突き動かすもの 第二級白質市民であるラキオが裏で反政府運動に関わっていることが政府関係者の知るところとなった。
レムナンがそのことを聞かされたのは月曜日の朝のことだった。一週間の始まりの日。いつもの時間に起床していつもの席で朝食を摂っていたレムナンの前に、身支度をすっかり整えた隙一つないいつも通りのいでたちのラキオがやってきて、平坦な声で言った。
「政府から呼び出しを受けたから、今日からしばらく留守にするよ」
当人があまりにもなんでもないことのように、それこそ寄り道するから帰りが遅くなることを報告する時と同じようなトーンで言うものだから、レムナンははじめ事態の深刻さに気付くことができなかった。あぁ、はい。分かりました……なんて平々凡々とした返事を寄越そうと開いた口が何の音も発さぬまま中途半端な形で固まると、その隙間からはくりと空気だけを吐き出した。ワンテンポ遅れてラキオが告げた内容の重大さに気付いたレムナンは、大きく見開いた両の眼で傍らに立つその人を仰ぎ見た。
「え……? それ、って」
「どうも過去に交渉を持ち掛けた相手の中に、僕のことを自国の反乱分子として密告した人間がいるようだね」
「みっ……!?」
「上に告げ口をしたところでたいした謝礼も出ないだろうし、ましてや階級をあげてもらえるわけでもないのに。どうしてこんな無駄なことするんだろう。単なる僕への嫌がらせかな?」
同じグリーゼ人でもずいぶんと暇を持て余している輩もいるものだねぇ、などと自らの額に片手を添えたラキオはやや芝居がかった仕草でやれやれと首を横に振っている。シニカルなラキオの物言いも、飲みかけのコーヒーも、指先についたパン屑もいつも通りなのに、たった今ラキオが打ち明けた事実だけが日常からひどく浮いていた。
「そ、その……、呼び出し、って具体的に何を……」
「さぁ? 密告者が誰にしろ、僕らが反政府運動を行っているという証拠はおろか、交渉を持ちかけたという記録もなにも残していない。僕が現政府に対しなにがしかの反撥心を持っている疑いはかけられるだろうけど、物的証拠がない以上そう重い処罰は下されないはずだよ。せいぜい椅子に縛りつけられてあくびが出るほど退屈な愛国教育でも受けさせられるってとこじゃない?」
ラキオが口にした予想しうる処遇とやらはレムナンの耳には十分不穏な響きに聞こえたが、グリーゼという国が国民をどう扱い、どんなに非情な処罰を下すのかを既に知っている彼は、ひとまずはラキオにすぐそういった最終段階の処分がなされる可能性はなさそうだと知り、肩に込めていた力を少しだけ抜いた。
「あの、じゃあ帰りはいつ頃になるんでしょう? 土曜日くらい、ですか?」
「正式な通知を受けていないからなんとも言えないけど、そうだな……。過去の例を参考にするなら一か月後ってとこかな」
「い、一か月!?」
ひっくり返った声を整えるように咳ばらいを数回繰り返したレムナンをラキオは呆れたような目で見つめている。
「な、長すぎませんか」
「そう? 年単位での勾留も珍しくないからこれでもマシな方だと思うけど」
「その呼び出し、絶対行かなきゃ駄目なんですか……? 証拠もないなら、無視する、とか……」
おずおずと、気弱そうな顔に似合わず大胆な提案をする異邦人を馬鹿にするようにラキオはハンッと笑った。
「僕らが周囲の目をそこまで気にせずに定期的な集会を続けられている理由を忘れた? 君を含む主要構成メンバー達は僕の研究をサポートする助手及び実験に必要な被験者という名目で国に届け出を出している。反政府運動を行っているという最重要機密を明かしていないというだけで、僕らに繋がりがあって定期的な集会を行っていることを上はとっくに把握済みなんだよ。僕が今回の呼び出しをバックレたところで今度は君たちがより厳しい取り調べを受けることになるだけだ」
ラキオの話を聞けば聞くほど、今回の呼び出しを無視するわけにはいかないのだということはレムナンにも理解できた。しかし、頭では理解しつつも、レムナンの心中では凄惨な過去の経験により培われた彼の直感がラキオを行かせるべきではないと声高に訴えていた。
「ラキオさんが一か月もいないとなると……その、困ります」
