大停電の夜のこと 元は何の変哲もない夜だった。第四と五の区画を繋ぐ船間連結部の定期メンテナンスを概ね予定時刻通りに終わらせたレムナンは、使い込んでほどよくくたびれてきた革製の仕事鞄を肩に掛け、帰路についた。帰る先はカナン579メインドーム、シングル用深宇宙探査船に続き、彼にとって第三の家となって久しいグリーゼの管理下にある居住船の一角だ。レムナンは玄関からまっすぐ続くリビングのドアをくぐると同時に、既に学校から帰ってきているであろう同居人に向かって「ただいま」と帰宅の合図を出した。しかしながら、その人物の定位置であるソファの上に彼の期待していた姿は見当たらなかった。
「あれ? ……あぁ、シャワー室か」
オーバル型のローテーブルの上に置き去りにされたアームカバーを見て、レムナンはラキオの居場所にすぐに思い当たった。いつもより随分早いシャワータイムだななどと考えながら、少し目を細めて壁際の時計で今の時刻を確認する。たしか今日は校内で代替未来エネルギーについてのディベート大会があると昨晩話していたから、きっと侃侃諤諤の議論で蓄積した疲労や雑念を湯で洗い流しているのだろう。
キッチンへと移動したレムナンはフードプリンターの電源を入れた。たちまち画面が立ち上がり、お気に入りメニュー、おすすめメニュー、最近食べたメニューが横並びに表示される。右列一番上の履歴——つまり昨夜の彼の夕飯を表している——は、かぼちゃコロッケ、ひよこ豆のスープ、マカロニサラダとなっていた。レムナンは今夜は何にしようかと三十秒ほど思案した末に、結局お気に入りメニューの方からよく食べるプレートセットを選ぶことに決めた。彼が献立を入力し決定ボタンを押した瞬間——操作していたモニターが突然ブラックアウトした。
「あれ? うわっ」
モニターに続いて、今度は部屋の明かりが落ちる。かろうじて蓄電式の小さなフットライトだけがポツポツと頼りない光で室内をところどころ照らしていた。
「……停電?」
レムナンが窓の外を覗くと、彼のいる部屋と同様にガラスの向こう側にも夜は続いていた。街頭一つ灯っていない闇の濃さはいっそ不気味さすら感じさせる。
状況を確認しようとレムナンはポケットから端末を取り出したが、生憎この停電トラブルはまだニュースとして取り上げられていないようだった。右上に表示されているバッテリー残量は三十パーセント。どの程度この状態が続くのか分からない以上、情報端末の取り扱いには慎重になった方がいいだろう。レムナンは低電力モードに切り替えたのち、スリープ状態に戻した端末をポケットへとしまった。ちょうどそのタイミングでリビングと廊下を繋ぐドアの方から声がした。
「レムナン。いるの?」
「ラキオさん。大丈夫ですか?」
「ドアが開かないンだけど」
それはそうだ。住居内を仕切る縦式スライドドアだって電力で動いているのだから、停電中の今はその役目を果たしていないのも当然と言える。
「ちょっと、待ってくださいね」
レムナンはしまったばかりの端末を再度取り出して、画面の明るさで手元を照らすと自分とラキオを隔てている扉の運転モードをオートからマニュアルへと切り替えた。シャッターをあげるのと同じようにして、床とドアの隙間に指をかけ両手で持ち上げる。頑丈そうに見えたドアはレムナンからすると意外にそう重くはなかった。
ドアの向こう側ひらけた空間に薄ぼんやりとした白いシルエットが現れる。白い影はペタペタと平たい足音を立ててレムナンの横を通り過ぎると、足元の明かりを頼りにして辿り着いたソファの定位置にぽすんと収まった。視界が奪われた中でもレムナンには声色と気配だけでラキオがムッとしている様子が伝わってきた。どうやらご機嫌斜めのようだ。
「ラキオさん。今日はちゃんとタオル、被ってるんですね」
「……最悪だよ。突然お湯が出なくなったせいで暗闇の中頭から冷水を浴びせられた。凍えそうだ」
「それはなんというか……お気の毒に」
「で、いったい何事?」
「停電じゃないかな、と。まだ報道が出ていないので正確なところは分かりませんけど……あ」
タイミングよく通知音が鳴り、レムナンは手元の端末に目を落とした。
「あぁ……やっぱり、そうですね。居住船だけでなくこの階層全体がダウンしてるみたいなんで復旧には時間がかかるみたいですよ」
レムナンが読み上げた情報を聞き、ラキオはげんなりとした様子でため息を吐いた。その隣にレムナンがそっと腰掛ける。電灯代わりに使用した端末の充電は残り二十六パーセントにまで減っていた。
