六月のパン食い競争 その10功労者たち 幸せな日々は長くは続かなかった。在庫が増えその後どうなったかといえば、水上はふたたび春巻きパンにありつけない日々を送っていた。
話は少しさかのぼる。北添が初めてその存在を知ったのは、おつかい帰りの隠岐に出くわした時だった。なんでも購買に春巻きパンなるものが売っているらしい。3年B組に避難してきた村上に詳細を尋ねれば、「水上がいかに春巻きパンに夢中か」という話を昼休みいっぱい語ってくれた。元より春巻き好きの北添は、翌日から親の弁当をことわり購買に通いつめた。パンの在庫が少なく一向に食べることはできなかったが。そして先週火曜、行動力の塊たる北添は、ついに春巻きパンの増産交渉に踏み切った──。
水曜日、水上から『はすのべ』に行ったと聞かされた村上は、コレだと思った。金的事件を思い出すにつけ笑いをこらえていたことを、ずっと気にしていたのだ。一度謝罪してもなお、罪悪感は村上の中に残り続けた。水上は気にしていない様子だったが、それでも生真面目な村上は、何か自分にできることはないかと思考をめぐらせた。
同日漆間は、ボーダーファンのクラスメートにまたしても話しかけられた。その際「水上が春巻きパンを食べられず参ってるらしい」といういらん情報を得たために、金的への負い目を再び認識するはめになったのだった。
木曜日、隠岐は隊室で悩んでいた。おつかい中止を言い渡されて以降、水上が急に愚痴をこぼさなくなったのだ。
「いや~、今日もまたパン買えんかったわあ」
和やかな口ぶりとは裏腹に、光を失った目元は全く笑っていない。この調子ではいずれぶり返すだろうという気がした。
こうして、4人はそれぞれの思惑からパンの増産をリクエストした。頼んだてまえ残っては申し訳ないと、彼らはすすんで春巻きパンに手を伸ばした。
在庫が増えた以上もう遠慮はしねえと、影浦が人づてにパンを入手していたことも大きい。2個から6個に増産された春巻きパンは、そのほとんどが水上のために動いた5人によって、ひそかに確実に消費されていたのだった。
6つのうち5つは水上の関係者が買い、残りの1つは誰が買ったのかといえば、答えは3年C組の生徒たちだ。昼の名物と化した水上の食レポは、影浦だけでなくクラスメートの心をもわしづかみにしていた。名レビュアーが愛してやまない"春巻きパン"とは一体どんな味なのか。水上の並々ならぬ情熱は、図らずもクラス全員でパンを競い合う状況を作りだしていた。
今日もパンをのがした水上は、目の前で申し訳なさそうに春巻きパンを食べる村上を凝視、無言で百面相をくり広げたところで、影浦に優しくどつかれたのであった。
和解 水上はあせっていた。本日午前、最後の授業は体育だった。途中から雨が降ってきたために、めずらしく早めに授業が終わったのだ。春巻きパンを手にするまたとないチャンスだが、教室に戻っている時間はない。
そもそも水上のクラスは購買とは別の棟にあり、ちょっとばかり遠いのだ。猛ダッシュで昇降口を目指すさなか、突如として名案が浮かんだ。そうだ、ショートカットしよう。
裏庭に周りこみ、草木が生い茂った先にある窓に目星をつけた。これなら人目を避けられるだろう。靴をぬぎ、カギのかかっていない窓から侵入、華麗な着地をきめ購買へ向かおうとしたところで肩をたたかれた。ふり返れば教頭がいる。
1度目は廊下を走り、2度目は窓からの侵入。水上はもはや立派な問題児であった。3度目はないぞと念押しされやっとの思いで購買に着くと、見なれた長髪が入り口横の壁にもたれかかり、たたずんでいた。
「窓から入って怒られるとか……小学生かよ」
「見とったんかい」
先ほどの体たらくをばっちり目撃されていたらしい。漆間の煽りは素直に腹立たしいが、すべてが事実である以上グウの音も出ない。ふと宿敵を見やれば、その手には春巻きパンが握られている。
(こいつ、わざわざ見せびらかすために俺を待ってたんか?)
