それみたことか(だから、僕は止めたじゃないか)
ラキオより二十分ほど遅れて目を覚ました隣の男は、呆けた顔でまだ眠気の抜けきらないとろりとした瞬きを何度か繰り返したのち、のそりと身体を起こした。覚醒したての彼が緩慢な動きで自分と、それからラキオの格好を見て、みるみるうちに顔を青く染めていく様を目にして……ラキオは小さく溜息を吐いた。
「ら、ラキオさ……。あの、その、ぼ、僕、は」
「……おはようレムナン。元気そうだね。見たところ二日酔いの症状も出ていないようでなによりだよ」
ラキオの言う通り、レムナンの顔や体臭には昨晩あれだけ摂取したアルコールの気配は残されていなかった。彼の肝臓は働き者らしい。
昨日の晩、珍しく……そう、本当に珍しく。レムナンとラキオは家で晩酌を楽しんだ。というのも先日外星系への調査のついでにグリーゼに立ち寄ったという沙明が置き土産として、彼が現在身を置いているというナダ産の飲食物をふたりの家にいくらか残していったのだ。グリーゼと違って未だ自然光で作物栽培が行われ、一次産業が国の経済をまわすのに一役買っていると聞くナダで作られたワインは、会食や社交場で提供されるような合成品とは違い、強く芳醇な葡萄の香りがした。
「せっかくですし、ラキオさんも一緒にどうですか」
イートフェチの欲望を隠しもせず、ワインのボトルを抱えたレムナンは、キラキラとした期待に満ちた眼差しをラキオへと向けた。今やそれなりにたくましい身体をしているくせに、彼はときたまその図体に似合わない子犬のような瞳とハの字に下げた眉でラキオ相手に自分の要望を押し通そうとしてくる。昨晩もなんとも言えぬ圧——かわいげとでも言えばいいのだろうか——に負け、ラキオも急遽ひらかれた宅飲みの場に同席することとなったのであった。
「……すみません。僕、と、途中からなにも、覚えていなくて……」
いつの間にかベッドの上で正座の体勢を取り、窄めた肩から伸びる両の手を膝の上で固く握りしめたレムナンの顔色は依然として悪い。
「そうだろうね。昨晩の君は随分と楽しげだったよ? にしても記憶をなくすほどの酩酊状態に陥るだなンて、情けないことこのうえないね」
ラキオからのもっともな指摘にレムナンはより一層身体を縮こませ、再び小さく謝罪の言葉を溢した。
彼の名誉のために補足しておくが、レムナンは決して酒に弱いわけではない。むしろ従来酒に酔いにくい方の人間だった。元々身体がアルコールに強かったというのもあるだろうが、彼の場合はどちらかというと精神面の影響が強い。元来警戒心が強く、安全性が確約されている場所、人が揃っていなければ安心できないという彼の性質により、レムナンはこれまで一度も人前で酔った姿を晒すことがなかった。そして、その中にはもちろんラキオも含まれていた。
擬知体中心の新社会体制が軌道に乗るまで、まだまだ表舞台から退くことを周りから許されていない革命の立役者は今でも二人そろってどこそこへと招かれる機会が多く、ふたりとも成人しているとなれば自然と酒を勧められる機会も増えた。サプリ食で内臓の消化・分解機能が常人より退化している自覚があるラキオは、そのような公の場でも、もちろんむやみにグラスをあおったりするようなことはしない。乾杯に付き合い軽くアルコールで唇を湿らせたあとはタイミングをはかって、隣のレムナンの空になったグラスと取り換えてもらうことが常だった。
そんなラキオの態度が先方の目につかないよう、レムナンの方は勧められれば勧められるだけ、なんでもよく吞み、よく食べた。ただ、『ふつうに食べられるものが出てくればすごい』という、食事に対し誰よりも低いハードルをもうけている彼にまともなコメントを求めるだけ酷というもので、実際、とある島でしかとれないという希少な海産物を口にしたときも、彼の生まれ年よりも前から寝かされていたという何年物だとかいうワインを注がれたときも、レムナンは「おいしいです」と言って笑みを浮かべるだけであったが、その素直で素朴な反応は相手を喜ばせることが多かった。