「ラキオさん。髪、乾かさないと風邪引いちゃいますよ。あと服も着てください」
「あぁ、うん……。僕の部屋から取ってきてくれない? どうせ他の扉も手動でなきゃ開かなくなっているンだろう。僕には荷が重いよ」
「そんなに重くなかったですよ、あのドア」
「僕は君と違って肉体労働はしない主義なンだ。ほら、行って」
脇腹を横からとすんと肘で突かれて、仕方ないなと立ち上がったレムナンは、壁伝いに暗い家の中を歩いてラキオの部屋へと向かうと、ドアを切り替えてベッドの上に用意されていた部屋着一式を回収することに成功した。ついでに他のドアもモードをすべて切り替え、最後に自室に寄って役立ちそうなものを何点か見繕ってから、彼はラキオの待つリビングへと戻った。
「遅いよ」
「すみません。他の用事もついでに済ませてきたので」
レムナンが部屋着を差し出すと、タオルで髪をおさえていたラキオはありがとうと短く礼を言って、その場でもぞもぞとそれらを身にまとった。もしこれがラキオの普段着だったなら、暗闇での着替えはこうも容易にはいかなかっただろうから、今だけは簡素な作りの部屋着に感謝すべきだろう。しばらくの間暗い中で活動を続けていたおかげで目が慣れてきたレムナンは、見慣れた半袖ハーフパンツ姿になったラキオがバスタオルを再び肩からかけて、ソファの上で小さく身を縮める様子を感じ取った。
「ラキオさん? 大丈夫……ですか?」
「……ねぇ、寒くない?」
ラキオの言葉を聞いて、レムナンはようやく部屋を満たす空気がいつもよりずっと冷えていることに気が付いた。グリーゼは複数の船から成るレアケースな移動船団国家だ。国を形成している多数の船は酸素濃度、温度、湿度、擬似天候にいたるまで中枢部のメインシステムにより綿密に管理されている。本来ならライフラインとも言えるメインシステムは、停電などの緊急事態においても非常電源などを用いて稼働し続けるはずだが……。
「まさか、メインシステムの一部機能を制限せざるをえないほどの大規模停電なの? 空調が効かないなんて前代未聞だよ! まったく……っくしゅ」
「あぁ、もう。話す前に髪、ちゃんと拭いてください。ラキオさん冬服は持ってないんですか?」
「グリーゼは一年中適正な気温湿度に保たれているんだよ。そんな場所で防寒具が必要だと思う?」
「持ってないんですね一着も……」
元気に言葉を紡いではいるものの膝を抱えて小さく身体を震わせているラキオを見て、どうしたものかなとレムナンは思考を巡らせた。まずは寝室から布団を持ってくるとして……いや、でも布団とは名ばかりでこの家で使われている寝具はブランケットの厚みに近い肌触りのいい薄手の布なのだから、寒さをしのぐことにおいてはたいした力にならないだろう。一年中誤差の範囲でしか気温変化のないグリーゼにおいて、寒さ対策を求められる日が来るとは思いもしなかった。冷えた身体を動かすのが億劫になってきたらしい本人に代わり、新しいタオルで冷たく湿った髪を拭いてやりながらレムナンはこの先のことを考えた。
「いっそのこと一時的に発熱するサプリとか持ってないんですか」
「あるわけないだろう。いや、カプサイシンが含まれているものなら一定の効果は見込めるだろうけど、それにしたって即効性はないな。こんなときばかりサプリを過剰評価するんじゃあないよ。まったく……」
返事の代わりとでもいうようにレムナンの腹がくぅと鳴った。同情を誘うかのような間の抜けた哀感のにじむ音色にラキオはハッと笑った。
「おやおや、僕のことよりも君の胃を先に心配した方がいいンじゃない? ほら、食べ物を求めて鳴いているよ。あはは!」
「うぅ、笑わないでくださいよ……。仕方ないじゃないですか。いつもなら夕食を食べる時間帯なんですから……」
「君の腹時計は正確に仕事をまっとうしているってことだ。はは、今度から手近なところに時計がないときは、君のおなかに時間を尋ねようかな」
「もう……」
まだ人をからかう元気は残っているようだが、冷水を浴びてから冷えた空気にさらされたことですっかり熱が失われた身体をあたためる方法をいち早く考えなければならない。お世辞にも体力が高いとはいえないこの人は、風邪を拗らせでもしたらそのままコロッと逝ってしまいそうでちょっと怖い。ラキオからすると心外でしかないようなことを頭の中で考えていたレムナンは、ひとつの存在を思い出し「あ」と声をあげた。
「……なにこれ」
「ココアです」
「なんでわざわざ僕の分まで淹れたの? こういった嗜好品は口にしないと分かってるだろう」
