平熱+3℃ ピピピ。 接触タイプの体温計が測定完了の合図を出したのを聞いて、僕は自身の額から薄っぺらいカードのようなそれを回収すると、そこに表示されている数字を確認した。
「39.2℃……」
昼に飲んだ解熱剤が切れたからだろう、また熱が上がっている。頭痛、発熱、眩暈——今グリーゼで流行中の宇宙風邪の症状にしっかり当てはまっている。
「まさかこの歳で寝込むほどの体調不良を起こすとはね……」
ガンガンと脳を揺らし思考を阻害する鈍い頭の痛みに、深いため息をひとつ吐いて、僕は瞼を閉じた。
この国の白質市民を相手に施される高等教育は全宇宙規模で見ても相当にレベルが高く、課題内容も授業の進行速度も厳しいと言われていた。グリーゼの学生に休んでいる暇はなく、ましてや娯楽に興じる余裕などあろうはずもない。体調不良による欠席の可能性など一切考慮されていない教育カリキュラムは、一日でも授業を欠席するとあとから遅れを取り戻すのは相当に面倒だし、生憎とこの閉鎖的社会の中じゃあ、レムナンが好む映画や小説をはじめとするフィクションの世界に出てくる、休んだ分のサポートをしてくれる親切な同級生など存在しなかった。誰がはじめに言い出したのか、他星系から『超階級国家』と呼ばれ、畏敬と畏怖が入り混じった眼差しで遠巻きに見られていたようなこの国で生き延びていくために、誰もが自分の力で自分一人分の将来を切り拓くだけで精一杯だった。
そんな状況も二年前に終結した革命を機に随分改善されたように思う。これまで白質市民のみが優遇され、それ以下の民がさまざまな制限をかけられていた権利のひとつに医療ポッドの使用も含まれていた。医療技術は発達しているものの、数に限りがある医療ポッドの使用権は基本的に白質市民にしか認められておらず、肉塊市民が患った重病よりも白質市民の肌にできたかすり傷の方を国は重要視した。そして、かつてのグリーゼではそれが当然のこととされてきた。革命を起こすまで上層部の連中が誰ひとりこの制度のおかしさを指摘しなかったのかと思うとますます頭が痛くなる。——いや、あるいはおかしさに気付いた者たちは漏れなく国に消されてきただけのことかもしれないが。
医療ポッドの使用権が全国民に解放されたことにより、当然ながら僕を含む元白質市民も今までのような気軽さではそれを利用できなくなった。医療ポッドは重病人や重傷者の治療に優先的に使われ、軽度の病や自宅療養が可能な者たちは薬の服用と休養によって症状の改善を図る。他星系ではごく一般的とされるこのルールがグリーゼにもようやく導入されたのだ。実に喜ばしいことじゃないか。僕がこうして惨めったらしく昨日の晩からずっと高熱にうなされてベッドから一歩も出ることができずにいることも、一緒の環境で暮らしていながら何故だかすこぶる健康なレムナンが、僕と同じ症状に苦しんでいるという革命軍元メンバーたちのお見舞いで忙しなく外を飛び回っているのも、本来あるべき世界の姿で何も間違ってはいない。だからといって、決して不満がないとは言えないが。
擬知体に定期的な換気を命じてはいるものの、一日中同じ部屋にこもっていれば自然と空気はこもるし、気分も下がる。さらには汗で張り付いた寝巻きが不快感を助長する。
シャワーを浴びて汗を流せば、多少気分も良くなるだろうかとこの最悪な状態の打開策を思いついた僕は、ズキズキと痛む頭とグラグラと揺れる視界を誤魔化して、壁に手をつきながらなんとか脱衣所のドアの前まで辿り着いた。……はよかったものの、そこで力尽きてしまい、ついに廊下でしゃがみ込んでしまった。
(あぁ、これはひとりでシャワーを浴びるのも難しそうだ)
どうやら自分で思っていたより僕の身体は重症のようだ。感染力が強いだの、人によってはかなりの高熱が出るだの、どれだけ世間で騒がれようと、正しく薬を服用して身体を休めれば回復する程度の病。つまり、たかが風邪だろうと舐めていた。思い返してみれば、これまでの人生、体調不良の片鱗が見えた時点で医療ポッドや学校に常駐しているドクターに頼り、悪化防止の時前処置を施してもらってきた僕は、普通の風邪を引いたことすらなかったのだった。体内にウイルスの侵入を許し、自身の体の生体防御機能に任せるがまま発熱するという経験は今回が初めてで、そのメカニズムを頭で理解してはいるのだが、身体の方が先に音を上げたらしい。
