畏懼する英雄非番の度に自室に戻るとヤツは居る。何事もないような表情をして、壁に貼られた、もう剥がせなくなってしまったポスターをみつめて振り向く。
「ああ、半田おかえり」
その度に俺は自分の手が震えるのが分かった。今日のヤツは学生服を身にまとっている。きっと昼間に同じような服装をした集団を見たからだろう。何故俺がこんなにも戦慄くのか、それはこの男が、ロナルドがもうこの世に居ないからだろう。
「また俺を糾弾しにきたのか」
「俺がそんなことするようにみえるか? ただ会いに来ただけだよ」
「……貴様が居なくなってから新横浜は大騒ぎだ、吸対も忙しくなった」
「でも今日は非番だろ?」
「本当は休んでいる暇もないが、休めと言われてしまったのでな」
俺とロナルドの距離は丁度1m。お互いに手を伸ばせば届く距離だが、どちらもそれをしないのは意味がないことに気が付いているからだ。本当は、俺は触れたかった。温度を感じたかった。存在を確かめたかった。だが、それは無理な話だと知っている。目の前で陽光のように笑う男は、俺が見捨てた命なのだから。
「仕方ないよ、あの状況なら俺を捨てた方が多くの命を助けられた」
「捨てたつもりなど」
「そうだな。でもあの時に俺を救えたのはお前だけだったよ」
心に黒い楔を打ち込まれる。A級吸血鬼が複数体、新横浜を襲うと連絡が来て、俺とロナルドが同じチームに配属されて、そして。期間は短かった。市民への協力を求める時間も足りなかった。準備が不足していた。
「それを理由に逃げるのかよ」
「違う、違うのだ……俺は、お前にも死んでほしくなかった」
「分かるよ」
何が分かる、と目の前の幻影を見つめる。先日は退治人見習いの姿で、その前は恐らくロナルドが成長したらこのような姿になるのだろうという風貌で現れては俺の心を乱す。その時は吸対の仮眠室で出会ったのだと思う。じゃあな、と言うロナルドに、行くなロナルドと返したら、目の前にヒヨシ隊長が居て「有休を取れ、おみゃあも休まなきゃいかん」と告げられたのだ。
「ロナルドは、死なないと思って託したつもりだった」
「そうだよな……俺も、お前に頼られたと思って嬉しかったよ。でもダメだった」
「俺は何をしたら赦されるんだ」
「もう俺は赦してるよ」
「なら、何故、悪夢のように俺の前に現れるッ……」
その問いには答えないでロナルドはこちらに近付いてくる。1mの壁を越えて、温度のない指先で頽れている俺の髪を撫でた。何もない空虚な苦しみは俺を苛む。学生服を纏っていた頃のロナルドが言っていた内容が反芻された。
「擦り込みってあるじゃんか」
「ああ。関連付けのようなものか」
「そんな感じ、怖いものとか苦手なものを状況と関連付けされると、拒絶に変わるっぽいんだよな」
「……なんで俺にそんな話をする?」
「オメーが悪魔の緑を持ち込んでから俺の中でソレの存在感が悪化したからだよバーカ!」
この時の俺は、いつか自分の判断で目の前の存在を失う恐怖も感じていなかったのだろうと思う。知っていたら、もっと他愛無い日々を大事にしただろう。嫌いなものを与え、醜態を晒すという名目で色々な表情を眺めることを愛おしいと思わなかっただろう。好きだと、告げていただろう。だが、あの事件の中で俺は逃げる民間人を優先した。戦えた人数は多勢に無勢だった。局所的な攻撃を仕掛けてきたことから、狙いは散らばって警備している合同本部を確実に潰すことだと理解は出来た。だからこそ、散らばらずに固まれと無線で指示を送ったのだ。こちらは俺とロナルドでなんとかすると。だが、ロナルドは俺に言う。
「お前はそっちちゃんと逃がせよ! お前は俺が守るから!」
「だれが貴様なんぞに守られるか、それに民間人を優先するのは当たり前だ」
その場を離れたのは3分から5分程度だと思う。吸対があらかじめ避難スポットとして用意していた場所が近かったからだ。だから俺もロナルドの元に向かい、共闘をしようと刀を抜いた。けれど、もうその場には静寂しかなく、ただ中央に赤い退治人服が地に伏せていた。
「ロナルドッ……!」