手があたたまるのはいいけどさと付け加えながら、ラキオはレムナンの持ってきたマグカップを冷えた両手で包み込んだ。つるりとした陶器の表面はほどよい熱を持っていて、凍える今のラキオにとってはちょうどいい温度だった。
暗闇の中ではよく見えないが、カップの中は白みがかった茶色のあたたかな液体で満たされている。携帯用ポットに残っていた湯と、キッチンを漁って見つけ出した粉でレムナンが作ったインスタントココアだ。
「空腹で糖が不足していると、身体が寒さを感じやすくなる……ってどこかで聞いたことがあったなと思って」
「……大体どうして湯が入ったポットなんて職場に持って行ってたんだい? あ。さては君、またあの身体に悪そうな麺を昼食に食べただろう」
「まぁまぁ……。それは今どうでもいいじゃないですか……」
ラキオの言う身体に悪そうな麺——つまりは香辛料たっぷりの真っ赤なインスタントラーメンを昼休憩に食べていたレムナンは曖昧に笑うことでその場を誤魔化した。べつに毎日そればかりというわけではないのだから、時折楽しむくらいは許してほしい。
「これは辛くないですよ。甘いやつです。ほら、冷める前に飲んでみてください」
「はぁ。気が進まないな……」
君の勧めるものってだいたい味が濃すぎるんだよねと小さく愚痴をこぼしながらもラキオはマグカップの縁に口をつけた。カップを支える両手に角度をつけて、口内に迎え入れた液体の味を確かめるように少しの間舌で転がしてから、ラキオはそれを飲み下した。
「どうですか?」
「……無駄に甘ったるいね。飲めないほどではないけど」
「そうですか、よかった。本当はお湯だけじゃなくて牛乳も加えると、コクが出てもっとおいしくなるんですよ」
「ふぅん」
その後もラキオはゆっくりしたペースでちびちびとココアを口に運んだ。ラキオが水とサプリ以外を二口以上摂取するところを久しぶりに見たなと、レムナンはその光景を隣で嬉しそうに眺めながら自身も同じものを飲んだ。
「あ、そうだ。明かりになりそうなもの、部屋から持ってきたんです」
そう言ってレムナンが懐から取り出したのは瓶詰めになったひとつのキャンドルだった。レムナンが手際よく溶接用のバーナーで芯の先端に火を灯すと、驚いたようにラキオは彼を見た。
「ちょっと……居住船の中は火気厳禁だよ」
「えっ、そうでしたっけ⁉ うわ、ご、ごめんなさい! 消しますすぐに!」
「いや、いいよ。この程度じゃ火災報知器も作動しないってことだろう。それにいつもは規則にうるさい擬知体も今夜ばかりは口を出してこないだろうし」
小さな炎に照らされながら悪戯に笑う横顔を見て、レムナンはそれでこんなにも静かな夜なのかと先程からうっすら感じていた違和感に合点がいった。明かりをはじめ、あらゆる機器の電源が落とされているということが影響しているのは言うまでもないだろうが、閉じられた静かな空間でラキオとふたりきりという、いつもと同じようでいつもとは全く異なる状況がレムナンの心を妙にそわつかせた。
「君、ハウスサポートがダウンしていることに気付かなかったのかい? 普段あんなに仲良くしているくせに薄情だね」
「いやだって、さっきまでそれどころじゃなかったじゃないですか……」
暗にラキオの世話で余裕がなかったことを告げると、ラキオはフッと薄く笑った。
「頼んでもいないのにご苦労なことだ。ま、お陰様で最初よりは随分とマシになったよ。君の働きも無駄ではなかったということかな」
ギリギリ労いととれるかどうかといった微妙な言葉をかけたあと、ラキオは自身の身体を包んでいた二枚の布団の片端をめくって、レムナンを手招いた。
「ほら、君も入りなよ」
「え?」
「僕よりいくらか丈夫だからって身体の作りは変わらないんだから、君だって寒さを感じないわけじゃないンだろう? 僕も一晩中君の分の布団まで占領するほど鬼じゃないよ」
「いや、でも……」
「折角ぬくまったのに待っているうちにまた身体が冷えてしまいそうだ。早くしてくれない?」
「……じゃあ、お邪魔します」
遠慮する間もなく相手に急かされて、レムナンはおずおずとラキオがくるまっている二枚重ねの布団の内側へと身を滑らせた。布団の中はラキオの体温がうつっていてほんのりとあたたかかった。
「……」
「疲れた?」
「え?」
「急に黙るから」
レムナンの身体の強張りは同じ布団の中で肩が触れ合う距離にいるラキオには筒抜けだった。
「いえ、疲れはべつに……。ただ少し、緊張してます」
「は? 自宅で何を緊張することがあるっていうンだ」