「僕がいないと何もできないって? ハッ、そんな子どもみたいな甘えを僕が許すとでも思ってるの? ……でもまぁ、たしかにトップの座が空きっぱなしじゃ他の者達も動きづらいか。そうだな。それなら僕がいない間は君がリーダーを務めるんだ。分かったねレムナン」
「……えっ!?」
レムナンとしてはラキオを引き留められないだろうかという僅かな期待からこぼした発言だったのだが、思わぬ形で藪をつついて蛇を出してしまった。
「ど、どうして僕が」
「僕と一番行動を共にしていたのは君だろう? 適任だ。そのオドオドとした態度には若干の不安も覚えるけど、案外隊員たちとの信頼関係は僕よりもうまく築けているようだしね。まさか君が人心掌握能力に長けているとはここに連れてくるまで気付かなかったよ。君ならトップの代理人としてまわりから反論も出ないンじゃない」
タチの悪いいつもの冗談かと思いきや、どうやらラキオは本気らしい。ゴクリと唾を飲み込んでそれ以上言葉を発せずにいるレムナンをよそに、無機質な呼び出し音がふたりのいる室内に鳴り響いた。
「……迎えが来た。じゃあね、レムナン。僕が留守の間のことは頼んだよ」
何の未練もなさそうに出口へと向かっていくラキオの背中に向かって、レムナンは慌てて声を掛けた。
「ラキオさん! 僕、その、待ってますから……っ! ぜったい……絶対、無事に、帰ってきてください!」
分かっているとでもいうようにレムナンに背を向けたままひらりと片手を振ったラキオは、見送りの言葉には振り返ることのないまま、いつも通り一ミリも後ろ暗いことがないというような凛とした姿勢で玄関を出て行った。
***
ラキオが連れていかれたその日、隠れ蓑としている活動拠点の研究所に組織の主要メンバーを呼び出したレムナンは簡単に現在の状況を説明した。メンバーの反応はさまざまだった。驚きの声をあげる者、恐れから声を失う者、動揺から持っていた端末を取り落とす者。だが、さすがラキオに選ばれた精鋭たちなだけあって、彼らが状況を理解し事態を受け入れるまでそう時間はかからなかった。
「というか今まで尻尾を掴まれなかったことが奇跡みたいなものですよ」
「そうそう。もちろんラキオさんの計略あってこそでしょうけど、レムナンさ……いやリーダーの働きも大きいですよね」
「え、僕……ですか」
今まで絶妙な塩梅で法の網をかいくぐり、徐々に組織を大きくし協力者の数を増やしてこれたのはラキオの頭脳あってこそとはレムナンも思っていたが、そこに自分の名前も並べて出されたことにより、彼は狼狽えたように聞き返した。
「そうですよ。リーダーの視点……というか感性? といった方がいいのかな。それって僕たちグリーゼ市民が持っていない物が多くて。驚かされることも多いけど、裏を返せば相手も予測不可能な作戦を立てやすいというメリットに繋がるんですよね」
「はは……そんな風に思ってくれてたんですね……。考え方が違い過ぎてラキオさんとはしょっちゅうぶつかってしまうんですけど……」
「ふふ。その光景ももはやここでの名物みたいなものですしね」
一人が笑ったことで隊員たちの間に和やかな空気が流れる。こうして音声を使った会話で軽い冗談のようなことを言い合うだなんて、結成当初からは考えられなかった光景だった。そのきっかけとなったのも、やはりラキオが外の世界からわざわざ連れてきたという、レムナンの存在が大きいと言えるだろう。
「……ラキオさん、早く戻ってきてくれるといいですね」
「……はい。それまで、僕達は僕達にできることをして待ちましょう」
「怠けていたら帰ってきた時に説教間違いなしですもんね」
残された隊員達はラキオがいない不安や心細さを誤魔化すように、自らを鼓舞し笑った。
***
月曜日の朝に連行されていったラキオが帰ってきたのは、同じ曜日の夜のことだった。その時間ちょうど夕食を摂っていたところだったレムナンは玄関の方で聞こえた物音に最初こそ怪訝そうに険しい表情を浮かべて警戒の姿勢をとっていたが、すぐにその可能性に思い至ると慌てて椅子から立ち上がり扉の方へと駆け足で向かった。
「ラキオさん!」
扉の向こうに立っていたのはレムナンが予想していた通りの人物だった。ただしその姿はレムナンの記憶の中よりずっと精彩を欠いていた。
ラキオを送ってきたらしき自動運転車が去ってもなお声も発さずぼうとその場に立ち尽くしている。尋常でない様子にレムナンはいよいよ心配になり、ラキオの両肩を掴んだ。