どれくらいの間、廊下でうずくまっていたのだろう。体感では一時間も二時間もぐにゃぐにゃと歪む床と壁の境界を眺め続けていたように思うが、体調が優れない状態で眠りに落ちるまでの間は時間の経過がひどく遅く感じるものだと昨日一日で学んでいたので、実際のところは二十分かそこらくらいのものじゃないだろうか。玄関扉のロックが解除される音と、紙袋かなにかに詰められた荷物がドサリと床に落ちる音、続けて「うわぁ!」と情けない悲鳴を聞いて、僕は昼前に出かけたきり顔を見ていなかった同居人がようやく帰ってきたのだと察した。案の定、慌てた様子で僕の身体を抱き起こし、「何をやってるんですか貴方はこんなところでっ……!」と帰宅の挨拶もなしに開口早々説教を垂れてきた相手は現在僕と最も近しい関係にある人物に違いなかった。
「随分遅かったね。シャワーを浴びようと思ったンだけど僕一人じゃ難しかったみたいだ。手伝ってよレムナン」
「何を言ってるんですかこんなに熱が上がってるっていうのに! ごはんを食べて薬を飲んだら、身体を拭いて服を着替えましょう。そうすれば、少しはさっぱりするでしょうから」
額に押しあてられた手のひらが冷たくて心地いい。日中はいつも欠かさず身につけているはずのグローブの感触が無い、いつの間に外したのだろう。僕より平熱の高い彼の体温を冷たく感じるということが、自身の不調を証明していた。最新の検温結果はどうだったかと聞かれ、嘘を吐いても仕方がないので正直に答えるとレムナンの眉間の皺がますます深くなった。熱を持ち脱力している身体は平時より重たいはずなのに、この数年でいくらか逞しくなったレムナンは軽々と僕の身体を抱きかかえて、寝室へと連れ帰った。仰向けに寝かされて枕に頭を下ろすとようやく少し身体が楽になったように思う。
「何もいらないよ。薬だけ飲むから水を持ってきて。これはもうぬるくて気持ちが悪い」
出かける前にレムナンが置いていったサイドテーブル上のボトルを指差し、そう訴えると彼は困ったように眉を下げた。
「朝にも説明したでしょう。夜になっても熱が下がらなかったら一段階強い解熱剤を飲んでもらうって。この薬はラキオさんが常用しているサプリとの飲み合わせが悪いから、少しでもなにか代わりのものを胃にいれてもらわないと……」
「何もいらないったら。食べたくない」
同じ言葉を繰り返すと、八の字に下がっていた眉が逆に吊り上がった。そんな怖い顔を作られても、自分には元々食事の習慣がないのだ。サプリと水以外を一度も口にしたことがないというわけではない。これでも一応知的好奇心から、レムナンの食事を一口二口分けてもらったことくらいならある。それでさえ、慣れない強い味を受けて舌はビリビリ痺れるし、突然の消化活動を促された胃は驚いてぐるぐると不快に蠢くし、惨憺たる有様だった。ただでさえ、気分が優れない今、再びそんな不快感を上乗せされたくはなかった。
黙って部屋を退室したレムナンはややあって、普段彼が自分の食事を運ぶ際に使用している木製のトレイの上に、水の入ったボトルと空のグラス、白い大きめの錠剤を二粒、そして湯気の立つ白いなにかがよそわれた器と大きめの匙を乗っけて僕の元へと戻ってきた。眉の角度は先程のままだ。
「ラキオさんに早く元気になってもらうために、僕は、心を鬼にします」
「へぇ、そんな風に脅されたって僕は食べないよ」
固い廊下の床からやわらかなベッドの上にうつったことで多少余裕を取り戻した僕は、なんだか少し楽しくなってきて、寝かせていた身体を起こすとベッドフレームに背中を預けて、彼の出方を伺うことにした。
小さめの椀によそわれた、固形物が熱で溶けかけているような風変わりな形状をしたその料理をレムナンは『粥』と呼んで、病人食の鉄板であり、味付けも薄くこれならあなたでも食べられるはずだと僕を説得しようとしてきたが、その説明だけでは到底僕の気持ちを変えられはしなかった。食べないと宣言をしたきり、腕を組み沈黙を続けている僕を見てこのまま言葉での説得を続けても事態は好転しないと悟ったのか、目の前の男は外から戻ってきたときからつけっぱなしにしていたマスクを外して、その下から現れた口に一さじ分粥を放り込んだ。はたしてその行為になんの意味があるというのだろう。毒見でもしているつもりだろうか。いくらなんでも君が僕に毒を盛る可能性など、さすがに疑ってやしないのに。
相手の意図を汲み取ろうとして隙を見せた僕が悪かったのだろう。気が付けば、枕元に寄せていたボックススツールに腰掛けていたはずのレムナンは中腰になりこちらに身を乗り出していた。伸びてきた右手に軽く下顎を下げられて自然と唇の間に空間ができる。何のためらいもなく、自分の唇を重ねてきた彼は、あろうことかその隙間から先程彼が口に含んだはずの食べ物を流し込んできたのだ!