そう思った矢先、なんと漆間が春巻きパンをよこしてきたではないか。
「はっ? ……えっ何?」
「えーとホラ、あれ……。六田さんからっつーか……この前世話んなったから代わりにお礼しとけって」
うそだと分かった。六田は人を介して礼を言うような人間ではないし、ああ言えばこう言うが常な漆間が言いよどむ、それ自体まれなことなのだ。
「六田ちゃんが礼言いたいってことなら、じかに俺んとこ来るやろ」
「……ハア。タダなんだから黙って受け取っときゃいーじゃないっすか。じゃあハイ、パン買いすぎたからもらってください食いきれねーんで」
「おまえが食いきれん量のパン買うとか、それこそウソやろ」
このがめつい男がうっかり金を使いすぎるなんて、ありえない話だ。
「ふーん、了解っす。じゃあこの最後の1個の春巻きパンはいらねーってことで」
「待たんかい」
水上は驚きのすばやさで後輩の襟をひっつかんだ。
ゆっくりと振り向いた漆間は、「欲しいんなら最初っから大人しく受け取れよな……」とぼやき、水上に荒々しくパンを押しつけた。
(もっと丁重に扱えや、パリッパリの皮が割れてまうやろ!)
文句を言いたいのは山々だったが、漆間にジトっとした目を向けられ、二の句が継げない。後輩の背中が曲がり角に消えるのをぼんやりと見送れば、いつかの昼、影浦に力説したことを思い出す。
──あいつに譲られるとかなんかこう、負けた気がするやん?
いやいやいや。これは六田たちのトラブルに手を貸した結果得られた物なのであって……と言い訳したところで、獲物を勝ちとったにしては爽快感のかけらもなく、むしろ微妙な気持ちが己の中を席巻しつつあることに気づく。水上は顔をしかめ、かつての自分に反論する言葉を必死でさがすのであった。
◆
1階裏庭ちかくのピロティには真っ赤な自動販売機がある。ボーダーの宣伝と提携校へのねぎらい目的で設置されたその側面には、巨大な佐鳥賢が描かれている。佐鳥の正面に座れば、そこはもうフォトスポットだ。両手で作ったかわいらしいハートマークの中に、ゲストの顔がすっぽり収まるようになっているのだ。
漆間は後ろの佐鳥に背をあずけ、あぐらをかいて座り込み、学生カバンを机代わりにしてノートを広げていた。写真とはいえ在校生のボーダー隊員に、それも同級生かつ地元の星、三門のアイドルたる佐鳥によりかかるというのは、一般的な感覚からするとハードルが高い。
だが漆間はあえてその高めのハードルを飛び越えることで、本来昼にもっともにぎわうはずの自販機周辺を、一転して人が寄りつかない空間へと変貌させた。中には勝手に写真を撮ったりサインをしきりによこそうとしてくる者もいたが、ボーダーの連中というのは総じて物わかりがいいのだ。ひとたび話せば一人でいたい漆間の思いをくみとり、以降いい感じに放っておいてくれるのだった。
そんなわけで、彼は毎日ここで一人、静かな昼休みを過ごしている。
漆間はスマートフォンを駆使して英語の課題に取り組んでいた。いまや情報化社会、インターネットにつなげば瞬時に翻訳サイトが表示される。分厚い本をはこぶ必要も、辞書の電池切れに意識をさく必要もない。何より無料というのが最高だ。
そんな自動翻訳にも弱点はある。いかんせん文章が機械的すぎるのだ。これを課題に生かすとなれば、一度AIが訳したものに手をくわえ、自然な日本語に再構成する必要がある。
「チッ、これじゃ翻訳の意味がねー」
悪態をつきながらカバンをあさり、英語の教科書を探しあてた、その時である。
「どわ~~~!!!!!」
漆間は悲鳴を上げるなり目の前のカバンに抱きついた。うなじの辺りに何やら異様な冷たさを感じたのだ。カバンを抱きしめたまま勢いよく振り返れば、水上がすました顔で立っている。その手には、今しがた自分に押し当てられたであろう、蛍光グリーンの350cc缶が握られている。
「何すんだ!」
来週には7月になるというのに、今日はおどろくほど肌寒い。特に意味もなくノーセーター派をつらぬく漆間の現在の装備は、うすっぺらい半袖ワイシャツとスラックスという頼りなさ。天候に合わないサプライズを仕掛けてきた水上およびそれを受け流せなかった自身に対し、異様な腹立たしさを覚えたのであった。
「……これ、プレゼントふぉーゆー」
わざとらしい棒読み英語をそえて、水上は缶を差しだした。