「ラキオさん? 大丈夫ですか?」
「……あぁ」
一応レムナンの呼び掛けに反応はするものの、常とは異なるふわふわとした言葉しか返さないラキオの様子はどう見てもおかしかった。事情を聞くにしろ、体調を確認するにしろ、まずは中に入ってからだと判断したレムナンに手を引かれリビングまで連れて行かれる間も、ラキオは不気味なほどに大人しかった。
いつものソファにラキオを座らせ、その前に跪く形で向き合ったレムナンは、ぼんやりとしたラキオの意識を自分に向けるようにその両手を握り、話し掛けた。握った手は傷ひとつついていないものの、やけに冷たい。
「ラキオさん。まずはおかえりなさい。帰ってきてくれて、嬉しいです」
「うん」
「あの……少しだけ質問をしてもいいですか?」
「……僕からも、ひとつだけいいかい?」
ラキオが二言以上の言葉を話したことに少しだけホッとした気持ちでえぇどうぞと先を促したレムナンは、その問いの中身を聞いて凍り付くことになる。
「君の……名前がなんだったか、教えてくれる?」
「え……」
今度はレムナンが言葉を失う番だった。
まさか、記憶喪失? それで様子がおかしかったのか? これは人為的なもの? 混乱状態による一時的症状だろうか。それとも……
ラキオは絶句するレムナンを見て、少し気まずげな様子で口を開いた。
「……誤解しないでほしいンだけど、僕と君がどういう経緯で今共にいるのかは分かっているよ。もちろん君の人となりもそれなりに把握しているつもりだ」
「え、そう……なんですか」
てっきり存在自体を忘れられたのかもしれないと顔を紙のように白くして、絶望に飲み込まれる寸前だったレムナンは、ラキオの言葉に少しばかり救われた気持ちで、目の前の顔を見つめた。いつものメイクが施されていない素顔は、顔色の悪さを誤魔化せてはいない。早く休ませた方がいいとは分かっている。でも、せめてこの問題だけは先にハッキリとさせておくべきだとレムナンはラキオの言葉に耳を傾けた。
「ただ……なんというか、少し脳をいじられたせいかな。肝心なパーツがいくつか抜け落ちた感じがある。……うまく、思考がまとまらない。君の名前も、今すぐには思い出せない場所にある」
脳をいじられた、というワードにレムナンは身体を震わせた。それはつまり、表向きは何のダメージも与えていないように見せかけて、その実この人の最も大切としている器官に奴らはなんらかの危害を加えたというのか。
「……僕の名前は、レムナンです」
ずっと前、ふたりが出会ったD.Q.O.での自己紹介と同じように自分の名前を明かしたレムナンの名乗りを聞いて、ラキオはあぁと納得したように頷いた。
「レムナン。……そうだ、レムナン。ごめん。名前を忘れるなんて」
ラキオの口から滅多に出ることのない素直な謝罪の言葉を聞いて、レムナンはいつも自信に満ち溢れているその人が弱っていることを嫌でも察してしまった。
「貴方はなにも悪くありません。……詳しいことはまた明日、話しましょう。今日はもう休んでください。さっきからずっと、顔色が悪いです」
「あぁ……そうさせてもらうよ。どうにも頭痛が酷くてね」
ラキオの訴える頭痛はどうやら相当症状が重いようで、レムナンが寝室へと連れて行ってからもラキオは横になりながらうんうんと顔を顰め唸っていたが、彼が飲ませた鎮痛剤と睡眠薬が効いてきたのか三十分も経つとすとんと眠りについた。
その寝顔を眺めながらレムナンの目はもっと遠くの何かを見つめていた。——いや、睨みつけていた。
雄弁な口を黙らせるほどの疲労と、記憶の一部を欠けさせるほどの苦痛を生む罰とはいったいどんな内容だったのだろうか。この一か月、この人はどんな生活を強いられていたのだろうか。よりによって、何よりも知性を重んじ、自身の行動指針ともしているこの人の、脳を傷つけるだなんてこの上ない尊厳の破壊だ。アイデンティティの侵害だ。
今のレムナンを襲う気持ちは『悲しみ』と表現するほど輪郭の丸い感情でもなく、『恐れ』と呼ぶほど温度の低い感情でもなかった。
ふつふつと、心の内で湧き上がる攻撃的で暴力的なまでの強い衝動——これは、『怒り』だ。