そんなふうに、仕事付き合いでなにかと彼が飲酒する場に居合わせる機会が多かったラキオからしてみると、昨日のレムナンの姿は驚きに満ちていた。思ってみれば人の集まる場ではなく、レムナンが誰かとふたりきりでグラスを合わせることも昨晩がはじめてだったのだ。普段の彼は人から勧められるから吞んでいるというだけで特に酒が好きというわけでもない。だが、そんな彼も初めて味わうナダ土産の自然派ワインの味には感動したようで、すごくおいしいですと機嫌よくおかわりを繰り返していた。そう、最初はいつもより少しテンションが高いなという程度で普段の様子とそこまで違いは見られなかったのだ。
「あの、その……。僕は昨日、ラキオさんに……な、なにかその、失礼なことをしてしまったんでしょう……か……」
「失礼なことって?」
「だって、その、ほら。ふ、ふ、服を……着ていない、じゃないですか。シャワーの後でもないのに……」
「あぁ、服ね」
動揺を顔に浮かべ、視線を逸らしながら違和感を指摘したレムナンの言葉通り、彼らはふたりとも常になく身軽であった。未だに足を崩そうとしないレムナンは、上半身には何も身に着けておらず、下半身も下着で覆われているのみ。ラキオにいたっては下着すらも身に着けておらず、シーツの下は完全な裸だった。昨晩何かあったのではと彼が勘繰るのも当然といえるだろう。
「これを言うと君はまたうるさくなるかもしれないけど、まぁそうだね。君に脱がされたことには違いないね」
「ぬ……っ⁉」
生まれたままの姿でひとつのベッドにおさまっているラキオが、他でもない自分の手により生み出された状態であることを知ったレムナンは、いよいよ泣き出しそうにくしゃりと顔を歪めた。
「ぼ、僕はっ……僕は最低な人間です! こん、こんなっ、酔いの勢いに任せて、貴方を無理矢理……!」
「あぁほら、こうなると思った。だから言ったンだ。昨晩、僕は君に明日の朝自分の行動を後悔するだろうからやめておいた方がいいよと親切に忠告してやったっていうのに。君という酔っ払いはちっともこちらの話を聞こうとしないンだからまいったよ。ちょっと、そんな顔しないでくれる? これじゃあどっちが被害者か分からないじゃないか」
ラキオの口から出てきた『被害者』というキーワードで、レムナンの中では自分がまっさらだった恋人の身体を乱暴に暴いた加害者なのだという確信がいよいよ強まり、彼は小さくヒッと悲鳴をあげた。誰よりも大事にしたい人のはじめてを、酒に酔った状態で雑に奪って、しかもその記憶をまるごとなくしてしまっている。どうしようもないその最低な事実に、レムナンは今すぐ消えてなくなってしまいたいという気持ちで両手で顔を覆った。
「本当に……本当にごめんなさい……。なにをしても許されることじゃないと分かっています……」
「なに……? いつからここは大劇場の舞台上になったわけ? 大げさな悲しむ演技はよしてよレムナン。アルコールで少し羽目を外した程度で大げさな……」
「大げさなもんですか! ラキオさんとの初夜を台無しにしたんですよ、昨日の僕はっ!」
わっと常になく大きな声をあげたレムナンに驚き、豊かなまつ毛に覆われた目をぱちくりと瞬かせたラキオは、ややして彼の発言のおかしさに首を傾げた。
「……君、さっきから何か誤解してないかい?」
「……え?」
ラキオから昨晩記憶を無くしたあたりから今朝の状況にいたるまでの経緯を改めて説明されたレムナンは、再び羞恥から身体を小さくしてベッドの上でガックリと項垂れていた。
「よかったねぇ、レムナン。君の失態の内容が、服に飲み物をひっくり返してびしょ濡れにした挙句、このまま一緒に寝たいと駄々をこねてベッドに引きずり込んだ程度のことで済んでいて。さぞ安心したことだろう?」
「いや……全然、よくはないです……」
「あぁ、あと君は酔うとやたら口をどこかにくっつけたがる癖があるようだよ。口寂しいのかなンなのか知らないけど、僕の身体を好き勝手に口に含むのはやめ」
「待ってください。それ、やっぱり僕、貴方に手を出してたんじゃないですか⁈」
——幸いにして、レムナンがもっとも恐れていた合意なしに酒の勢いで一線を越えるというような事態は起きていなかったものの、その後ラキオとの認識のズレをすり合わせながら昨晩の反省会を行うのに、レムナンが随分と時間を費やすこととなったのは言うまでもないだろう。