「こわっ。なんすか急に」
「それはこっちのセリフやろ。お前にオゴられるとか、後から何言われるか分からんからな」
水上は漆間に缶を押しつけると、自販機下に敷いてあるコンクリ製の基礎ブロックに腰かけた。
「用が済んだら帰れよな」
「お前が飲みモン誰かに押し売りせんよう見張っとんのや」
「100円稼ぐために客さがすほど暇じゃないんで」
「……このメロンソーダは1缶120円や」
「120円……? じゃああと230円足りないじゃないっすか」
漆間は開いた手のひらを臆面もなくさし出し、いたって真面目にパンとジュースの差額を請求した。
「だってこのパン"六田ちゃんからのお礼"なんやろ? や、"買いすぎたからもらってくれー"やったっけ? どっちにせよ、なんでお前にお返しせなあかんねん」
「……」
仮に漆間の要求どおり同額分の品を差し出したとして、それはもはや御礼ではなく単なる物の送り合いである。
「で? なんで俺にコレくれたん?」
水上はエコバッグから春巻きパンを取り出し封を開けた。
実際のところ、漆間は最初から譲るつもりでパンを買ったのだろう。そう思ったからこそ、水上はわざわざ遠くの自販機におもむき、生意気な後輩のために飲み物を買ってやったのだ。だがどうにも理由が分からない。"理解不能ないきもの"である漆間については日頃スルーを決め込んでいたが、今回ばかりはこのがめつい男が身銭を切った理由を知らないままにしておけなかった。
「そりゃアレっすよ、"水上危機一髪"」
「水上危機一髪……?」
「クラスのやつに聞いたんすけど、少し前にオレが……その、購買であんたに頭突き食らわせたことがあったらしいじゃないっすか。だからそれ、見舞い金っす」
漆間はもぞもぞと立ち上がり、キョロキョロと辺りを見回すと観念したかのように口を開いた。
「その節は……その、スミマセンでした」
「……」
会釈未満の角度であごをしゃくっただけだったが、漆間は確かに謝罪をしたのだった。見舞い代にしては安すぎるだとか、漆間が自分のために金を使った事実だとか、素直に謝ってきたことへの衝撃だとか──いろいろ思うところはあるにせよ、いまはどうしても気になることがある。水上は咀嚼したパンを飲み込むと、「水上危機一髪って何……?」と真剣なまなざしで問うた。
「ボーダーファンがつけた金的事件のあだ名っすよ。あんた結構マニアの間でうわさになってたみたいですけど」
「えっ、そんなオイシイことになっとったん……!?」
「はああ~?」
なんだそりゃ。金的というのはそれはもうとんでもなく恥ずかしいことで、公衆の面前で金的をくらうというのは、高校生活の終焉を意味するものだと思っていた。なのにこのオレンジ頭は、あろうことか自分が話題になっていることを指し「オイシイ」などと形容したではないか。思いのほか芸人志向の強い水上に、漆間はじゃっかん引いていた。
「……謝るんじゃなかった」
「おま、辛気くさくならんよう気ぃ使ったのが分からんのか……!」
パンを持つ手に力が入り、PP袋がクシャっと音を立てた。言ってから水上は、別にこれは言う必要がなかったのではという気になって、「こんなこと言わすなや」と自販機の表側へと回りこんだ。
◆
再び基礎ブロックに腰かけた水上は、春巻きパンをたいらげると、買ったばかりのほうじ茶に口をつけた。
「漆間クンもはよソレ飲み」
「へーへー」
本来であれば、炭酸をチビチビすすりつつ、新鮮な刺激をまったりと味わうのが漆間流の楽しみ方だ。しかしいまは、一刻も早く水上の監視から逃れたかった。勢いよくメロンソーダをあおった漆間は、多めの一口目を飲み終えると深く息をはいた。
「オレ、ペプシ派なんすよね……」
ベシッ。すかさず軽やかなチョップが漆間の頭を直撃する。
「うーわ、暴力とか……引くわー」
「ぼ、暴力て……ツッコミやんけ」
思わず声が尻すぼみになる。漆間なりの冗談だとは思いつつも、このツッコミをめぐっては、先月妙なうわさが立ち苦労を味わったばかりである。後ろめたさに視線を外せば、漆間の足元、床に放られたクシャクシャのビニール袋の中からキラリと光るものがのぞいている。おそらくそれは、数分前までパンをくるんでいた物の残骸だ。
「……おまえ、購買のパン好きか?」
「嫌いだったら毎日食わねーだろ」
