告白と邂逅(降志) 十四歳のとき、私は母に聞いた。
「お母さんは、どうして私を一人で産んで育てようと思ったの?」
中秋の名月の夜だった。受験勉強で疲れていた私を「お月見しない?」と、母は部屋から連れ出した。リビングの電気を消して、カーテンを大きく開け放つ。まぶしいほどの満月の光が部屋に差し込んで、ベランダに面したガラス戸の窓枠がくっきりとフローリングの床に映し出されていた。今まで何となく聞けなかったことも、今夜は聞ける気がした。
「気を悪くしないで聞いてね」
母はそう前置きをして語り始めた。
「避妊に失敗したの。それで、あなたができた」
いきなりの生々しい話に面食らう。それと同時に、母が本当の話をしても大丈夫だと判断してくれたことに背筋が伸びる。
「え、スキン付けなかったってこと?」
「もちろん付けてたわよ。でも、途中で破れた」
「そういうこともあるんだ……」
驚く私に、母は微笑みながら言った。
「そうよ。あなたも気をつけなさい」
「いや、まず相手がいないから」
「突然出会ってしまうこともあるから、心づもりだけはしておきなさいってこと」
月光で緑に光る母の目は真剣に私を見ていた。母にとっては、“彼”がそういう相手だったのだろうか。
「翌日、アフターピルを飲んだ。当時は仕事が軌道に乗ったばかりで忙しくて、生活も不規則だったし、妊娠なんてしないと思ってた」
「でも、できちゃったんだ」
「そうね。妊娠が分かったときは茫然自失だったわ」
ふとわいてきた疑問をそのまま口にする。
「どうして堕さなかったの?」
「さらっと聞くわね……」
「だって、気になるし」
母は月を見ながら言った。
「会ってみたくなったの、あなたに。アフターピルでの非妊娠率は九十パーセントを越えてる。あらゆる可能性をすり抜けて生きようとするあなたが、どうしようもなく愛しく思えてしまった」
「私、すごいね?」
「そう、すごいのよ」
二人で顔を見合わせて笑った。
「相手はどうしたの?」
「彼は誠実だった。悩んでいるようだったけど、結婚しようって言ってくれたわ。でも、私が断った」
「どうして?」
「彼には成し遂げなければならないことがあったから。家族をもったら、それは難しくなる」
そういうこともあるのだろうか。ドラマでも漫画でも小説でも、愛する人とはともにありたい、添い遂げたいという描かれ方が大半だ。でも、母はそれを選ばなかった。
「寂しくなかった?」
私は知っていた。母がたまに机の奥にある小さな木箱を取り出して、じっと眺めていることを。その中にはダイヤモンドがはめ込まれた指輪がそっと収められていることも。そのときの母は、母親でない“宮野志保”の顔をしていた。
「全く寂しくないといったら嘘になるけど、私は周りの人に恵まれていたから」
それはそうかも、と私は思った。阿笠博士、蘭さん、新一さん、真純さん、秀兄……母と私の周辺にはたくさんの人たちがいて、あれやこれやと世話を焼いてくれた。仕事が忙しい母の代わりに夕飯を作ってくれたり保育園のお迎えに来てくれたり、思い出はあり余るほどにある。
「何より、あなたがいてくれたから。毎日が慌ただしくて愛おしくて、寂しさなんて感じる暇もないわよ」
母のやわらかな笑顔を、満月の光が照らし出す。鼻の奥がつんとして、涙があふれてしまう。膝を抱えて顔を隠す私の肩を抱いて、母はささやくように言った。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
そして、その日は突然に訪れる。
「彼があなたに会いたいって言ってる。どうする?」
「会う」
答えは最初から決まっていた。
残暑厳しい初秋の昼下がり、待ち合わせのカフェに入った。母はどうしても外せない仕事で遅れてくるという。かえって好都合だと思った。
案内された個室には“彼”がいた。私が部屋に入ると、彼は立ち上がって言った。
「こんにちは」
「あいさつの前に、一ついいですか?」
「うん?」
「一発殴らせてください」
