稀泣き 隊員を引き連れて支部へと出掛けていたラキオさんが戻ってきたとの報せを受け、僕が入り口まで迎えに行くと、その時点でかの人の頬は随分と濡れていた。照明が直接あたっているところなんかは水の通り道がはっきり視認できるほどだったので僕は困惑した。髪や服は濡れていないから、天候や放水が原因でないことは分かる。そんな遠回しな推察をせずとも、一目見れば誰にでも分かるくらい、その人の頬がしとどに濡れている理由は明らかだった。
「ら、ラキオさん? 何があったんですか……」
僕の前に立つその人の二つの目からは現在進行形で次々と新しい滴が生まれてはこぼれ落ちている。眼球の外へと溢れ出た透明な体液は頬の上を滑り、顎先をつたってシャツの襟や地面に小さなシミを作っていった。その一粒一粒はごく限られた量なのだけれど、とめどなく湧き出ているせいで、美しく整った顔はすっかり濡れそぼっていた。
同行していた数名の隊員たちを自分の後ろに控えさせている司令の貴重な泣き顔は、今その人と対面している僕にだけ見えている。目から絶えず排出されている多量の涙とは裏腹に、ラキオさんは嗚咽することも取り乱すこともなく、不機嫌そうな表情だけを顔に貼り付けて、ただひたすらにはらはらと静かに泣いていた。
ラキオさんの泣き顔を見るの自体が初めてだったのと、その泣き方があまりに異様だったので、僕の脳内ではこの人の正体が実は人間じゃなくて、目からオイルか何かが漏れ出す故障を起こしたんじゃないか……なんて、おかしな妄想まで浮かんでくる始末。
いつまで待っても口を開かないラキオさんと、いつもとは違う様子のその人に狼狽している僕を見かねたのか、ラキオさんに同行していた隊員のうちの一人が事情を話してくれた。
なんでも、支部から帰る前に中級市民船で行われていたデモ行進の様子を覗きに寄ったところ、妨害に現れた政府派遣の制圧部隊が放った催涙弾に巻き込まれたのだという。隊員達は支給品の情報端末兼用ゴーグルを装着していたので無事だったが、見映えが気に入らないとゴーグルの着用を拒否していたラキオさんだけが刺激性ガスの餌食となって——今、この状態にあるということらしい。
「……半分は自業自得じゃないですか」
「ぅ、るさい」
基地へと戻ってきてからはじめて聞いたその声は掠れていて、今までラキオさんが沈黙を貫いていた理由を察したのだった。
***
「寝る前にもう一度、目薬さしておきましょう」
キャップを外した点眼薬を片手に構えた僕がそう促すと、ベッドに腰掛けたラキオさんは大人しく顔を上に傾けた。
反射で目を瞑ってしまわないよう、両瞼をそっと二本の指でおさえ、その隙間から覗くピーコックブルーにめがけて、二滴薬を落とす。右、左と同じことを繰り返して、終わりましたと僕が離れると、ラキオさんは薬液を眼球全体に浸透させるようにパチパチと何度か瞬きをした。出会った時から変わらず、メイクを施していなくても十分に長く濃いまつ毛の束が上下に動く様子は蝶が羽ばたくさまに少し似ている。
瞬きを終えてゆっくり目を開いたラキオさんの両頬で、今できたばかりの涙の筋が光っている。昼間とは違って、これはただの目薬だけど。
「まったく……今日は散々な目にあったよ。これまで非致死性ガス攻撃の類は加害目的というよりはただの威嚇行動に近いものだと認識していたけど、半日以上も視界に影響を及ぼすというのはなかなかタチが悪い。ねぇ、僕達もああいうの取り入れようか」
「その前にラキオさんはちゃんと外出の際ゴーグルを着用してください」
「じゃあ、僕に似合うように発明者の君が責任をもってデザインを改良してくれる? 僕がいくら着こなしを工夫したところでまず頭の大きさが合ってないから、どうしたって不格好になるんだよ」
「ラキオさんが小顔すぎるんですよ……」