購買のパンというのは、高校生の価値観からするとちょっぴりお高い。スーパーで菓子パンを買った方が、あるいは手作り弁当を持参した方が安上がりだ。それでも損得ぬきで通う程度には、漆間は購買のパンを気に入っているのだった。
「いやな、このまえ王子たちと購買の元の店っちゅうの? 店員さんち行ったんやけど。そん時に王子から聞いてん。その店……『ベーカリーはすのべ』って言うんやけど、昔は蓮乃辺にあったらしいねん。けど何年か前に、三門にわざわざ越してくれはったんやって」
水上は、レジ待ち中に王子から聞いた『はすのべ』の歴史を話し始めた。
もともと本校購買部には大手のコンビニが出店していたのだが、大規模侵攻後の休校とともに購買も休業、ほどなくして閉店した。三門市の復興も途上、近界民への不安もぬぐい切れぬうちに、本校の生徒たちは各自で昼食を用意することとなった。そんな中、母校の生徒においしいものを食べさせたい一心で『はすのべ』店主が名乗りを上げた。お試し出店、価格調整、数量調整──学校側ともろもろの折衝を終え本校購買部が完全復活を遂げたのは、大規模侵攻からおよそ2カ月後のことだった。
「ふーん。三門市から補助金出るし、市境に店がありゃ蓮乃辺の客も逃げねーしで、三門に越して店続けてるってわけか」
「……」
漆間の辞書に「感動」の文字はない。あまりにも明け透けな物言いだが、『はすのべ』の移転秘話を聞いた際、自身もまったく同じ考えにたどり着いたことを思い出す。水上はなんとも言えない気持ちになった。
「それがどうかしたんすか?」
「や、まあ……俺ら表向きには"三門を守るヒーロー"とか言われてるけど、『はすのべ』の話とか聞くと、三門の皆さんに助けられてるとこもあんのかなー、なんて思て。いろんな人に支えられて、ありがたいっちゅう話やわ」
水上は空を仰ぐようにして、最後のほうじ茶を飲み干した。
「……あんたやっぱり、あん時もっと早く助けにこれただろ」
「バレた?」
「ボーダーがいなきゃなんもできねーくせに」とは、先日、金髪に対して漆間が放った言葉だ。水上が突拍子もなく『はすのべ』の話をし始めたのは、あの時の言葉を聞いていたからなのだろう。とはいえ漆間にも言い分はある。
「あの不良どもに支えられてるとは到底思えねーけどな」
「あの子らかて、ほんまはボーダー入りたかったけど入られへんかったーとか、何か事情があるかもしれんやん」
「ねーだろ、ボーダーのこと全然知らない感じだったし。特にあの金髪」
「まあ自分で話しといてアレやけど、いまの例えは俺もないなって思うわ。……でも、あの子ら含めここに住んでる人みんな、好きでネイバーに襲われたわけちゃうしな」
漆間は静かに目を見開いた。好きでネイバーに襲われたわけじゃない。それは4年前の自分もたしかに抱いたはずの気持ちだった。
固まったままの漆間から目をそらした水上は、空のボトルからラベルをはがし、巻きずしのようにくるくると丸めた。小さくなったそれを手元で持て余しつつもゴミ箱へ向かう気にはなれなくて、結局はスラックスのポケットに突っ込む。
三門が大規模侵攻の地に選ばれた理由は分からない。あの日たまたま三門が戦場になっただけで、侵攻それ自体はどこで起きてもおかしくなかったのではないか。あるいは、駆けつけたボーダーが劣勢に陥っていたら? 侵攻が長引いていたら? 被害は広範囲に及び、地元にネイバーがやってくる可能性だってあったのではないか。それはいわば災害のようなもので、本来は日本のどこでだって起こり得たことで、何かが違ったなら、故郷が「三門」になっていた可能性もあるわけで──。
「だから俺は」
そこまで言って水上は口をつぐむ。
「話が、それたわ」
「……そうすか」
水上は立ち上がり、両手を組んで伸びをすると、腕を下ろすタイミングで深く息をはきだした。片手を反対側の肩に乗せながら首を左右にゆらした後で、改めて漆間の方を向く。
「たまたま三門におるだけの人たちに、あの言葉は酷やと思うねんな。本音ではボーダーに頼りたくないって思ってても、三門におる以上選択肢がない。仮にアンチの人らがネイバーに襲われたとして、ボーダーは絶対助けに入るやろ?」
「……そうかもしんないっすね」
──ボーダーがいなきゃなんもできねーくせに……!
