六月のパン食い競争 その1~3漆間、襲来 12時50分、水上敏志は猛スピードで廊下を歩いていた。あくまで"廊下を走らない体"を装っているのは、ここが学校であり、彼が三門市立第一高校の一生徒にすぎないからだ。ボーダー隊員の肩書はいまは通用しない。廊下を走っても怒られないのは有事の時だけだろう──などと考えつつ、1階最奥の購買部をめざす。これは4時間目の授業が終わったあとの日課であり、彼は日々の昼食をここで調達している。
ガラガラ、ダンッ。
勢いよく戸を開け放つと、思いのほか大きな音が響いた。室内には20名ほど先客がおり、その目が一斉に水上の方を向く。「すんません」と小声でわびつつ猫背気味に入室すると、さっそく中央のガラスケースを注視する。
ターゲットは上側に置いてあるのが常だが、左右どちら寄りに置いてあるかは日によって変わる。背の高さを生かして索敵していると、上から2段目の右端に「春巻きパン」のネームプレートが見えた。同時に、その奥に狐色の立方体があることも確認する。
(──あった)
だいぶ出遅れたがなんとか間に合ったらしい。水上は安堵した。だが勝負はまだ決まっていない。パンを確保するまでが戦いなのだ。すぐさま頭を切り替え、人と人の間を縫って前進する。
本校の購買部は、「まちのパン屋の割には品数が豊富」ともっぱらの評判だ。パンのラインナップも日によって微妙に違うものだから、何を選ぶかじっくり吟味する者も多い。ゆえに教室に入った順番はさほど重視されず、注文した者勝ちなのがこの店のルールだった。
最前列につくとちょうど店員と目が合った。水上が地元のノリそのままに「お姉さん」と声をかけた、次の瞬間。
「いっだあ"あ"あ"~!!!!」
気がつくと水上は床の上をのたうち回っていた。何がなんだか分からないが、下半身に切り裂くような痛みが走っている。まさか陳列棚が破裂したわけではあるまいが、今しがた、何か硬いものにものすごい勢いで突き上げられたのだ。
平穏な昼さがりの購買に突如おとずれた緊張。"あの"ボーダー隊員の水上さんが、急に大声を出して倒れ込み、ウンウンうなっている。汗だくで口をパクパクさせている様は、さながら釣ったばかりの魚のよう。とても苦しそうだが、誰もその場を動くことができない。何せこの状況に適したふるまいが分からない。なんとも言いがたい、この重苦しい空気を払拭する術が見当たらない。
あるいは、この町のヒーローならなんとかしてくれるかもしれない。お客さまの中に、ボーダー隊員の方はいらっしゃいませんか──? 思わずパン屋が問おうとした、その時。
「春巻きパンおなしゃす。あとたまごパン」
たんたんとした声が室内に響き渡る。
「えっ……ああ、はい。ありがとうございます」
己の本分を思い出した店員は、おもむろにパンを取り出すと、小銭と引き換えに声の主に手渡した。
(っ……漆間……!)
1ミリも現在の状況に関心を向けていないこの男こそが、おのれの惨状を招いた張本人であると水上は理解した。
漆間はおつりに間違いがないか確かめると、スラックスのポケットに勢いよく手をつっこんだ。くるりと振りむき歩きだそうとしたところで、初めて水上の存在を認識する。
「……?」
ボーダーの同僚が転がっている状況が飲み込めず、漆間はごく自然に首をかしげた。首から上にかけて、鈍い痛みがじんわりと広がっていく。手元のパンと水上とを交互に見つめた漆間は、眉をひそめて「ご愁傷様、デス……」とつぶやいた。
(「ご」で始まるもっとふさわしい言葉があるやろ……!!)
漆間の言葉はあくまでポーズであって、本心でないことは明白だった。悪態をつこうにも水上の傷はいまだ癒えず、なんとか発した「う……」の一文字が単なるうめき声として処理されたのも仕方なかった。精一杯の睨みもむなしく、漆間はその場を立ち去った。
事態は再び膠着状態におちいった。やっぱりボーダー隊員を募るしかないの……? パン屋が決断しあぐねていると、
「水上、大丈夫か!?」
松葉色の髪の青年が、部屋に入るなり水上に駆け寄った。次いでソフトモヒカンの大男が険しい顔で入ってくる。「ボーダー隊員の村上さんと穂刈さんだ……!」と誰かがささやいた。
「起き上がれるか、水上」
「頭は打ってないか?」
2人は水上の健康状態を確認したあと人数分の昼食を確保、ぐったりした様子の彼に肩を貸しつつ購買を後にした。この間わずか2分弱、おどろきの手際の良さである。
(さすがボーダー隊員、救命救急なんてお茶の子さいさいなんだ……!!)