とはいえ、視察のたびに泣き腫らした顔で帰ってこられるのはこちらとしてもいい気はしない。僕は今週のタスクにラキオさん用のゴーグルの改造を追加した。
「今日一日で一生分の涙を流したよ、きっと」
「僕も、今日だけで貴方の泣き顔を山ほど見ました」
「見てて面白いものでもないだろうに、他の仕事をほっぽり出してずっと横についているなンて……。反政府組織のリーダーって思ったより暇なンだね」
「じゃあ涙が止まらなくて一日を棒に振ることになった反政府組織の司令官は思ったより間抜けなんですね」
「フン……君もなかなか言うようになったじゃないか」
ラキオさんはいつまで経っても目の下を拭おうとしない。昼間、壊れた蛇口のごとくずっと涙が止まらなかったものだから、拭き取っても無駄だという認識ができあがってしまったのかもしれない。
僕は泣くという行為に慣れていないその人に代わって、親指の腹で濡れた頬をぬぐった。乾燥している皮膚がじわりと目薬の残滓を吸収する。
「ティッシュかタオルを使ってよ」
「今近くにないんだから我慢してください」
数回同じ動作を繰り返すと、ラキオさんの顔はすっかりいつもと同じになった。澄んだ瞳は潤んで揺れているようなこともなく、しっかりと光を宿している。ラキオさんの強固な自我と芯の強さはどうしても敵を作りやすいけれど、その分自分に無いものに憧れる人間たちを惹きつける不思議な魅力がある。それが現在革命に向け活動を共にしている組織の構成員たちであり——僕だ。
ときにこちらを小馬鹿にするような笑い声にはカチンとくることもあるけど、この人にはずっと笑っていてほしい。密かにそう願い続けている。
「できれば……僕は、ラキオさんの泣き顔はもう、見たくないです」
「そう。改良されたゴーグルの仕上がりを楽しみにしているよ」
今日一日の感想をあいまいな願望で締めくくった僕を見て、ラキオさんはにんまりと笑った。
***
「過去に僕の泣き顔はもう見たくないと言っていたのはどこの誰だったかな。おかしいよね。その張本人から泣かされることになるなンてさ。君もそうは思わないかい?」
僕の二の腕あたりに頭を置いて横になっているラキオさんは、少し、ほんの少しだけ怒っている。疲れているから今日は無理だと止めたのにも関わらず、僕が二回目を強行したからだ。なにを、とは口にするまでもないだろう。
「ちゃんと、貴方の希望する目標就寝時間までに終わらせたじゃないですか……」
「ハン! 最低ラインを守っただけのことで開き直ンないでくれる? 明日の休みはふたりで少し遠出したいって君が言うから今夜は一回でやめておけと言ったのに。ついに君は言葉を忘れた獣に成り果ててしまったのか。あぁ嘆かわしいことだね」
「……ラキオさんだって、最中はろくに口がまわらないくせに」
「あン?」
本当にいつものことながら、終わった途端よく喋るわ、悪態は吐くわ……。ピロートークと言えば聞こえはいいが行為後の僕らに甘さなんてまるでない。幾度となく繰り返してきたこんなやりとりさえも第三者から見ればバカップルの戯れとして一蹴されてしまうのだろうか。
僕は黙ってすぐ目の前にある大切な人の顔を見た。距離が近過ぎて、少し輪郭がぼやけている。それでも、同じく口を閉ざしたその人もまた僕の方をじっと見ていることは分かった。基本的にラキオさんは自分から目を逸らさない。だから、僕が見つめることをやめるまでふたりはずっとこのままだ。
人工物ばかりのこの国で、海の青と森の緑が混じり合った色を持つ唯一無二の瞳は、革命を終えた今となっても鮮やかに輝き続けていた。強い意思を宿したこの綺麗な目が、絶望に、諦念に、悲嘆に染まり、特別な意味を含む涙に濡れることが無かっただけでも、僕が革命に手を貸した甲斐はあった——そう、思う。
「ベッドの上以外では、泣かないでください」
僕がそう溢すと、その人は馬鹿じゃないのと言って小さく笑った。