カメレオンの残像郵便局を出ると、雨が降っていた。
あらら、と呟きつつも栗山緑はバッグから折りたたみ傘を取り出して素早く広げる。『降りそうだから持って行きなさい』と助言してくれたボスに感謝しながら。
事務所へと戻る道中、ふと路地の奥へと視線が吸い込まれた。グレーのスーツ姿の男性が鮮やかなブルーのワンピースを着た茶髪の女性の手首を掴み、何やら言い争っている。二人とも傘もささず、ずぶ濡れだ。
眉をひそめた緑はスマートフォンをバッグから取り出した。嫌がる女性に無理強いをしているのなら法に関わる人間ーー弁護士事務所の事務員として見過ごす訳にはいかない。
いつでも110番を押せる用意をして路地に踏み込む。少し距離を詰めると雨に濡れた男性の髪が金色であることに気がついた。女性のほっそりとした手首を掴んでいる大きな手が褐色であることにも。
ぴたりと足を止めた緑の耳に、「……もう、私のことなんて、放っておいてよ……!」と女性の震える声が届く。その声には恐怖や嫌悪という感情は微塵も含まれていなかった。放っておいて、と言いつつも捕まえていて欲しいのだ、と同性である緑にはその女性の真意が分かった。
「嫌だ」
低い声が響くと同時に二人の影が重なる。
緑は慌ててくるりと方向転換し、駆け出した。
「栗山さん、おかえりなさい。降ってきちゃったわねえ。やっぱり傘持って行って良かったでしょ?……あら、どうしたの?」
事務所に戻った緑の顔を妃英理弁護士はまじまじと見た。
「顔が赤いわよ?そんなに外は蒸し暑かった?」
「え、いえ……。走ったんで、暑くなって」
「いやあねえ、そんなに急いで戻らなくても良かったのに」
朗らかに笑う英理に、緑は「……そういえば、先生は安室さんと面識がありましたっけ?」と尋ねる。英理は目を丸くした。
「安室さん、ってあの喫茶店の店員さんだった人?確か三流探偵の弟子もしてた」
「え、ええ」
「直接は会ったことは無いけど、うちの人や娘から話は聞いていたわ。その安室さんがどうかしたの?少し前に遠くに引っ越したって蘭から聞いたわよ」
別居中の夫を『三流探偵』と揶揄しながらも『うちの人』と呼ぶボスの可愛らしさに頬を緩めつつ、緑は「さっき、似た人を見たんですよ」と説明する。
「似た人なの?本人じゃなくて?」
「ええ、たぶん……。顔や背格好はそっくりだったんですけど、服装とか雰囲気とか行動とかが全然違っていて……」
「服装や雰囲気が違うっていうのは分かるけれど行動って?その安室さんに似た人、何をしていたの?」
その英理の問いに、再び緑の顔に血液が集まった。
「な、何でもありません……!業務に戻ります。すみません、無駄話して」
「え、ちょっと、栗山さん」
「家裁に提出する上申書と事務報告書、今日中に仕上げますので確認と押印お願いします、先生」
ちょっと話を途中で終わらせないでよ、気になるじゃない、という英理のクレームは無視して緑はパソコンのキーボードに指を落とした。
チリン、という心地良いドアベルの音と同時に「いらっしゃいませー!」という看板娘の元気な声が上がった。
「あら、緑さん。お仕事お疲れ様です」
「久しぶり、梓ちゃん。えーと、ナポリタンとアイスコーヒーお願いします」
はあい、お待ちくださいね、とにこやかに返事をして梓は水を運んできた。汗のかいたそのグラスを口に運ぶと緑ははあ、と息を吐く。
雨が降っているせいが喫茶ポアロの店内には客の姿が無かった。鼻歌を歌いながらフライパンに玉ねぎやピーマンを投入する梓に「……ねえ、梓ちゃん。ちょっと聞きたいんだけど」と話しかけた。
「ん?何ですか?」
「安室さんて、梓ちゃんから見てどんな人だった?」
梓は垂れ気味の瞳を細めると「安室さん?そうですねえ……」と数ヶ月前まで隣で働いていた同僚の人物像について話し始めた。
「料理上手で、気が利いて、紳士的で、運動神経も良くて、」
「そうだよねえ。そんな人だったよねえ」
次々と梓の口からこぼれる賛辞の言葉に緑も大きく頷いた。緑の目から見た安室透も、いつも柔和な笑みを浮かべた誰にでも分け隔てなく優しい人だった。昼間路地で見かけスーツ姿の男とは正反対の。
やっぱりあれは別人だったんだわ、と結論付けようとした緑の耳に「……と思ってたんだけど……」という梓の声が届いた。いつもの彼女らしからぬ神妙な表情と声音だ。
「今はね、安室さんてカメレオンだったのかなあ、だなんて思うんですよ」
「……カメレオン……?」
意外過ぎる単語に緑は瞳を瞬かせた。梓は具材とケチャップを炒めたフライパンに茹でたてのパスタを加えて手早く混ぜる。クリーム色だった麺が瞬く間に赤く色を変えた。
「周囲の色に馴染むのが上手い人だったんじゃないかな。本当の安室さんは私たちに見せていた姿とは全く違う色をしてたのかもしれないなって、最近思ったんです」
「…………」
「はい、ナポリタンお待たせしました!ごめんなさい、変なこと言っちゃって」
照れたように笑う梓に緑は曖昧に笑ってみせた。
「ううん、こっちこそ変なこと聞いてごめんね。いただきます」
アイスコーヒーを淹れ始める梓にそう言うと緑はフォークに真っ赤な麺をくるくると巻き付けた。梓が作ったナポリタンは安室が作っていたものとレシピも材料も同じはずなのに、より家庭的で優しい味がする。
シトシトと窓の外で降り続ける雨を眺めながら、緑は昼間目にした光景を思い出していた。
濡れた青いワンピースの腰を右手で強引に抱き寄せ、白く小さな顎を左手で持ち上げて噛み付くようなキスをしていた安室に似た男。
雨粒が滴る金色の髪からのぞいていたその瞳は、見たことのない色をしていた。