駆け寄って、触れる。湿った感覚に手を見れば深紅よりも濃い赫の色。血の香り。頭の中が真っ白になった。脈を確認して、信じられないとばかりに心臓にも手を触れる。音は、何もしなかった。徐々に状況を理解してきた俺は慌てて吸血鬼ドラルクに連絡をした。今日の仕事についてはヤツも知っているはずだろうと、ダンピールの俺には出来ない延命方法を吸血鬼なら知っていると、一縷の望みだった。だが、帰ってきた答えはNOだった。
「命の重さって、吸血鬼やダンピールとか、人間とか、入り混じってるから複雑だけどさ。無くなったら取り戻せないんだよ。まだ僅かに残ってるなら、そりゃ私もロナルド君を噛むよ。適合できるかは分からないけど、でも、もう消えているんだろう灯は」
そうか、ロナルド君が。という言葉は俺の心に入ってこなかった。ただ、俺が見届ける間もなくコイツは死んだ。通夜にも葬式にも顔を出した。ずっと俺の周りには、俺が救えなかったロナルドが見えていた。何事もなく話しかけてくるのだ。
「今日は何か面白いことあった?」
「隊長さん元気? あと、ドラ公とまだ連絡とってる?」
「俺はさ、お前には生きてて欲しかったんだよな。多分あそこで死ぬかもって分かってても」
そして最後に毎回一言。
「でも、あの時の俺を救えたのはお前だけだったんだよ」
抱きしめれば消える、その程度の存在だったのに。ヤツが俺の前に顔を出す頻度は高くなっていった。俺が一人じゃない時でも、ロナルドは楽しそうに俺に纏わりついてくる。怖ろしくなった。段々、世間ではロナルドの話はされなくなっていった。ロナ戦の話は愛好家の中で、まるで聖書のように扱われ、出版社は死者の本の権利関係を定めていなかった為に絶版とすることにしたらしい。だからこそロナ戦はプレミアの価格がついた。全ての状況に一段落がついた頃合いに、本部長から俺に勲章が授与されるから式典に出てくれと通達があった。何もしていない、何も成せていない、本当に守りたかったものを守れなかったのに。だが、断言のように告げられた物言いに渋々了承をした。勲章は死者ではあるが、ロナルドにも与えられるらしい。学生時代からお揃いなんて一度も付けたことがなかったのに、死んでからお揃いのものが与えられるなんて滑稽だ。俺を苛む声に、俺は怯えていた。怖ろしさよりも悍ましさが強かった。
「半田 桃。貴君をA級吸血鬼戦にて市民の安全を守り新横浜に貢献したことに対し、この勲章を授与する」
そう言われ、式典の壇上に上がり一枚のペラペラの紙に書かれた長ったらしい俺の後悔が綴られた賞状と隊服に着けるバッチが贈られた。ただ、あの場面では俺はああすることしか出来なかった。その場の判断は間違っていなかったと思う。ただ、一人を失った悲しみだけが俺を付きまとう。壇上から、この式典に来ている人たちを見渡す。そこの一角に銀の髪に青い瞳をした俺を嗤う男が一人、微笑みながら拍手を送っていた。駄目だ、と思ったのは一瞬で、その時に俺の中の擦りこみは完成されたのだと思う。硬直した俺を心配した周囲の人間が俺の名を呼ぶ。
「半田?」
「どうした、半田」
「半田君……?」
その中で、通る声が俺の心に直接響く。死んだ人間から一番に失われると言われる「声」がずっと俺を追い回すように、優しい声で詰る。
「ごめんな半田、やっぱ赦せねえわ」
そう言われることが、一番の救いなのだと思ってしまう己がとても悔しい。喉の奥からせり上がってくる恐怖は肉体に通じ、嫌悪と困惑となって吐き気へと変わる。賞状を僅かにぐしゃりと握りしめ。俺はしばらく何も食べてこなかったことにより、胃液だけになってしまった液体を吐き出した。式典はざわつくが、それでも俺はロナルドの幻影に苦しんでいる。だが、同時に、消えないでくれと思ってしまうのも俺の弱さなのだ。市民を助けた、吸血鬼達の性質を理解して本部に伝えて退治への足掛かりを作った。そういう点から、俺は英雄と呼ばれるようになった。もうロナルドおじさんとは、呼ばれなくなってしまった。ただ、一人。この手で救える命を見捨てたことを、悔い続けていくことが、おれの償いなのだろう。ロナルドが俺の隣で笑う。
「ずっと、俺を見ててくれよ」