「んンーーーッ」
なんてことをするのだとこちらがどれだけ不満を訴えたところで、相手は一歩も引く気はないらしく、器用に舌を使って口内の物体を容赦なく送り込んでくる。水や唾液よりも粘度が高くて、舌触りがつぶつぶとしている。それから少しの塩気と米の甘み。あまりもの横暴さによほど舌を嚙んでやろうかと思ったものの、元々顎の力も弱い上に、風邪で体力も落ちている僕の身体ではろくな抵抗もできず、相手の舌を自分のそれで押し返そうと何度か動かすのみにとどまり、結局僕は相手の思惑のままに無理矢理与えられた食事を飲む下すしかないのだった。
「……馬鹿なの?」
口内に侵入されている間、この後どんな言葉で詰ってやろうかと煮える頭で考えていた僕だったけれど、結局最初に口をついて出たのはそんなシンプルな文句だった。
「君がさっきまでマスクをしていたのは何のため? 感染を予防するためじゃないの? それなのにこんな馬鹿な真似をして、君は経口感染間違い無しだよ、あーあご愁傷様! 昨日寝室を分けたことだってたった今意味をなくしたよ。大体僕に口で敵わないからって実力行使もいいところじゃないか。それとも何かい君の生まれ故郷ではこうして口うつしで食べ物を与えてやるのが看病の一環だとでも主張するつもり……」
そこまでつらつらと不平不満を並べ立てて、はたと気付く。皮肉半分で発した今の仮説がもし本当なのだとしたら、この看病の仕方がレムナンの中では常識なのだとしたら……今日半日かけて、同胞のよしみで一人で暮らしている元革命軍隊員達の家を順に尋ねていたこのお人好しは、今の行為をその全員に行ったということにならないだろうか。
「レムナン……まさかとは思うけど、君、今のを僕以外の相手にもやらかしたンじゃないだろうね」
僕の問いにキョトンと目を丸くした彼は、すぐに表情を和らげると僕が何を心配していると勘違いしたのか「ラキオさん以外にするわけないじゃないですか、こんな事」と少し照れたようにはにかんだ。
「自分から勝手にしておいて何を照れてるンだい、気持ち悪いな」
「残りは自分で食べられますか? それともこのまま全部食べさせてあげましょうか」
「……自分で食べるよ」
僕の初めての風邪は幸い変に拗らせることもなく、三日目の朝にはすっかり良くなってスッキリとした目覚めを味わうことができた。そして、鬱陶しくなるほどに献身的な看病をしていたレムナンの方はというと、相変わらずピンピンとしていて、今朝も元気に目玉焼きを乗せたトーストを幸せそうに頬張っている。相変わらずよく物を食べる口だ。
「君に風邪がうつらなかったようで何よりだよ。体調不良で仕事に穴を開けるのを僕のせいにされちゃあたまらないからね。馬鹿は風邪を引かないって俗説もあながち間違いじゃないのかもしれないな」
口の端につけたパン屑を払ってやりながら僕が投げかけた言葉に、レムナンは嬉々として返事を寄越す。
「はい、僕は結構丈夫なので。だから、またラキオさんが倒れた時には僕が食べさせてあげますね」
「……口移しのオプションは遠慮しておくよ」