そう言って、私は右手で彼の左頬を思い切り引っぱたいた。さほど間を置かずに、赤い掌型の跡が浮き上がる。警察官である彼にとって避けるのは造作もないことだったろうから、甘んじて受けたのだと思った。
「本当に、すまなかった」
その人は深々と頭を下げた。金色の髪に褐色の肌、青色の瞳が印象的な彼は以前四十代だと聞いた気がしたが、どう見ても三十代前半だ。
「やっぱり降谷さんだったんですね」
「知ってた?」
「はい」
「どうやって?」
スカイブルーの目が射抜くように私を見た。
「母を付けました。新一さんに尾行方法を教わって」
「なるほど」
降谷零とは、何度か会ったことがあった。母の職場にものを届けに行ったとき、仕事の関係者だと紹介された。そのときは、目を引く容姿の人だなと思った程度だった。
去年、母に出生時の話を聞いてから、私はどうしても自分のルーツが知りたくなった。仕事だと言いながら、母はいつもより身支度に時間をかけることがあった。そこで、名探偵だという新一さんに頼み込み、尾行の方法について細かく教わったのだ。母がたまに出入りするマンションから彼が出てきたとき、予想は確信へと変わった。
彼と私は互いに向かい合い、ソファー席に座った。彼にすすめられて、メニュー表を見る。人気だというフルーツパンケーキとアイスカフェラテを注文した。
「帝丹高校合格、おめでとう」
「ありがとうございます」
「制服、昔のままなんだね」
そう言って、彼は懐かしそうにこちらを見る。緑のネクタイに青のスカート、夏服のクリーム色のベストは涼しげだが、汚れが目立ちやすい点が玉にキズだ。
「志保さん、喜んだろう」
ソファーにもたれかかって、彼が言う。その目が穏やかに細められる。母のことをどう思っているのか聞こうと思ったが、あまりに明白なので止めておいた。
「彼女は日本の高校の制服を着ることがなかったからね。自分のことのように嬉しかったと思うよ」
母は長くアメリカに留学していたと聞いていた。学校は向こうで通っていたらしい。あまりいい思い出がないのか、母はあまり学生時代のことを話したがらない。ただ不思議なことに、日本の小学校のことは驚くほどよく知っていた。
「私の目の色、降谷さん譲りだったんですね」
「そうみたいだね」
彼の目の晴れた空を思わせる青は、自分が毎日鏡で見るものとそっくり同じだった。
「でも、私に会うときは違いましたよね?」
「念のため、茶色のカラーコンタクトを付けていたんだよ」
へえ、とか、はあ、とか変な声が出てしまった。そこまでしておきながらどうして、という気持ちがわき上がる。
「どうして今回、私に会おうと思ったんですか?」
率直に聞いた。居住まいを正し、真っ直ぐに私の目を見て、彼は答える。
「僕もある程度の地位になって、必要以上に身分を隠す必要がなくなった。何を今さらと思われるかもしれない、ぶん殴られてもう会ってもらえなくなるかもしれない、そう思ったけど……。それでも、どうしても君に会いたかったんだ」
私は思い出す。母が選んだものではないプレゼントが、毎年必ず誕生日に届いていたこと。「お金の心配はないから」と、好きな場所で勉強させてもらったこと。ひとり親家庭ではあったが、金銭面での苦労は不思議なほどしなかった。誰かが助けてくれている、と思った。
「どの面下げてと思うかもしれないけど、これからもたまに会ってもらえるかな?」
「……いいですよ」
私は単純に興味があった。血縁上の父親としての降谷零に。そんな簡単な気持ちでの返答だった。それなのに。
「ありがとう……」
彼は顔を覆って泣いている。大人の男の人がこんなふうに泣くのを、私は初めて見た。呆気に取られて二の句が告げない。ふと私が「お父さん」と呼んだら、彼はどんな表情をするのだろうと思ってしまった。まだ、そのつもりはないけれど。
そのとき、部屋のドアがガチャリと開いて、汗だくの母が入ってきた。カフェの個室で頬を赤く腫らして号泣する降谷さんと、想定外の事態になす術なくぼんやりとしている私。母は困惑したように言った。
「ちょっと、これ、どういう状況?」