漆間は、あの日自身がはなったせりふを再度反芻した。自分がボーダー隊員であることにあぐらをかいているつもりは決してなかった。だが、トリガーの力を得てネイバーを倒す側に回ったことで、未知の怪異に対する不安、焦り、理不尽さ、無力感──そういった気持ちの数々が、確実に4年前よりも薄れていた。そのことに、たったいま気づかされたのだ。
裏を返せば、市民の中には、いまも当時の気持ちを抱えたまま暮らしている人がいるかもしれないということだ。自分の言葉が金髪や坊主頭を傷つけたかもしれないという考えが、漆間の頭をかすめた。
(なんや、急に大人しくなったな)
その変化が多少気になったものの、後輩が帰る気配はない。話を続けても構わないだろうと判断した水上は、ふたたび口を開いた。
「ボーダーの試験は形だけ。誰でも受かる」とは、水上が地元にいた時に聞いたうわさだ。三門の実情を把握したいまでは不合格者もそれなりにいるのだと知っている。一般論として、隊員志願者の多くが善意や正義感を胸にボーダーの門をたたく。そんな彼らが試験に落ちた時の絶望はいかほどか。自ら不合格を言いふらす者は少ないだろうが、だからこそ、そういった者たちの存在は意識されにくいのだと水上は言う。
「望んだところで、みんながヒーローになれるわけやない。試験落ちる子もいれば、家族の面倒見なあかん子とかもいてるし。……気持ちと環境と力と、全部そろわんとボーダーってのは務まらんのやろな。
別に周りの人間に感謝しろーなんて言わんで。けど、三門でボーダーにおるっちゅうのはそれだけでなんや、"選ばれし者"やないけど……てかこういう言い方正直苦手やけど、でも実際、そういう側面もあると思うし」
だからもう、あんなこと言わんとき? 口に出さずとも、漆間には伝わっているようだった。
三門市民にとってボーダーはヒーローだ。常に話題の中心で、己の意思とは無関係に情報が入ってくる。目をそらしたくてもそらせない、生きていく上で避けては通れない、身近すぎる存在で──だからこそ、ヒーローの言葉は重いのだ。
二人の間に、しばし沈黙がおとずれる。
◆
漆間は、水上の足元に転がる空のペットボトルを見やり、
「飲み終わったんならさっさと帰ったらどうすか。オレまだ課題があるんで」
優等生然とした物言いで解散をうながした。だが水上は動かない。眉をよせ、細めた両の目はまっすぐに漆間をとらえている。
「んだよ、言いたいことがあるんなら言やーいいじゃないっすか。らしくもねえ」
「その、俺もお前に言わなあかんことあるっちゅーか」
「なんすか歯切れのわりい。気持ちわるっ……」
再び手が出そうになった水上だが、ボケを伴わないツッコミは正真正銘の暴力である。頭をかくことで行き場のないイラつきを抑えながら、思い切って口を開く。
「なんというか、その……俺もお前の好物買い占めたり、すれ違いざま睨んだりとか……わるいとこあったなあ思て」
「いや、それこそなんの話っすか?」
ふだんはやけに勘のいい漆間が、本当に分からないという顔で問うてくる。
「……だから、お前が嫌がらせみたいに俺の目の前でパン買ったり、先生に怒られてんの見て嫌味いったりするから、俺もムキになってたって話」
「……?」
水上が言葉を重ねてもなお、漆間のぽかんとした表情は変わらない。
「元はと言えばお前がわるいんやぞ……?」
水上は、漆間から受けた被害を詳細にかたり始めた。漆間に金的をくらったこと、その時に春巻きパンを買われたこと。その後すれ違うたびに、漆間の手に春巻きパンが握られていたこと。何日かたった後、再び目の前で春巻きパンを買われたこと、その際不敵な笑みを浮かべられたこと。おまけに教頭に怒られたのをバカにされたこと──。
「ハア? なんすかそれ。昼くらい好きなモン食わせろよ」
「えっ、おまえ好きで春巻きパン買うてたん……!?」
「そりゃそーだろ。食いたくもねーもんのために金払うかよ」
「だって俺が穂刈と購買行った時、お前ニヤニヤしとったやん……!」
