その話はほんとですか?「これ、内緒なんだけど」
営業会議が終わって部屋の片づけをする僕に近づいてきた加州さんが耳元でこそりと囁いた。
社内一の情報通の彼はたまに「まだ内緒の話なんだけど」とどこから手に入れたのかと驚くネタを落としていく。
それはクレームまがいの指摘をしてきた取引先担当者のちょっとした攻略法だとか、朝から機嫌が悪い上司が好きな限定品のことや、誰ひとり知らなかった社内カップルの婚約、そして辞令前の昇進や異動まで多岐にわたっている。
何度も助けられた僕は情報料がわりのお礼の品ーー期間限定のスイーツが多いーーを差し出しながら「どうして教えてくれるんですか?」と尋ねたことがある。
「お前さ、すごい要領がよさそうなのに不器用なとこがあるから気になるんだよね」
あとまあ長谷部の弟子だから?と加州さんは「長谷部には内緒ね」とふわりと笑った。
どこまで本気なのかよくわからないけれど、同期である長谷部さんと加州さんはまるで対照的なのに存外仲がいい。
それがうらやましくて、すこし悔しくもあるのだけれど。
管理本部の長谷部さんはもともとは営業本部、それも僕が配属された営業一課にいた人だ。
僕が入社するタイミングで異動になった長谷部さんの顧客をかなり僕が引き継いだこともあり、どうやら僕は長谷部の弟子という扱いらしい。
引継ぎで何度か同行してもらったけれど、その数回だけで仕事ができる人だということはよくわかった。
前任者と比較されるのはあまり気持ちがよいものではないはずなのだけれど、長谷部君は~という話をされるのは全然嫌じゃなかった。
どんな話でも彼のことなら聞きたかった。
けれど。
「今日はなんの話ですか?」
「ほんと内緒だよ」
念を押す加州さんの表情はいつものようないたずらっ子のそれではなく、まるで剣士のような熱と鋭さを秘めていた。
「はい」
冗談めかして答えることができず、僕もまるで誓いをたてるかのように重々しくうなづいた。
「婚約寸前で白紙にされたって」
「……それって」
「うん、長谷部」
聞かなくてもわかった気がしたけれど、思わず確かめずにはいられなかった。
もうそろそろ婚約じゃないのかという話を耳にしたのは少し前だったと思う。
1年ほどまえに長谷部さんに取引先から持ち込まれた見合い話は誰もが「逆玉の輿」だと羨ましがった。
うまくいけば後々はうちよりも安定した会社の後継者となるだろうその話を長谷部さんはしばらく躊躇したものの受けた。
おそらくその話を受けたことで長谷部さんは営業から、経営よりの部署に異動になったのだというもっぱらの評判だ。
そう、僕が入社したときにはすでに長谷部さんには婚約間近のお相手がいた。
それを耳にしたときは道を歩いていていきなり穴に落ちたような、目の前がくるんと真っ黒になったような気がしてしばらく声が出せず、次の日同行してくれた長谷部さんの顔がまっすぐ見られなかった。
「昼飯食うか」
あの日何を食べたのか僕は覚えていない。
長谷部さんはシラスのかき揚げ定食だった。
「サクサクしてうまいぞ。食うか?」
箸で僕のために天ぷらを割ろうとしてくれる指を見てふと僕は「指輪しないんですか?」と口にしていた。
「ん?なんだお前もそういう話が好きなのか?」
「別にそういうわけじゃないですけど、みんながもう婚約してるんだろって言ってたから」
「まだしてない」
「でもするんですよね」
どこか拗ねた口調になってしまったのはあこがれの人を取られるような気がしたからだ。
「……そうだな」
「好き、なんですよね?」
「好き、か」
ふーと息を吐くと「お前、案外ロマンチストなんだな」と長谷部さんは笑った。
笑っているのに笑ってないような、そうまるで泣く寸前の顔みたいで僕はどう答えたらいいのかわからなくて、ただどこか物悲しい色をたたえる薄紫の瞳を見つめるしかできなかった。
そのあと長谷部さんにその話をしたことはない。
「婚約した」と耳にしたら「おめでとうございます」と言わなきゃいけないなと思いながらうまく言葉にできる自信がなかった。
「どうして、ですか?」
「知らない。でも白紙になったのはほんと」
僕は会議室を飛び出していた。
いつのまにか昼休みになっていたらしく、廊下にあふれる人を押しのけるようにして僕は社内を走り回った。
どこだどこにいる。
フロア、資料室、ミーティングルーム、給湯室。
昼休みが終わるのを待ってデスクで捕まえたほうがいいのだろうか。
そう思った僕の目の端にちらと光が射した。
階段の上に空が見えた気がした。
立ち入り禁止になっている屋上に向かう扉か。
そっと押したけれど普段使われない扉はギギギと大きな音を立てた。
屋上のフェンスにもたれ、一筋の白煙をふうと吐き出した男がこちらを向いた。
真っ青な、怖いくらい青く澄んだ空を背にした長谷部さんの表情は影になって見えない。
「もう昼休み、終わるぞ」
「あの」
探しに探したくせにいざとなると何と言ったらいいのかわからない。
どうしてですか。
どっちが言い出したんですか。
聞きたいのはそんなことじゃない。
うまく言葉をつづけられない僕をじっと見ていた長谷部さんの手からキンという音がして、キラリと光るものが弧を弧を描く。
「え、なに?」
空から落ちたものに手を伸ばすとそれはシルバーの指輪だった。
「好きなやつがいるんだ」
いつの間にか長谷部さんが目の前にいた。
「内緒だぞ」
すれ違う長谷部さんからはふわりと煙草の匂いがした。
「あ、の」
扉の前で振り返る彼の人差し指がすっと薄紅色の唇に押し当てられ、にやりと笑うアメジスト色の瞳にぽかんと口をひらいた間抜けな顔の僕がうつる。
内緒だぞ。