天使だ、神だ、英雄だ──その場にいた全員が2人の勇姿をたたえた。この一連の事件はのちに『水上危機一髪』と命名され、一部のボーダーファンの間で語り草になる。余談だが、教室に戻った水上の髪からは異様な量の蒸気がはなたれており、3人を迎えた影浦は思わず「蒸しブロッコリー……」とこぼしたのであった。
◆
あらかた昼食をとり終えた隊員たちは、3年C組の教室で楽しいおしゃべりに興じていた──ただ1人を除いては。机に突っ伏す水上を指さし、影浦が問う。
「で、なんでこのブロッコリーはしなびてんだ?」
「……奇襲を受けたんだ水上は」
穂刈の発言に、水上は思わず上体を起こした。
「なんやポカリ、見とったん!?」
その、驚いたような焦ったような瞳に照準を合わせると、穂刈の脳裏に先刻の光景がよみがえってきた──。
実は穂刈は一部始終を目撃していた。彼が購買に現着すると、ちょうど戦利品片手に帰還する生徒集団とはち合わせた。こういう場合は出る側に道をゆずるのがベターである。窓際に後ずさると、教室から10人ほどの生徒たちが、ぞろぞろのんびりとダベりながら歩いてくる。
人波のすきまから首をふりふり中の様子をうかがうと、穂刈の目が最前列でしゃがみこむ男の姿をとらえた。──漆間だ。どうやら小銭を落としたらしい。つるつるの床と格闘するその様を、たまたま目に入ったからという理由でぼんやりと眺めていた。そんなわけで、後輩ガンナーに迫り来るわさわさ頭の気配に、これっぽっちも気づかなかったのである。
「あっ」と思った時にはもう遅い。水上の人より長い股下に、小柄な漆間の頭がジャストフィット──もとい、ジャストミートしたのである。
いま思えば、すぐに教室に入れば良かったのかもしれない。あの時、あの場所で、あの惨状を打開できるのは穂刈しかいなかった。彼自身それを重々承知していたが、実際そうはならなかった。その腹筋はとうに限界を迎えていたのである。
漆間が平然とパンを注文し始めたのが決定打となり、穂刈は笑い転げた。むろん教室にもれ聞こえないようこっそりと、内からあふれる笑いの大波を、気合いで押し込め笑った。鼻をふくらませ、それはもう盛大に心の中で笑いまくった。オレも床を転げ回ってたんだあの時──なんて、本人には絶対に言えないが。
その後の「ご愁傷様、デス……」が穂刈にさらなる追い打ちをかけた。とはいえ漆間が購買を脱出し、こちらにやってくるのは時間の問題である。少し冷静さを取り戻すと、息も絶え絶えになんとか立ち上がった。さすがはボーダー隊員、緊急時の切り替えはお手の物である。
漆間は、見覚えのある大男が背をまるめ小刻みに震える様をばっちり見た上でスルー。そのまま廊下の曲がり角へと消えていく。数瞬の後、その角から入れかわるように村上が現れた。穂刈はなんとか平静をよそおい水上の救助に参加、そしていまに至る──事件のあらましと穂刈の事情は、おおよそこのようなものであった。
「う~わあ~……アレ見られてたとかマジか。めっちゃ、ハズいやん……」
水上は目を細め、きまりが悪そうにガシガシと頭をかいた。そのいささか大げさな動作からは復調の兆しが読み取れ、村上は内心ホッとする。
全てを知る者がいる以上、もはや取りつくろう必要はない。どうにでもなれの精神で、水上はぽつぽつと話し始めた──。
「つまり漆間のヤローに金的されてしおれてたってワケか、おめーは!」
ケラケラと笑う影浦に、「あんまし傷口えぐらんといてやカゲぇ」と水上。「痛そうだったなあれは……」と穂刈がもらせば、「『デッドボ~~~ル』とか言うてくれたら良かったやーん」と本音半分、冗談半分の策が返ってくる。
「悪いな助けてやれなくて。シンクロしちまったんだ、あれが」
穂刈は神妙な面持ちで己の下半身を見つめた。
影浦と水上と村上は、無言で顔を見合わせるとすぐさま彼に熱い視線を送った。「自分も金的されたように感じられ、身動きが取れなかったのだ」という弁明(※うそ)に、3人とも共感した形である。性格・生い立ち・興味関心……何もかもてんでバラバラな彼らの心が、戦闘外で初めて一つになった瞬間だった。
たとえばランク戦で敵に追いつめられた時。言葉たくみに相手の意識をそらすのは、穂刈の得意分野であった。どうやら水上の信頼を損ねずにすんだらしいと、一人満足する。立て続けに酷使した腹筋を労りなでさすった彼に、「まだ食い足りねーのかおめーは」と問うたのは、お好み焼き屋の次男坊だった。
◆
委員会やら日直やら、とにかく近頃忙しない。これといって用事がない日にかぎって押す授業。定刻に終わったかと思えば話したがりの教師に捕まるパターンもある。たとえば今日がそうだ。落語の知識など披露しなければよかったと、水上はおおいに反省した。
通常昼休みの楽しみとしてカウントされるはずのおしゃべりも、ことパン争奪戦においては足かせにしかならない。一瞬の遅れが敗北に直結してしまうのだ。
