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    mona5770

    Twitterに投げたネタをちょっとまとめたメモ置き場
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    mona5770

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    (燭へし)2021.8.11ワンドロワンライ「海」

    海にくるつもりはなかった見間違えかと思った。
    いつもこの駅で電車に乗ってくるはずの人が目の前を通り過ぎていく。
    直行なの?でも長谷部さんの仕事で直行するとしても役所とかセミナーとかくらいで。
    この電車を降りる必要はないはずだ。
    発車のベルが鳴って慌てて僕も電車を飛び降りた。
    どこへ行くんだろう。
    人波に逆らうように歩く彼の背を見失わないように足早に追いかける。
    会社とは逆方向のホームに停まる電車にあたりまえのように長谷部さんは乗り込んだ。
    ガタンと動き始める電車は次第に僕たちの会社から遠ざかっていく。
    急ぎの仕事はなかったはずだ。
    今日の予定をひとわたり確認すると、僕はスマホを取り出してと部署の連絡チャットに「通勤中に体調が悪くなったので今日は休ませてください」と打ち込んだ。

    ターミナル駅から離れるほどにスーツ姿の人間、部活だろうかジャージを着た学生とすこしづつ人が減っていき、離れて座る僕からも長谷部さんの顔が見えるようになった。
    すっかり人がいなくなった車内には小さな子どもをつれた家族連れと、退職後だろうか年配のご夫婦らしき姿が見えるだけで、ジャケットこそ着ていないけれどいかにもサラリーマンといった姿の彼はどこか浮いていた。,
    スマホを触るわけでも本を読むわけでもなく、ただ外を見つめている長谷部さんの横顔からは何も読み取れない。
    たとえば遠くに行ってしまいたいだとか、考えたくないけど命を絶とうと考えているとかそんな悲壮感は感じられず、彼が一体何を思ってこの電車に乗っているのか僕には全然わからなかった。
    カタンカタンと電車は進んでいく。
    高層ビルが立ち並ぶエリアから工場、住宅といった低層の街並みに変わり、そしてそれが緑の木々や山に変わったかと思うと遠くにキラリと光るものが見えた。
    海だ。
    木々の合間からキラキラと光を見せる海が呼んでいるような気がして僕は立ち上がると、ぼんやりと外を見つめる人前に立った。
    「光忠?」
    どうしてという彼に手を伸ばし「降りよう」とその手を握ると僕は海に続く駅に降り立った。
    「海に行こうよ」
    違う場所に向かっていたとも、予定があるのにとも言わずに長谷部さんは「会社には連絡したのか」」といった。

    夏休みも残りすこしといった平日。
    海水浴には時期外れの時期だけあって駅に降り立つ人間は僕たちだけで、海に向かう道沿いに並ぶ店もほとんど閉まっている。
    「夏ももう終わりだな」
    陽射しはまだ暑いけれど空に浮かぶ雲は夏のものとはすこし姿を変え、頬を撫でる風もどこかしら秋の匂いがした。
    砂が入るのが嫌で革靴と靴下を脱ぐと裸足で砂浜を歩く。
    「あっつ!まだ夏だよ!」
    「お前意外と子どもみたいだな」
    「長谷部さんも!ほら!」
    手をひいて砂浜を走ると「おまえ、ちょっとやめろ」と慌てる声がして、その珍しい声色が楽しくて僕は彼の手をひいて波打ち際へと走った。
    「こら、濡れる、待て!」
    波打ち際ぎりぎりで足を止めると犬か!おまえは! とあきれた声を出した長谷部さんは、靴と靴下を脱ぐとスラックスをまくり上げるとザブザブと海へ入っていった。
    「え、ちょっと待ってよ」
    足を拭くタオルも着替えもないのに。
    ざざんという波の音、遠くに聞こえる海鳥の声。
    「冷たくて気持ちいぞ」
    そういうと長谷部さんはううんと伸びをして、ああ気持ちいいなと声を漏らした。
    「ねえ、どうしてあの電車に乗ったの?」
    「そうだな。どこでもない場所に行きたくなったのかもな」
    別に悩んでいるわけでも追いつめられているわけでもないぞと言いながら、わずかに眉を下げるとなんだか遠いところに行きたいなと思ったんだと小さく続けた。
    ぽいと靴を砂浜に投げると、僕もスラックスをまくりあげ海にざぶざぶと入っていく。
    なんだか捨てられた子供みたいな顔をした人をひとりにしておけない気がしたから。
    波がひくと、足元の砂や貝が波に誘われざあっと足元から沖へと流れていく。

    「全部なくなったような気がしたんだ」
    この波にさらわれていく砂のように、自分の傍にあったものが全部なくなったような気がしたのだと言って長谷部さんは空を見上げた。
    見上げる空は青いけど、それはもう夏のあの透き通るような青ではなくて、どこかふわりと柔らかい布をかけたような秋の青だった。
    僕には変わらないように見える彼を取りまくいろいろなものが、婚約解消という波によってざあっとその色を変えていったのだろう。

    「僕がいるよ」

    手を伸ばして彼の腕を握る。
    「何もかもなくなっても、僕が隣にいるから」

    ざざんと波の音だけが響く。

    「バカなことを言うな」

    あの雨の日、熱に浮かされるようにつながったあと「犬にかまれたとでも思え」という彼に「忘れる気はない」といったら同じことを言われた。
    そのあと彼は何もなかったようにふるまったけれど、僕は思う通りににはなってやる気はなかった。
    今日だって放っておけば消えてしまう気持ちだったのかもしれないけれど、そんなの許さない。
    僕はもう君を離すつもりはないんだ。

    「君が何と言おうと、何をしようと僕は君の隣にいるし、離れるつもりはないから。君が好きだよ」

    何度も何度も、寄せては返す波のようにそう告げる僕に「わかったから」と言うと長谷部さんは「降参だ」と小さな小さな声でそうつぶやいた。

    夏が終わる海で、僕はようやく彼を捕まえた。
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