「あれはその、営業スマイルってやつっすよ」
「じゃあ、俺が先生に怒られてるとこ見て『小学生かよ』とかアオッてきたんは……!?」
「そりゃ100パーセントあんたの自業自得だろ……」
たまたま不運が重なったというほかない。あの日漆間が春巻きパンを買ったことも、パンが案外口にあったことも。腹がふくれてコスパがいいという理由で、たびたび買うようになったことも。後日、水上の目の前でふたたび春巻きパンを買ったことも。そしてそれが最後の1個だったことも──本当に、全てが偶然だった。
そもそも購買のルールは早いもの勝ちであって、いくら目の前でおめあての品をかすめ取られた(と水上は思った)としても、漆間にはなんの落ち度もない。漆間が作り笑いであいさつしたのも、前日バイト先で仕込まれた営業スマイルを先輩相手に使ってみようと思っただけの話だ。それは常に自分をつらぬく彼なりの精一杯の歩みよりであったが、そんな事情を知るよしもない水上が、単なるあいさつを宣戦布告と受け取るなんて誰が予想できただろう。本当に不運でしかなかった。
渾身の謝罪が空振りに終わったむなしさやら、勘違いした気恥ずかしさやらが、水上の身体を蝕んでいく。すぐにでもこの場を離れたかったが、それは「いまの話を気にしてます」と宣言することにほかならない。水上は気まずさを晴らすために、話題の転換をこころみた。
「へえ、昼休みもお勉強とか……感心やなあ」
漆間の手元に散らばる勉強道具の数々を前にして、水上は明らかな作り笑いで社交辞令とも嫌味ともとれるせりふをはいた。
「5月っから防衛任務に出ずっぱりだった分、課題出さないといけないんすよ。水上さんだっておんなじようなもんでしょ?」
鳩原が"転校"した5月、二宮隊と風間隊が任務を休んだ時期があった。そのぶん他部隊に任務が回されたことで、水上と漆間が顔を合わせる頻度も増えた。自然、自由奔放な後輩に対する水上のストレスもふくれあがっていった。春巻きパンの件よりもっと以前から、漆間に対する複雑な気持ちを水上は抱えていたのだ。
「んなもん真面目に自分でやらんと、クラスの子にノート見せてもらったらええやん」
「あいにく答え聞けるようなダチいねーんで」
水上はハッとした表情で口元に手を当てると、「そういえばそうやったな」とのたまった。漆間は、自分で言い出したこととはいえ友人がいないことを秒で同意され、なんだか微妙な気持ちになった。
水上の頭の中に、一人で道を行く漆間の姿が浮かぶ。防衛任務で学校を休みがちなこともあり、漆間はクラスの人間としゃべる機会が圧倒的に少なかった。本人が人目を気にしないこともあり、大して人間関係を築かないまま今日まできてしまったのだ。
「別に友達にかぎった話ちゃうやろ。普段しゃべらん人でも、聞けば意外と教えてくれるもんやで」
「……あんたがオレのフォローするとか珍しいっすね。どうもアリガトーございます」
「人は頼られると案外うれしいもんらしいし」
「"らしいし"って、あんたの経験談じゃないのかよ」
「あー……聞けば教えてくれるってのは俺の経験も入ってるけど、頼られるとうれしいってのは聞いた話。ま、『ノート見してー』から会話が始まることもあるやろし。そういうとこから仲良うなってくもんなんちゃう」
漆間の場合、人を寄せつけないところがあるから尚更だろう。そう思いつつも、そこまで言うのはさすがにどうなんだろうという気がして、一般論を語るにとどめた水上である。
「……そういうもんすかね」
「そういうもんやろ、知らんけど。……って、そんな目で見んなや」
また適当言ってらと、漆間の鋭い目が訴えている。
「たまには年上の言うこと素直に聞いてみ。いい事あるかもしれんで」
などと、根拠もないのに言ってみる。らしくない。非常にらしくない。今すぐボケ倒して全てをなかったことにしたい。水上は自身で作り出した青春くさい雰囲気を、どう打ち消したものかと考えた。思いのほか漆間の反応が大人しかったことに面食らったのもある。まず間違いなく、嫌味ったらしい反論が返ってくるものと予想していたのだ。