そんなこんなで水上は、かれこれ1週間春巻きパンにありつけていない。もう我慢の限界だ、今日こそはと廊下を走った──走ったところで教頭に捕獲された。
(いっつもこのへん先生なんておらんのに。ついてへんわ……)
空腹は時に人を狂わせる。先週までの"廊下を走らない水上くん"はどこへ行ったのか。反省する気なんてサラッサラないが、表面上は笑みをうかべ、お叱りを頂戴する水上である。教頭は「理由くらいは聞いてやる」というスタンスだったため、一発カマしてみることにする。
「先生、この前のオリンピック見ました? 俺、競歩選手目指そー思て」
「一体いつの話をしてるんだおまえは?」
時は2013年の6月。昨年の催事を言いわけに使うのは苦しいし、ネタの鮮度も落ちるというものだ。あきれた様子の教頭に、真面目な顔をつくりうつむいて見せた。反省してます、との意思表示である。とはいえ。
「競歩練習おおいに結構。……でもな水上、屋外でやるべきだとは思わないか?」
この男は案外ノリがいいのであった。
許しを得たと解釈した水上は、顔を上げるなりビクッと体をふるわせた。教頭の背後、廊下の角からニュッと突き出た黒髪の生首と目が合ったのだ。さながらホラー映画だが、相手が分かればなんてことはない。あの妖怪はここ数日間、水上の頭の大部分を──それも悪い意味で占領している後輩に違いなかった。
「うーわ。廊下走って怒られるとか……小学生かよ」
聞かせるつもりで言ったのか独り言をこぼしただけなのか。漆間の真意は定かではないが、その揶揄は水上の耳にはっきりくっきりと届いたのだった。
「コラ水上、聞いてるのか!?」
あからさまに顔をゆがめた水上を教頭が咎めた。
(ええ~、この距離で聞こえんことある……?)
水上は目を見張った。後ろにもっと指導すべきやつがおりますって先生!と念を込めつつ、必死の形相でアイコンタクトを送る。だが、その百面相はかえって「心ここにあらずか? うん?」との言葉を引き出し、無情にもお説教タイムは延長されてしまう。もちろん漆間の姿はいつの間にか消えていて、またしても水上はしてやられたのであった。
その後も愛しの君のために足しげく購買へかよったが、逢瀬はことごとく失敗に終わった。悔しいかな、時折すれちがう漆間の手には高確率で春巻きパン(とたまごパン)が握られており、それがまた水上をイラつかせた。そもそもパンの購入は早いもの勝ちである。そんな当たり前の認識もサッパリ消えうせ、とにもかくにも、漆間にパンをかすめ取られているという考えが頭から離れない。
そして数日後、決定的な出来事が起こる──。
◆
陳列棚にならぶ春巻きパンを見つめながら、漆間は悩んでいた。
(最近このパンばっか食ってるし、他のやつ買うか? でもこれ、揚げ物だから腹がふくれてコスパいいんだよな)
二択の間でゆれていたのだ。ふところ事情に関係なく日々節約がモットーの彼は、今日も真剣に、他の生徒などおかまいなしに、最前列を陣取りじっくりと品定めをしていた。にわかに、聞きなれた関西弁と倒置法の応酬が聞こえてくる。
(穂刈さんと水上……さんか)
オレンジ頭の方は特に声がでけえんだよな……などと思いつつ、自然と声の主の顔がうかんでくる。その流れで先日水上と接触したことが頭をよぎり、皮肉にも春巻きパンをえらぶ後押しをしてしまう。会計をすませると同時に購買の戸が開いた。
水上は戸を開けた勢いのまま「春巻きパン……!」とこぼした。そのわりと大きめの声に、漆間ふくめ室内の視線が全集中する。くしくもカウンターでは春巻きパンの受け渡しが行われており、それがいたく水上の心にダメージを与えた。
「ごめんね、いま売り切れちゃったのよ」
日々春巻きパンを求める水上の顔を、店員は覚えていた。その言葉が先ほどできたばかりの傷口をぐりぐりとえぐる。水上は思った。ああ、やさしさが人を傷つけることってあるんや──。
「一足遅かったな」
穂刈のフォローも、いまの水上には届かない。
漆間はしわくちゃのビニール袋に戦利品をつめ込むと、指にひっかけプラプラと揺らしながら、2人の方へとやってくる。穂刈を驚かせたことには、すれ違いざまに「お先っす」とあいさつしてきたのだ。あの、漆間が。その顔には、いかにも「作ってま~す」といった感じのぎこちない笑みが浮かんでいる。
穂刈はこの出来事を驚きとして処理したが、水上はそうもいかなかった。後輩の態度をあきらかな挑発ととらえたのである。この時この瞬間をもって、水上は漆間を敵と認定した。穂刈が2人分の「おう」を返したことにも気づかず、頭の中ではすでに今後の算段を考え始めている。
かくして、漆間の預かり知らぬうちに、三門第一購買部・梅雨のパン競争は開幕したのであった──。
六月のパン食い競争