「普段はその、人とこんなに近い距離で接する機会がないので……。いや、まぁ、僕のことは気にしないでください、はい……」
「へぇ、そういうものか」
僕はべつに何も気にしないけどねと自分の所感を続けて述べたラキオは、レムナンとは対照的にどこまでも通常運転だった。周囲から影響を受けない確立された自我の強さはラキオが持つ魅力のひとつだ。だけれども、側で共に生活を送ってきたレムナンは、理性的に生きるラキオの中にも好き嫌いという感情が多からず存在していることは既に知っている。肌が触れ合うほど近くにいてもラキオから不快に思われていないということは、レムナンをひそかに勇気づけた。
「なんか匂わない?」
「えっ……⁉」
しかし、築かれたばかりのレムナンの安心は無情にも同じ人物によりあっけなく壊された。スンと小さく鼻を鳴らすラキオからの指摘にレムナンは慌てて自身の袖を嗅いだ。たしかに今夜はまだ仕事から帰ってきてからシャワーを浴びていないが……。
「ぼ、僕臭いですか⁈ あっ、もしかして停電の影響で船の洗浄機能が正常に働いてないから⁉ しゃ、シャワーを……!」
動揺のあまり慌てて布団から抜け出そうとするレムナンを呆れた様子でラキオが引き止めた。
「落ち着きなよ。君が機械油臭いのは今にはじまったことじゃないだろう。自ら進んで水浴びするつもりかい?」
「機械油臭い……」
「僕が言ってるのはそのキャンドルのことだよ」
そう言ってラキオは先ほどレムナンが火をつけた蝋燭を指差した。テーブル周りをほんのり明るく照らし続けている蝋燭は、その頭に灯る炎をゆるりと揺らめかせた。レムナンが恐る恐る顔を近づけてみると、たしかにラキオの指摘する通り、蝋燭からは物が燃えるときの匂いとは別の、花のような甘い香りがした。
「あ……これ、アロマキャンドルだったんですね」
「これわざわざ買ってきたの? とても君の趣味とは思えないけど」
「いえ、貰い物です。何かのおまけか特典、だったかな……。ちょっと、お店とかは思い出せないですけど」
「サービスしがいのない客だね」
フンと納得した様子で膝を抱え直して、やさしく揺らぐ小さな火を見つめ続けるラキオの姿を見ているうちに、レムナンの顔にはなぜだか自然と笑みが浮かんでいた。
「ふふ……」
「……なに? 怖いんだけど」
「いやだって、ふ、おかしくって。一応非常事態なのに、どうしてこんな……ふふ。いわゆるいい雰囲気っぽい空間になってるのかなって、あはは」
ツボに入ったのかくつくつと尚も笑い続けているレムナンを見て、ラキオはぽかんと呆気に取られた顔を見せた。が、そのあとすぐ気を取りなおすようにニヤリと意地悪な顔を作って言った。
「たしかにねぇ。もし、これが君の計算による自己演出なら出来過ぎた話だものねぇ? 相手が僕じゃなくて夢見る乙女ならもしかしたら少しはときめいてくれたかもしれないよ」
「もう、狙ってやったんじゃないですってば。でも、こうして見るといいものですね、アロマキャンドル」
「ムードがあって?」
「ふふ、そうじゃなくて。なんかこう、癒されるなって」
「……まぁ、香りについては及第点というところかな」
ひとしきり盛り上がった蝋燭の話が落ち着いたところで、ラキオはうんとひとつ伸びをした。
「いつまでもこうしていても仕方ないし、今夜はもう休もうか」
「え、もう寝るんですか?」
「本当は今日のディベート結果を踏まえて今後の研究計画に修正を加えたいところだけど、君と話していたらすっかりやる気が削がれたよ。ほら、行くよレムナン」
そう言うとさっさとソファから立ち上がったラキオは蝋燭を片手に肩にかけた布団の裾をやや引きずるようにして扉の方へと歩いて行った。
「レムナン、ドア」
「あ、はい」
レムナンがぐっと両腕に力を入れるのと同時にドアが上へと持ち上がる。今夜だけで複数回同じ動作を繰り返しているだけあって、その様子は慣れたものだ。
廊下の右手に位置する自室へ向かおうとしたレムナンの背中を非難めいた響きでラキオが呼び止めた。
「ちょっと、どこに行くンだい。そっちじゃないよ」
「え?」
「離れると体温が下がるじゃないか。パーツまみれの部屋で寝るのはごめんだから今夜だけは僕のベッドで寝ることを許してあげるよ」
「えっ、僕たぶん人の気配があると眠れないんですけど……」
「それは君の思い込みだね。僕はこの家で何度も君が居眠りする瞬間に居合わせているけど?」
「……居眠りじゃなくてお昼寝です」
船内の空気自体は先ほどと変わらず冷たいままだが、先ほどの雑談でふたりの心はやわらかく和いでいた。大停電の夜はもうしばらく続くらしい。