僕の身体も僕の心も僕自身のものであることを教えてくれたこの人が、何故祖国からこんな仕打ちを受けなければならないのか。この人が国を滅ぼそうとしているグノーシアやAC主義者だというならまだ分かる。だけど、この国の未来を、この国の民の将来を憂いて、革命を起こそうと踏み出した勇気あるこの人の何がそんなに悪いというんだ。
レムナンには分からなかった。グリーゼという国を今の状態にした、そして現在進行形で自分の恩人を苦しめている上の人間たちの考えが分からなくて、分からないモヤモヤが全て怒りという感情に変換され、レムナンの中に蓄積されていった。それは朝になってラキオが目覚めるまで一晩中続いた。
「昨日は面倒をかけて悪かったね。もう大丈夫だから」
朝になって擬知体による身体スキャンで健康状態を確認したのち、しばらくの間ラボに籠っていたラキオは、心配で扉の前をずっとうろうろしていたレムナンをよそにすっかり元気な様子で部屋から出てきた。
「えっと、……僕の名前分かりますか?」
「レムナンだろう? もう忘れないよ」
フンと鼻を鳴らし、彼の名を呼ぶラキオの様子はすっかりいつも通りといった感じだ。ラボで何をしていたのかは分からないが、すっかり調子が戻ったらしい。安心したレムナンがぐぅと腹の音を鳴らしたのを合図にふたりはダイニングへと移動することにした。
「——といった具合でさ。いや、思っていた以上にひどい環境だったよ。僕が模範的従順な被疑者を徹底的に演じていたから最短拘束期間で解放されたものの、あれがもう一か月続くと言われたら何が何でも脱走していたね。あの尋問官の顔! 今思い出しても吐き気がする」
もそもそとトーストを頬張るレムナンの前で、一か月ぶりに言論の自由を取り戻したラキオのおしゃべりは止まる様子を見せず、先ほどからずっと自分の勾留されていた施設がいかにひどく、時代遅れで、非人道的なものだったかをレムナンにこんこんと語って聞かせていた。
その話によれば、ラキオが施設で受けた仕打ちは、脳に過剰な負荷をかけ思考力を低下させ、促成学習装置をベースとした機械を頭に取り付け、国に対する反撥心を強制的に削り取る——そんな、講習とは名ばかりの洗脳めいた仕置きが毎日続いたらしい。これに尋問が加わったとなると、気の弱い者なら一か月で廃人になってもおかしくない。レムナンは昨日玄関先で見たラキオの憔悴しきった顔を思い出し、それを記憶の底へと押し込むように冷めたコーヒーを喉奥へ流し込んだ。
「……聞けば聞くほど、今貴方がここにいて、会話できていることが奇跡に思えてきました」
「フン、当然だろう。あんなところでまんまとやられる僕じゃない。だろう? 対策だってしっかりしておいたおかげですっかり元通りさ」
「対策? ……あ、さっきラボでこそこそやってたアレですか?」
「コソコソなんてしてないよ。まぁでも一応個人情報だからね。促成学習装置を応用して僕の思念と大まかな記録をデータとして残しておいたのさ。さっきインプットが完了して、施設で植え付けられたノイズを逆にリムーブした。お陰で思考矛盾がなくなって頭の中がスッキリしているよ。昨日までは残存する自我と無理矢理植え付けられた愛国心の狭間で脳が常にシェイクされているような感覚だったからさ。備えあれば憂いなしだね」
「捕まったのが君達のうちの誰かならこうも早く立ち直れていないよ? 呼び出し対象が僕でよかったよね」などとなおも上機嫌に話しているラキオの顔と対照的に、レムナンの顔は昨晩一睡もせず濃くなった隈のせいもあり、お世辞にも機嫌がよさそうとは言えないものだった。
「せっかく僕が戻ってきたっていうのに、君ってば全然嬉しそうじゃないね。歓迎しろとまでは言わないけど、せめてもう少し安心した笑顔のひとつでも見せたらどう? 久々の我が家に帰ってきて、眺めるのが同居人のシケた顰め面じゃあまりに僕が報われないだろう」
ラキオの言葉を受け、レムナンの顔がますます険しくなったようにも思えたが、彼は言い返さなかった。その代わり、昨晩からずっと彼の頭の中を占めていた決意を伝えるべく、レムナンは口を開いた。
「ラキオさん……僕、考えたんですけど」
「なに?」
「この先も、僕にリーダーを任せてくれませんか。代理じゃなくて——正式に」
——のちに、敵味方問わず恐れられることになるグリーゼの反政府組織新リーダー誕生の瞬間であった。