800字小説練習(ワルロゼ) 憎たらしいほどの快晴の空の下、サーキットに詰め掛けた観客たちの喧騒が聞こえる。
彼らはカート大会の始まりを今か今かと待ち望む。とはいえ今日のところはサーキットのコース上を会場としたセレモニーが行われるだけだ。本番前からこの大騒ぎという事は、本格的にレースが開始されれば相当な盛り上がりを見せる事は間違いない。
個々に用意された選手控え室。その中でロゼッタは今日何度目かの重たい溜め息を吐いた。
「ママー、きんちょーしてるの?」
連れて来ている一人のチコが無垢に、そして少し心配そうに尋ねる。
その子の浮かんでる方を見て、ロゼッタは少々無理に口角を引き上げた。
「ええ、実はそうなの」
ロゼッタは今回のカート大会で初出場するドライバーだ。その為、壇上に立って挨拶をする時間がセレモニーに設けられている。
大勢のチコたちの前ではなんのしがらみもなく話せるが、それ以外の人物とはマリオが冒険に来て数百年ぶりに交流したのだ。何百の目に見られた公衆の面前で話すなど全く慣れていない。それが彼女に多大な緊張を与えていた。
「そうなんだー。てのひらにね、人って漢字を三回書くと良いらしいよ」
「あら、そんなおまじないがあるの? やってみようかしら」
気休め程度にはなるかも知れない。後でやってみよう。
ちなみにこのおまじないには『舐めて呑み込む』という情報も付随するのだが、幼子の覚えたての知識だったためそれは教えられなかった。
セレモニーまで一時間を切った。
そわそわとドキドキが全身を包んで絡み付き、動けなくなるような気がする。
「ドリンクサーバーへジュースを飲みに行きましょうか」
「ジュース!? 飲む飲むー!」
チコは浮遊したまま跳ね上がって喜ぶ。
部屋に閉じこもっていても悪い感覚に支配されそうで、少し場所を変えたかったのだ。
無料のドリンクコーナーへ辿り着き、チコと共にオレンジジュースを飲む。
それでも顔は晴れないままで、紙コップを握った手がとくとくと脈打っていた。やっぱり緊張する。
俯いて再び重量のある溜め息を吐き出した、その時だった。
「おい」
突然後ろから声を掛けられた。驚いて一瞬肩を震わせる。きっと他の選手も飲み物を求めに来て、自分の体がサーバーを遮ってしまっていたのだろう。
そう考え、サーバーから体をずらし、謝りながら慌てて振り返る。
「あ、貴方は――」
見えた姿は、天空より更に遥か上からずっと眺めていた紫の彼で、心臓が一つ大きな鼓動を立てる。
「その姿、見ちゃいられねえな。緊張で綺麗な顔が台無しだぜ?」
すると、彼がなにかを差し出して来た。茶色と銀に分かれた小さなお菓子の包み。受け取ると『チョコパイ』と書いてある。
「此処に来る途中で景品として貰ったもんだ。オレはいらねえから、これ食ってちょっとは落ち着きな。じゃあな」
クールな調子でそう告げると、彼は足早に去って行った。お礼を言いたかったが、意中の人との突発的な交流でタイミングを逃してしまった。
「ママ、あの人怖そうだったけど良い人だね! お菓子くれたもん!」
「そうね」
チョコパイを潰さないよう小さく胸に抱いて今の出来事を噛み締め、頬をほんのり紅潮させて微笑んだ。
その後半分こにしてチコと一緒に食べた。
彼の優しさを含んだ舌の上でとろけるチョコと共に緊張も溶けて行く。
チコに向ける笑顔は、今度こそ自然に浮かんだものだった。