな真剣に受け止めるとは思わなかった。冗談だ、忘れてくれ」
髪の毛をくしゃくしゃと搔き、そのまま頭を深く下げられる。
「あっ、じょ、だんですね、すっ、すみません、わたし分からなくて…」
やってしまった…ただのいつもの冗談なのに真面目に反応してしまった…。
洗い終えたビーカーを棚にしまいながら、まだドキドキしている胸の高鳴りを落ち着かせる。
カタカタカタカタ
開けっ放しのガラスの扉と中のビーカーやフラスコが小さな音を立てる。
ぐらり、視界が揺れ、一瞬貧血かと思う。そのまま立っていられないくらい左右に揺さぶられ、膝から崩れ落ちそうになる。
「小波っ!」
大きな声で名前を呼ばれ、強い力で腕を引かれる。
その瞬間扉から飛び出してきたビーカーやフラスコが床に叩きつけられ、ガチャンガチャンと音を立てて割れた。
先生の腕の中で頭を庇われ抱き締められた姿勢のままで揺れが収まるのを待つ。
時間にしたら多分5分にも満たないはずなのに、恐怖のせいか、それとも別の感情のせいなのか、すごく長く感じた。
「大丈夫か?」
ようやく揺れが収まったあと、
耳元で響く先生の声に安心して、泣くつもりなんかなかったのに、鼻の奥がツンとして、涙がこぼれた。
先生の大きな手が、まるで小さな子供をあやすように背中を撫でてくれるから、なかなか泣き止むことが出来なかった、そして泣き止んだあと、高校生にもなって、しかも学校の先生の前で泣いてしまったことが気恥ずかしくて顔を上げることが出来ない。
絶対からかわれちゃう、そう思ったのに見上げた先生の目があんまり優しいから驚いて、心臓がどくんと大きく跳ねた。
「びっくりしたな、大丈夫か?」
もう一度ゆっくり声をかけられて頷く。
理科室の床に散乱したガラス片が地震の凄まじさを物語っていてまた足がガクガクと震えだす。
「せっかく洗い物手伝ってくれたのになー、ごめんな」と先生が頭を撫でてくれる。
「先生のせいじゃないです、地震ですし。あ、ガラス…片付けないと」
「片付けは明日にする、おまえにケガさせる訳にはいかないしな、余震も怖ぇし、送ってくからもう帰ろう」
立ち上がりかけたわたしを制した先生の腕にうっすらと赤い血が滲んだ小さな切り傷があった。
「先生がケガしてますっ」
「いや、おまえ大袈裟な。こんなのケガのうちに入んねぇだろ」
「待ってください、確か持ってるはず……あった!」
スカートのポケットから出した絆創膏をペタリと先生の腕に貼る。
「こりゃまたラブリーだな、ピンクのチューリップって」
「ふふっ、先生お似合いです」
「言ってろ」
わたしの頭をくしゃっと撫でながら先生が笑う。
その瞬間、胸の下辺りがきゅっとなる。
まだ地震のあとで落ち着かないからかな?
それともお腹が空いたとかかな?
「ほら、帰るぞ」
そう言って笑う先生を見て、わたしの鼓動がまた早鐘を打ちはじめた。