水上は急に何かを思い出したかのような顔をすると、漆間が広げた教科書をのぞきこみ、
「こことここ。あとそこも」
紙面のあちらこちらを指さして、指示語を次々と連発した。
「えっなに、急になんすか……?」
「いま言ったとこ、期末で出るから覚えとき」
「は?」
「春巻きパンの代金からジュース代ひいた残りの230円、テスト払いってことで」
改めて考えてみても、がめつい後輩に借りを作りっぱなしというのは絶対によろしくない。そう水上は判断した。
「……そりゃどーも。ついでに他の教科も頼んます」
「あほ。期末テストの範囲教えるだけで、大幅にパン代上回っとるっちゅうねん」
「チッ。人は頼られるとうれしいもんだーとかなんとか、さっきは言ってたくせに」
「っとにおまえは、そういうことにばっか頭回しよってからに……」
数分前の反省むなしく水上が再び漆間にチョップをくらわせた、その時である。
「わ、めずらしい組み合わせ~」
見れば、校内とピロティを隔てている引き戸から北添が顔をのぞかせ、こちらの様子をうかがっている。彼は2段しかない階段を一気に飛び降りると、あっという間に2人のもとへとやってきた。
「水上くんと漆間くんかあ、滅多にない組み合わせだよねえ。何はなしてたの?」
「なに、先輩としての心構えをちょっとな……」
水上はぼかした表現を用いていい感じにカッコつけた。「水上さんにいじめられてマス」という悪魔の一言によって、それは瞬時に台無しにされたが。
「おまっ、なに堂々とうそついてんねん!」
「うそじゃねーだろ。あんたオレにチョップしたり、事実無根のことで言いがかりつけてきたじゃねーか」
「えっ、なになに? 言ってることがだいぶ違うんだけど……どっちが本当なの?」
両者の主張のくい違いに、北添はうろたえた。
「なんやゾエ、疑っとるん? んなわけないよな、俺らの仲やもんな? な?」
「北添さんは、オレのこと信じてくれますよね……?」
すかさず漆間は悩ましげな顔を作り、己の正しさを主張し始めた。バイト先で営業スマイルを仕込まれたことで、図らずも演技力に磨きがかかった漆間である。
いかにも困ってますという顔で2人を交互に見やった北添は、たっぷり1分悩んだ末に口を開いた。
「……水上くん?」
北添は、メッとでも言いたげな顔で圧をかけた。腰に手を当て水上を見下ろす様は、さながら未就学児をしかる保護者のようだ。
水上は信じられないという顔で訴えかけた。
「うそやん、同級生の絆が負けることある……?」
「でも水上くんて、わりとウソつく時あるしねえ」
北添と漆間は顔を見合わせ同じ方向に首をかしげると、「「ねー」」と口をそろえた。
「何が『ねー』や! 普段はそんな言い方絶対せえへんくせして!!」
こんな時にかぎって都合よく発揮される後輩の協調性が、憎たらしくてたまらない。仲間、友情、絆。これらのワードが水上から放たれる時、99%が冗談であると北添は知っている。仲がいいからこそ、水上の性格をよく理解しているのだ。1%の本音があっけなく却下され、水上は頭を抱えた。
「知ってます? この人ホント手が早いんっすよ。今日だけで2回もチョップされて……」
本人がしなびてるのをいいことに、漆間は次々と余罪を吹き込んでいく。
「ゾエ、こいつの言うこと信じたらあかんで。誇張して言っとるだけやからな」
「ええ~、ほんとにぃ?」
「オイ、おまえのせいでゾエからの信用ガタ落ちやんけ!」
「ホントのこと言って何がわるいんすか」
その煽りを皮切りに罵り合いが始まった。もっともそれは、影浦と死闘をくり広げた経験のある北添からすれば、じゃれ合いレベルのけんかではあったが。
「ほらほら水上くん、かわいがりはその辺にしてさ。もう行こう?」
用はとっくに済んでいるし、昼休みも間もなく終わる。ゆっくりと立ち上がった水上は、北添とともに校内へと消えて行き──すぐに漆間の元に1人で戻ってきた。
「なんすか、まだ文句でも?」
数秒間の沈黙をはさみ、水上は切り出した。
「さっきの、人頼った方が仲良うなれるって話。あれ兄貴の受け売りやねんけどな、多分参考んなると思うわ」
「会ったこともないヤツの言うことが参考になるとは思えねー……」
「なるなる。──あの人、友達1000人おるから」
「……それってすげーのかよ」
「さあな」
水上は口端を軽く上げ、背を向けた後で、片手をひらひらと振りながら去っていった。
──じゃあな、漆間。
灯台もと暗し「くっそー、あの人の相手してたせいで結局課題おわんなかったじゃねーか」
英語を訳しきれなかったことで頭がいっぱいの漆間は、期末テストのヤマを教えてくれた先輩への感謝などみじんもなく、ひたすらに悪態をついていた。
──水上先輩がなんかごめんな。
──あのひと悪気はないねん。放っておいたら、そのうち大人しくなると思うから。
にわかに、細井と隠岐にかけられた言葉が思い出される。あの日漆間は、昇降口で2人に捕まるなりワケも分からぬまま謝罪を受けたのだ。その後バイトの予定があったため、詳細を聞かずに帰ってしまったが。翌日、本部のラウンジで生駒に捕まり「春巻きパンってうまいん?」と聞かれた。隣にいた南沢には、「水上先輩とバトったって!? おれともバトろーよ!!」とワケの分からない誘いを受けた。
立て続けに生駒隊の面々に絡まれた理由が、ようやく分かった漆間である。
「自分はしっかりお仲間に愛されてんじゃねーか」
ひがみたいわけではなかった。水上が好かれるのにはそれなりの理由があるのだと今日知った。あの人は隊員とうまくやっている。北添のような友達もいる。それは別に、うらやましいことでもなんでもない。一人がさびしいわけじゃない。人目だってどうでもいい。心の底からそう思っている。だけどごくたまに──フツウに生きられたらもっと得できるんじゃないか、そう思うことはある。
(……なんでオレは休み時間にこんなこと考えてんだ)
かぶりを振った漆間は、結論が出ないまま教室の戸を開けた。
「漆間くん、見たよ!!」
教室に入るなりボーダーファンのクラスメートに出迎えられた。不良に絡まれ共に帰宅した翌日に気づいたが、彼はとなりの席だった。
「見たって何をだよ?
おまえ、会話に主語がねーから何言いたいかわかんねーんだよ」
何度か話すうちに気づいたが、この男はアツくなると述語だけで話すくせがあるらしい。
「漆間くんってやっぱり水上先輩と仲がいいんだあ。さっき自販機の所で話してたよね?」
「だから仲いいとかじゃ……」
「やっぱりボーダーって縦のつながりが強いんだね! いいなあ、オレもボーダーに入りたかったな~」
「えーと、なあ」
興奮気味に話すクラスメートの名前が思い出せず、ひとまず呼んでみる。
「何? 漆間くん」
「その……英語のノート、見せてくんね? オレ先月からけっこう休んでて……課題終わってないっつーか」
「いいよ。全然オッケー!」
「マジか……礼とかなんも、できねーけど」
「えっお礼なんていいよ~。ただノート貸すだけだし」
「でもそれじゃ借りが……」
「借りなんて大げさだなあ。本当に大丈夫だから!」
言うが早いか、級友は机からノートを取り出すと漆間に手渡した。おまけに英語以外のノートも見せてくれるという。
まさかこんな簡単に事が運ぶとは。なるほど、たまには年上の言うことも聞いてみるものだ。感心しながら水上の顔をぼんやり思い浮かべた漆間は、「あ」とつぶやきスラックスのポケットから黒い厚紙を取り出した。
「コレ、やる」
それはかつて、水上を出し抜き帰宅することを優先した結果、突き返す機会を失った名刺だ。
「もしかして、うわさの水上名刺……!? わあ、これずっと欲しかったんだよ~」
ありがとう、漆間くん。仲間に自慢するんだと張りきる彼の、よろこび飛び跳ねる姿があまりにうれしそうで──それは南沢の作ったまがい物だと伝える機会を失った漆間は、借りたノートに目を落とし、持ち主の名前を確認した。